聖書のみことば
2014年8月
  8月3日 8月10日 8月17日 8月24日 8月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 必ずそうなる
2014年8月第2主日礼拝 2014年8月10日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第11章1〜114節、ローマの信徒への手紙 第1章25節

エレミヤ書第11章<1節>主からエレミヤに臨んだ言葉。<2節>「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。<3節>彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。<4節>これらの言葉はわたしがあなたたちの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたものである。わたしは言った。わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。<5節>それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった。」わたしは答えて言った。「アーメン、主よ」と。<6節>主はわたしに言われた。「ユダの町々とエルサレムの通りで、これらの言葉をすべて呼ばわって言え。この契約の言葉を聞き、これを行え。<7節>わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。<8節>しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる。それを行うことを命じたが、彼らが行わなかったからだ。」<9節>主はわたしに言われた。「ユダの人とエルサレムの住民が共謀しているのが見える。<10節>彼らは昔、先祖が犯した罪に戻り、わたしの言葉に聞き従うことを拒み、他の神々に従ってそれらを礼拝している。こうしてイスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖と結んだ契約を破った。」<11節>それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らに災いをくだす。彼らはこれを逃れることはできない。わたしに助けを求めて叫んでも、わたしはそれを聞き入れない。<12節>ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。<13節>ユダよ、お前の町の数ほど神々があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を設けた。<14節>あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」

ローマの信徒への手紙第1章<25節>神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

 エレミヤ書11章に聴きます。

 11章4節に、「あなたたちは、わたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」とあります。ただ、そこには条件が付いています。「神の声に聴き」「神との約束を行う」ことが必要条件となっています。それは、人間と神との関係を成り立たせるものです。 
 聖書は、その初めから契約関係で書かれているといっていいでしょう。エデンの園で神は、木の実を取って食べるなと命じました。このことが示すように、神は、常に人間との約束を交わします。 

 考えてみれば、人間社会も、法治国家であれば、約束(信頼)の上に成り立っているといえます。
 わたしは、かって6年ほど刑務所の教誨師をしたことがあります。大変良い経験をさせていただきました。その特典として、所内に職業訓練ということで散髪する施設があり、格安の値段で散髪をしてもらうことができました。当時はまだ、わたしにも硬い毛がいっぱいありましたから散髪を定期的にしなければなりませんでしたが、その頃で散髪代が1,500円前後かかり、当時の経済力では数カ月に1回しかできませんでした。しかし、刑務所内では100円でしてくれることがわかり、早速お願いしたのです。散髪代がたったの100円でした。大変助かりました(今は散髪代は0円です。行く必要がなくなりましたから)。脱線しましたが、そんなことを言いたいのではなく、それも契約関係だということを言いたかったのです。収容者が訓練で刈ってくれるのです。椅子に座ればまな板の上の鯉の如くに、頭を刈られ、髭を剃られるのですから、それは相当な覚悟が要りました。でも100円ですから…それには代えられません。そして今も健在ですから、数年刑務所の散髪にお世話になって無事だったということです。 
 大げさな言い方をすれば、散髪だけではなく、世の中のほとんどは、契約関係で成り立っています。国際的には条約が、国家には憲法が、学校等には校則が、諸法人には定款があります。私どもは憲法で守られているし、国家は憲法を守ることが求められております(参照「憲法主義」南野森、内山奈月、PHP)生活のほとんどが法で守られているのです。それは法治国家だからです。バスに乗るのも、レストランで食事するのも…などなど。ちなみに日本には、約2,000弱の法律があります。これだけの法で守られているわけです。最高法規の憲法で、支えられているのが日本の現実です。
 けれども、神と人との契約関係とは別次元のことですから混同しないように気を付ける必要があります。  

 11章をキーワードを拾いながら読んでいきます。
 先ず、「契約の言葉」(2節)という言葉が出ています。それに加えて「鉄の炉」とか、「乳と蜜の流れる地を与える」との約束が記されています。神の約束は、ユダの人々(イスラエル)に、はっきりと伝えられています。それに聞き従えば「わたしの民、あなたの神となる」と、神は確約してくださっているのです。神の約束ですから、これほど確かなことはありません。

 そして、5節後半に、「アーメン、主よ」という言葉が記されています。アーメンという言葉は、私どもにも馴染み深い言葉です。毎週の礼拝では、最低10回ほど唱えてます。「まことに、その通り」とか、「真実」「主よ、仰せのとおりです」(浅野順一)とか、「誠」という意味を持っています。文語訳では「誠に」、口語訳では「よく」、共同訳では「はっきり」となっています。ヘブライ語では「エレーナ」で、「堅い」という言葉の語源だといわれています。
 
その背後には、「必ずそうなる」という確信があります。(ローマの信徒への手紙1章25節)。「アーメン」という言葉を初めて口にしたとき、皆さんはどのような気持ちを持ったでしょうか。何とも不思議なものが心の中に残ったのではないでしょうか。それは、ある種の覚悟が必要だからです。神様への服従、神のご計画に参加させていただくという決断があったからでしょう。「神様がなさろうとしておられることがどんなことか分かりませんが、従います」という信仰が、このたった一言「アーメン」という言葉に凝縮されているからです。 
 このアーメンという言葉は、旧約聖書には多く出てきています(50節弱)が、エレミヤ書、エゼキエル書に1,2回、あとは集中して申命記27章に出てきます。それは、おそらくエレミヤが申命記と深いかかわりがあるからだと思われます。
 いずれにしても、エレミヤはここで「神の約束が堅い」と言っているのです。「神は約束を果たす方で、必ず乳と蜜の流れる地に導いてくださる」ことを、「必ずそうなる」という確信を言い表そうとしたのです。 

 3番目に、エレミヤのそのような思いとは違って、ユダの人々は神の約束を守らず、「契約を破った」(10節)と言っています。神は、約束を守る方なのにユダは約束を破ったというのです。神は心変わりすることはなく、あくまでご自身の意志を貫きとおす方です。

 8月になると必ず手にしたくなる書物があります。「きけわだつみのこえ」です。皆さんの中にも手にした方があるかと思います。先の戦争で、学徒動員を強いられた若き学徒たちの手記をまとめたもので、これは戦争の悲惨をある面から見たものとして貴重なものでしょう。
 そのなかに、26歳の日本帝国大学の数学科を卒業したクリスチャンの青年の手記が残されています。「そしてただ、キリストによる救いということが動かぬ世界への唯一の希望の懸け橋として残されているような気がします。その信仰も決して非常に強固であるとは敢えて申せませんが、他のもの、世の中のすべてに比べればはるかに切実なもののように思えるのです。」とあります。明日にも命が奪われるかもしれない不確実で、明日が信じられない時にもかかわらず、それでも「キリストによる救い」に唯一の希望をもって、その一日一日を生きた思いを読み取ることができます。
 
神は変わらない。神は人間の救いのためにどこまでも御心を貫徹なさいます。それが神の意志であることを聖書は告げています。この世のどんなものも並ぶものがないのです。それが神の救いの業であります。この26歳の青年は、それを信じて死んでいったことでしょう。

 最後のキーワードは、14節です。「祈ってはならない」という表現は、エレミヤ書以外にはありません。そして、2回出てきます(7章16節、11章14節)。エレミヤは、神から「ユダのために祈るな」と告げられます。これは神の裁きの厳しさを伝えています。
 祈りには、懺悔、感謝、賛美、懇願、とりなしなどの要素がありますが、「とりなしの祈り」は、キリスト者にとって大切な業です。困窮にある人のために、為政者のために、刑務所に収容されている人のために、とりなすことは、私たちに委ねられている務めでもあります。しかし、ここでは神がエレミヤに、ユダの人々をとりなすことを禁じています。
  ユダが契約を破り偶像に走ることに、神は横を向き、そっぽを向いて、呪いをあらわにしています。従って、神は、エレミヤに対して「としなしの祈り」を禁じています。これは、神の裁きの厳しさが示されているのです。
しかしそれは同時に、神の人間に対する激しい情熱がうかがわせます。神は人間を愛するがゆえに激しいのです。

 アーメンと唱え、「必ずそうなる」との信仰に生きている幸いを感じます。
 「アーメン 必ずそうなる」との信仰を与えられていることを感謝しつつ、今週も生きていきたいと願います。

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