2014年4月 |
||||||
4月6日 | 4月13日 | 4月18日 | 4月20日 | 4月27日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | 音声でお聞きになりたい方は こちらまでご連絡ください |
僕になりなさい | 2014年4月第4主日礼拝 2014年4月27日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
|
聖書/マルコによる福音書 第10章35〜45節 | |
10章<35節>ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」<36節>イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、<37節>二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」<38節>イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<39節>彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。<40節>しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」<41節>ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。<42節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<43節>しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<44節>いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。<45節>人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 |
|
35節〜、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出たことを受けて、主イエスの言葉が語られております。 40節「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」と、主は言われました。このところは少し深く読んでよいところです。たとえヤコブとヨハネが他の弟子たちに優っていたとしても、だからと言って二人を右に左にと定めることはしないと、主は言っておられます。このことは、私どももよく聴いておかなければなりません。 今の社会は、貢献の度合いによって報酬が支払われる社会です。昔と違って、評価は報酬によって決まるのです。 主は、人の上下関係を作るために来られたのではありません。神の恵みへと人々を向かわせるために来られたのです。 主イエスは、「わたしの決めることではない」と言われました。そして続けて「それは、定められた人々に許されるのだ」とおっしゃった、この言葉は印象的です。主がお決めになるのではない、父なる神がお定めになる、そのことを主イエスは言っておられます。それは、私どもにも、とても分かり易いことです。けれどもここで、主イエスは、お決めになる方を「神」とは言わないのです。「定められた人々に許される」と言われる。定められるのは神です。けれども父なる神の名を敢えておっしゃらないのです。それは、父なる神が弟子たちを評価して定められるとすることを控えておられるのです。 ですから、私どものなすことは、神に委ねることです。どれだけ貢献したか、一生懸命やったかということではないのです。神にすがる以外にないのだということを、主イエスは示しておられるのです。 41節「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」と言われております。他の十人は憤慨しているのです。そうだろうと思います。自分たちを出し抜いて…と思っているのです。けれども、そういう思いで憤慨する、それはヤコブとヨハネの二人と同列です。他の弟子たちも同じく、この世の価値観にあることが分かります。自分だって、ヨハネやヤコブに劣らずちゃんとやっていると思っているのです。それは誰しもが思うことでしょう。 評価に捕われない者として、主イエスは私どもを憐れんでくださるお方です。主イエスは弟子たちに、「まだ分からないのか」と憤慨したりはなさいません。主が語られたのは、ご自身のご受難でした。けれども弟子たちには分かりません。しかし、分かっていないことに対して叱ったりはなさらないのです。そして、12人を呼び、懇ろに語ってくださるのです。憤慨や叱責ではなく、主は哀れと思って、弟子たちに言葉をくださっております。 主イエスは、弟子たちを憐れんで語ってくださっております。42節「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」と。「異邦人の間では」、それは「真実な神を知らない人は」ということです。「支配者と見なされている人々」とは「支配者」のことですが、「見なされている人々」と言うことで、本当の支配者は「神のみ」であることを言外に言っておられるのです。人の上に君臨すること、それがこの世の支配者の在り方です。この世の権力は、人を支配するために、その力を用います。そのことをあなたたちも知っているだろう、そのような仕方で力を用いるのではなく、43節「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と、主イエスは、ご自身を模範として、「すべての人の僕になりなさい」と言われました。 けれども、仕えることで「いちばん上になる」と、主は言われます。 45節「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と、主イエスが仕えてくださることの頂点が言われております。命をもってまでして、人の救いのために、主は仕えてくださいました。ご自身の命を代価としてまで、他者の救いのために仕えたと言われております。そして「あなたがたも、仕える者となりなさい」と言われます。 では、私どもは「仕える」ために、どうしたらよいのでしょうか。私どもが人の救いのために仕えるということは、私どもが人を主のもとへと導くことに他なりません。聖書の御言葉に聴き、執りなしの祈りをなし、礼拝へと誘うことです。それが、人に仕えるということです。主へと、人を至らせることです。 それほどに大切な出来事、それが礼拝です。礼拝において語られる御言葉を真実に聴くこと、祈りは執りなしです。ですから、自分中心になると、御言葉を聴けなくなる、祈れなくなる、礼拝できなくなるのです。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |