2014年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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わたしが飲む杯 | 2014年4月第1主日礼拝 2014年4月6日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章35〜45節 | |
10章<35節>ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」<36節>イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、<37節>二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 <38節>イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<39節>彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。<40節>しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」<41節>ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。<42節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<43節>しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<44節>いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。<45節>人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 |
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35節、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「お願いすることをかなえていただきたい」と、主イエスに願い出たことが記されております。叶えてもらいたいこと、それは37節にありますように、大変厚かましい願い、とても褒められたものではない願いでした。 ここに示されることは何でしょうか。私どももまた、それが厚かましい願いであったとしても、主イエスに、神に「願い出て良い」ということです。主イエスは、私どものどんな願いであっても、願い出ることを退けず、聞いてくださる。願い出ることを良しとしてくださる。だからこそ、私どもは願い出て良いのですし、願い出ることができるのです。 考えてみますと、私どもの願いも、この二人の弟子とあまり変わらないのではないでしょうか。これほどの厚かましさではないにしても、私どもも、私どもなりに、神に対して厚かましい願いをしていることと思います。 神が私どもの思いを聞いてくださる、それは私どもを「神に近い者としてくださる」ということです。聞いてくださるお方は、私どもに近き方として在す方なのです。私どもの身勝手な願いを聞いてくださる、それは、神が私どもの近くにいてくださっているということです。 37節「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」との、二人の弟子の願いとは、どういうことでしょうか。「主イエスが栄光を受けられるとき」とは、どういう時なのでしょうか。また、その時を、二人はどう受け止めているのでしょうか。 ちなみに、右と左では、どちらが偉いでしょうか。左の方が偉いのです。「右と左の哲学」というものがあり、それが神学にも影響しております。多くの人は左に心臓を持ち右利きですから、自分にとって危うい人を左には置きません。危うい人は右に置きます。心臓を守り武器を取るためです。右か左か、左に置く人は、より信頼できる者ということですから、その方が地位が高いのです。 このように、マタイによる福音書は支配を表す「王座」と言い、マルコによる福音書では「栄光」と言っております。「栄光」とは「キリストがキリストとして座に就かれる」ということです。ここは、再臨(終末)を背景にしております。再臨のとき、それは「裁きと救いの完成のとき」です。終わりの日に、主イエス・キリストは裁きをなさる、マルコによる福音書は、終末における「裁き」としてのニュアンスで「栄光」と言っております。終わりの日に、支配者としてではなく、「裁き主としての主イエス」の左右に就きたいと言うのですから、この二人の弟子は裁きの権能を求めている、だからこそ厚かましいと言わざるを得ません。弟子は、裁かれる者に過ぎません。裁く側に就ける筈はないのです。 「主の左右に座りたい」、この「左右」はどういうことを意味しているでしょうか。主イエスはこの申し出について、38節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われました。彼らが願ったことは何か。それは、自らを高くしたい、大きくしたいという思いです。それは、他者を自分より低くする、小さくするということです。この、自分を高め他者を低くするという在り方は、主イエスの在り方とまさに正反対、相反することであることを理解しなければなりません。 主イエスは、命までくださいました。主イエス以上に低き方はいないのです。だからこそ、私どもは、より低き者たちのうちに、キリストを見出すことができるのです。 このような主イエスの在り方と全く反対のことを、二人の弟子は願いました。この世の願いそのものです。豊かさの追求、自分が豊かであれば、そこで貧しい者を作ってしまっても平気になっている、そういう社会に今、私どもはあるのだということを危惧しなければなりません。プロテスタント教会が生み出してきた「平等」という感覚は、もはや失われてしまっているのです。 もっともっと自らを高めたい、豊かになりたい、そういうことを求めることは、主イエスを理解していないことだと、ここで、主は示してくださっております。弟子の無理解をはっきりと示してくださるのです。特にマルコによる福音書は、弟子とは、どこまでも無理解な者であることを記します。 弟子たちの無理解の極みは何でしょうか。この箇所の前のところで、主イエスは「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」と弟子たちに話されました。主がご自身の十字架の死と復活を予告された、それを聞いた弟子たちのうちの二人が、「主の左右に」と願い出ているのです。弟子たちが、全く主イエスのことを分かっていないことが判ります。主がご自身の受難と死の予告をなさっているのに、それでも弟子たちが理解できなかったこと、その極み何かと言いますと、それは「主のご受難と死、そして復活」ということでした。 主イエスはここに至るまでに、三度、同じことを話してくださっており、その度に同じことが繰り返されております。前の2つを振り返ってみましょう。一つは9章30節以下です。主が「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたのを聞いた弟子たちは、カファルナウムに向かう途上で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と記されております。やはりそこでも、弟子たちは無理解でした。 主イエスが、38節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われたことに対して、弟子たちは39節「できます」と、暢気に答えております。旧約聖書において、「杯」には「救いの杯」と「苦難の杯」の2つの意味がありますが、ここで主イエスが言われる「わたしが飲む杯」とは「苦難」を意味しております。 「苦難の杯」を、主イエスを負われます。その杯を、弟子たちも同じように負うことが「できます」と答えました。それは、後に、弟子たちが、主イエスの救いの確かさを感じることによって、できるようになるのです。復活の主が約束してくださった聖霊の力をいただくことによって、できるようになるのです。 |
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