2014年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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子ろばを用いて | 2014年棕櫚の主日礼拝 2014年4月13日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第19章28〜40節 | |
19章<28節>イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。<29節>そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、<30節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。<31節>もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」<32節>使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。<33節>ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。<34節>二人は、「主がお入り用なのです」と言った。<35節>そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。<36節>イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。<37節>イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。<38節>「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」<39節>すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。<40節>イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」 |
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今日から受難週です。今年はルカによる福音書から主のご受難を聴きながら、主イエス・キリストが私どもの救いのために苦しみ痛まれたこと、十字架に死んでくださって三日目に甦られたことを覚えたいと思います。 28節「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と記されております。「このように話してから」とは、19章の初めで、主がザアカイの家に泊まり、神の国についての譬え(ムナの譬え)をなさったこと、つまり「神の国は近い」ということをお話くださって、それから、ということです。 29節「そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。「二人の弟子」でなければならないのは、なぜでしょうか。主のエルサレム入城は、王としての入城です。後を読むと分かりますが、王の入城には、それに相応しい敷物などが必要です。王の入城に必要なものを調達するための正規の使者、それは「二人」でなければならない、だからここでも、「二人の弟子」でなければならないのです。「二人の弟子」ということで、主イエスの入城が「王としての入城である」ことを暗示しております。 「使者を遣わす」そこでは同時に、そこに何があり、何をすべきかを、主は先取って語ってくださっております。「どこかに行って、子ろばを探して連れて来なさい」と言うのが普通でしょう。けれどもここで、主イエスは、30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」と言われます。「入ると子ろばが見つかる」と言われる。そして、見つけたら「それをほどいて、引いて来なさい」と、見つけたらどうしたらよいかまで教えてくださるのです。 また、「子ろば」について言えば、「まだだれも乗ったことのない」というところに示唆があります。「だれも乗ったことのない」ろばに乗る、もしこれが馬であれば、なお大変でしょう。振り落とされてしまいます。馬に比べれば、まだろばはましだとしても、まだだれも乗せたことのない、しかも子ろばは、乗り心地が良いはずはありません。ろばであっても振り落とそうとするでしょう。普通であれば、そのようなものに乗ろうとはしないはずです。人を乗せたことのあるろばであれば安心でしょうし、乗り心地も良いのです。ですから、「まだだれも乗ったことのない子ろばに乗る」ということは、常識を超えたことです。 子ろばがつないであるのを見つけたら「それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と記されております。繋いである綱をほどけば、当然誰かが文句を言うことでしょう。その時には「主がお入り用なのです」と答えなさいと、主は言われました。 ここに、「神と人との秩序」ということを、改めて覚えたいと思います。神と人との秩序を失うほどに、事柄はいろいろとごちゃごちゃになってしまいます。理由は全て、自己弁護というところにあります。弟子たちはここで、何も自己弁護する必要はありません。主が御業を行なわれることも、理由以上に、神がなさることはなされるのであり、起こることは起こるのです。 全てのことが主イエスの言われた通りであったということは、恵み深いことです。主イエスは、なすべきことをご存知なお方です。そして、主の語られたことが現実となるのです。主の言葉は、神の子救い主の言葉として、救いが先取って語られるのですから、それは成就するのです。 二人の弟子は、子ろばを連れてきて、34節「その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした」とあります。自分の服をかける、それは馬であれば、鞍です。 37節「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」。主のエルサレム入城に際して、弟子たちが感じたことが述べられております。主のエルサレム入城は、とても威風堂々と言えるものではありません。子ろばに乗っての、よたよたとした入城だったでしょう。 ここで知るべきことがあります。主がエルサレムに王として入られる、その王とは何か。なぜ、子ろばでなければならなかったのか。王の入城であれば、軍馬に乗って勇ましくということが普通のことでしょう。しかし、そうではない。馬ではなくろば、しかも子ろばですから、勇ましくはありません。それは、軍事力を誇る、この世の王として入城されたのではないことを示しているのです。軍事的な成功を思わせる王の姿ではない。神の平和をもたらす者の姿、弱さを担う姿です。この世の政治を立て直すための王ということではない。主イエスは、神と人との関係を回復してくださる王として入城されるのです。 主イエスのご受難とは何か。この一週の間、何を聴くべきなのでしょうか。主のご受難、それは、罪人の苦しみをご自分のものとしてくださるためのご受難なのです。人の痛みを、ご自身のものとしてくださるためのご受難なのです。 主イエスは、単に苦しまれたということではありません。私どもの痛みを痛んでくださったご受難であることを聴かなければなりません。 私どもは、実は、主を苦しめるほどに、苦しむ者です。主を痛めるほどに、痛む者、主を悲しませるほどに、悲しむ者であるということを覚えたいと思います。このことを覚えることが、この一週の私どもの歩みです。 そして知るのです。それは、私どもの苦しみを苦しんでくださるほどに、神は慈しみ深い方であるということです。深い深い心を癒す、その主の憐れみゆえに、その神にこそ、美しさがある、麗しさがあるのです。 弟子たちの讃美の声を止めさせようとしたファリサイ派の人々の言葉に対して、主イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われました。神があげさせておられる讃美の声を、人は止めてはなりません。讃美せずにはいられない、それが「石が叫びだす」ということで示されていることです。 私どももまた、神に満たされて讃美し、祈る者でありたいと思います。 |
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