2014年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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十字架の主イエス | 2014年受難日礼拝 2014年4月18日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第23章26〜43節 | |
23章<26節>人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。<27節>民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。<28節>イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。<29節>人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。<30節>そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。<31節>『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」<32節>ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。<33節>「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。<34節>〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。<35節>民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」<36節>兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、<37節>言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」<38節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。<39節>十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」<40節>すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。<41節>我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」<42節>そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。<43節>するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 |
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今、私どもは、十字架の主の御言葉を聴きました。 26節「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と述べられております。強いられた恩寵として、シモンが背負う主イエスの十字架です。主の御苦しみを、代わって背負うシモンに、私どもは慰められます。なぜならば、シモンは、初代教会で名を知られた者となったからです。つまり、教会に繋がる者になったのです。強いられたからこそ知る神の恵みがある、ということです。 27節「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」。人々は大きな群れとなって、主に従っております。婦人たちは嘆き悲しんでおります。その婦人たちに、主イエスは振り向いて「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」と言ってくださいました。婦人たちを思って、主は憐れみをかけてくださったのです。罪なき主イエスが十字架に死ぬとするならば、罪ある者の裁きはいかなるものか(28節以下)を教えてくださり、神の憐れみへと導いてくださるのです。悔い改めを促しておられるのです。 続けて、32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」と記されております。主の十字架の、一人は右に一人は左に付けられております。十字架に付けられた主イエスは、罪なきお方です。罪なきお方が、犯罪人のただ中に立っておられることを、この御言葉は記しております。罪人の救い主として、主イエスは、私ども罪人のただ中に立たれるお方、神、主であられることが示されております。 34節「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とは、メシアについて旧約聖書に記されていることです。主イエスが聖書に証しされた救い主(メシア)であることを示しております。まるで、祭りのような処刑の場面が描かれております。主をあざ笑い、侮辱するのです。 35節、議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と、ののしります。「自分を救うがよい」という言葉に、彼らがどういう者であるかが示されております。自己追求の者なのです。他者による救いを必要としていない者の言葉です。「自分を救え」と、救いを自分で完結せよと言っているのです。彼らは、自己完成の者ですから、自分で自分を助けなければならないのです。 兵士たちは、気付け薬としての酸いぶどう酒を突きつけながら「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と、主を侮辱します。主の頭上には「ユダヤ人の王」という札が掲げてあるのです。まさしく、主イエスは「王なるメシア」であられます。彼らは、知らずして、主をメシアと証ししているのです。彼らの心の思いとは裏腹に、証ししている、それは「人の思いを超えて神の御業が働く」ということです。この札を見ることで、知ってよいのです。神の御心のみがなる、救いがなっていることが示されております。 主イエスこそ、ユダヤ人の、全世界の人の罪を贖ってくださるお方、私どもの罪を贖い、赦してくださるお方なのです。 主イエスの力は、しかし、怒りによって示されるのではありません。主の力は、忍耐によって示されるのです。主イエスは沈黙によって、十字架に服することによって、ご自身の力を示しておられます。主イエスこそ、人の罪を贖い得る方として、十字架に付いておられるのです。 40節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」。もう一人の犯罪人がたしなめております。罪の報いを受けるのは当然だと言うのです。彼は知っています。自分が死に値する罪人であることを感じているのです。そして、神の裁きに服しているのです。彼は、神への畏れ、謙遜さを持っております。神を畏れる者の謙遜さが、ここに示されております。 「主の御国で顧みられることの恵み」を覚えたいと思います。主イエスにすがる者は、とこしえに、主によって御国で覚えられるのです。このことは、大いなる恵みの出来事です。私どもは、どこで、だれに覚えられているでしょうか。この地上で覚えられることは、一般的には100年とないことでしょう。この地上にあることは全て、移ろうことだからです。 裁かれる者として、なお、主イエスにすがる者に、主イエスは宣言してくださいます。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、主にすがった者に、主は救いの宣言をくださったのです。 主イエス・キリストを信じる者として、今、私どももまた、この犯罪人の一人と共に救いの御言葉を頂きました。それゆえに、幸いです。 ルカによる福音書は、十字架上の主イエスの言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なにゆえお見捨てになるのですか)」との、十字架の絶望を語りません。ルカによる福音書は、十字架の主の御姿を通して「十字架の主にすがる者に与えられる神の国の恵み」を語っております。この御言葉の恵みを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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