聖書のみことば
2014年4月
  4月6日 4月13日 4月18日 4月20日 4月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主の手と足
2014年イースター礼拝 2014年4月20日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第24章36〜49節

24章<36節>こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<37節>彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。<38節>そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。<39節>わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」<40節>こう言って、イエスは手と足をお見せになった。<41節>彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。<42節>そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、<43節>イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。<44節>イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」<45節>そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、<46節>言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。<47節>また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、<48節>あなたがたはこれらのことの証人となる。<49節>わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 共にイースターの礼拝を守れますことを嬉しく思います。今朝は、ルカによる福音書24章36節〜49節の御言葉から、イースターの恵みの出来事に聴いていきたいと思います。

 まず「こういうことを話していると」と言われております。何を話していたかということですけれども、それは24章13節からのところを受けているのです。
 復活の主イエスが、エリコに向かって歩く二人の弟子たちに臨んでくださって、来るべきメシアについてモーセや預言者から始まって聖書全体を通して、ご自身について語られていることを、二人に説明してくださったのです。日も暮れて、なお先に行こうとされる復活の主イエスを二人は無理に引き止め、宿を取りました。そして、主イエスが共に食事の席に着いてくださり、パンをとり讃美の祈りを唱えてパンを分けてくださったときに、二人の弟子は目が開けてイエスだと分かったのですが、その時に主の姿は見えなくなったのです。二人はこの出来事を受けて、もう既に夜になっていたのに、エルサレムへと戻りました。そして、主イエスの復活が本当だったということを、他の仲間の弟子たちに伝えたのです。

 弟子たちが「その話をしていたとき」に、36節「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と言うのです。エマオ途上の二人の弟子は、主からパンをいただいたとき(聖餐)に主イエスを感じました。また、弟子たちが互いに復活の主イエスに出会ったことを話しているときに、復活の主イエスが彼らの真ん中に立ってくださいました。このことは、私どもが主イエスについて語るとき、証しするときに、そこに主が在し、その中心に主が立っていてくださることを示しております。まさしく今、この礼拝の場に、この中心に、主が在すのです。
 そして、主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいます。弟子たちに、私どもに「平和を与えてくださる」のです。主イエスの言葉は神の宣言ですから、神より私どもに「平和が付与される」ということです。
 主イエス・キリストこそ、十字架の主として、私どもの罪を贖ってくださいました。罪のための神との中垣を取り去ってくださって、神との交わりを回復してくださったのです。何よりもまず、神との交わりの回復によって、人には平和が与えられるのです。神との交わりをいただき、神によって満たされること、それが「平和」です。そこでこそ、人は、他者に相対することができます。神に満たされているから、他者に対して苛立つことなく、また他者に対してあれこれ求める必要はないのです。人は、神との関係が回復していなければ、神によって満たされていなければ、どうしても身構えてしまい、自然体でいることができません。神との間の平和が成り立ち、満たされているならば、自然体でいられるのです。それゆえに、主イエスは私どもに「平和を宣言し、付与してくださる」のです。

 誠に、至れり尽くせりです。主イエスのことを語り合っているときに、主イエスは弟子たちに平和を与えてくださいました。主がそこにいてくださったのです。なのに、弟子たちは恐れました。37節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。主イエスが彼らの真ん中に立ってくださっているのに、「ああ、嬉しい」と言うのではなく、恐れおののいたのです。何とも情けない弟子たちの姿です。主イエスを分からず、亡霊と思ってしまうのです。けれども、その気持ちも分からないではありません。エマオ途上で、二人の弟子と食事を共にしていた主イエスは、突如、姿が見えなくなりました。二人の弟子もそのままエルサレムに向かいました。それは真夜中ですから、復活した主イエスが真夜中に現れれば、亡霊と思っても仕方ないかもしれません。
 けれども、弟子たちに対して、復活の主は再三再四臨んでくださったにも拘らず、弟子たちには主と分からず、亡霊と思ってしまう。それは何故なのでしょうか。このことは、私どもに対しても、主が問うておられることです。

 38節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と、主イエスは言われました。この言葉に、私どもも、はっといたします。「なぜ信じないのか」と、主に問われているからです。
 人が信じることから遠いのは、なぜでしょうか。それは、自分の思いによっては信じられない出来事が起っているからです。自分の思いが中心であるからこそ、弟子たちは信じられませんでした。復活された主イエスのことを語っていたにもかかわらず、信じられないとは情けないことですが、何よりもまず神のことを思うのではなく、自分の思いの中にあるから信じられないのです。
 信仰は、神からの出来事であることを、この弟子たちは知りません。信仰の筋道が分かっていないのです。信仰の筋道、それは、神が第一であり、神が中心であることです。主イエスのことを話しながら、なお自らの思いで主を語っている、だから、自分の思いが先立って、神が臨んでくださったことの恵みを思えないのです。
 「体験する」ということは、一方において恵みですが、また危険でもあります。体験すると、体験したことによって与えられた思いが強くなるからです。いずれにしても、人とは「信じられない者である」ことを思います。なかなか神を中心にできないのです。

 けれども、何と恵み深いことでしょう。そのような「信じられない者」に、主イエスは臨んでくださるのです。そして、主を亡霊だと思って恐れおののく弟子たちに対して、39節「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言ってくださるのです。
 それは、幽霊には足は無いが、わたしにはあるから見なさいということではありません。主イエスが「見なさい」と示しておられるのは、「主の十字架の傷跡」です。主の手と足にある傷、十字架に釘付けられた傷です。主は「十字架の主を見なさい」と言っておられるのです。弟子たちが見るべきは「十字架の主イエス」です。指し示されているのは「十字架の主イエス」なのです。そして、そこに示されるのは「まさしくわたし」と言われる。「十字架の主こそ、まさしくわたしである」、主イエスが神であられることの宣言なのです。

 弟子たちに対して、まず示されることは何か。それは「十字架」です。「十字架の主イエス・キリストを見ること」です。そのようにして、十字架の主を仰ぐ、その上で、主は更に「触ってよく見なさい」とおっしゃってくださっております。
私どもが、「十字架の主の御傷を見る」とは、どういうことでしょうか。神に対する背き、それは死に値する罪です。その罪の贖いとなって、主イエスが汚れ無き命をもって罪を清算してくださったがゆえに、私どもは救いを得たのです。ですから、十字架の傷を見るということは、単に痛ましい傷を見るということではありません。「主イエスが、私どもの罪の身代わりとなってくださった」ことを見るのです。

 40節、イエスが弟子たちに「手と足をお見せになった」ので、41節「彼らが喜びのあまり…」とあります。「喜び」と言われる、それは「救い主を見る」ことに他なりません。救い主を見ることによって、弟子たちは、復活の主イエスを、甦りの主イエスを知ったのです。
 「触る」とは、どういうことでしょうか。このことは、信じられない弟子のトマスを思い出しますが、主の御傷に手を入れてみなければ信じないと言ったトマスは、実際には、そんなことをしたわけではありません。
 「触る、触れる」ということは、「十字架の主イエスの贖いをこの身に感じる」ということです。頭の理解ではなく、体と心に感じるということです。触れていたとしても、信じられないこともあります。実際に触ってみたからと言って、人は信じるわけではないのです。

 「心と体で感じる」、それが「触れる」ということです。私どもが聖餐に与るということは、この身をもって主の贖いの恵みを感じるということです。
 私どもにとって「主イエスに触れる」とは、どういうことかと言いますと、「聖餐に与る」こと、そして「説教に聴く」ことです。説教とは、主の十字架の贖いの恵みと甦りの命の約束が語られることです。ですから、私どもは説教を聴くことで、聖餐に与っていることと同じ恵みのうちにあるのです。礼拝の中心は「主イエスの十字架と復活」ですから、十字架と復活の主の御言葉が説き明かされることによって、聖餐と同じことが起るということです。御言葉によって聖餐に与る、そういう聖書主義の考え方にある教会は、カトリック教会と違って、毎週の礼拝で聖餐式をすることはありません。
 御言葉の説き明かしによって、この身に主イエス(救い主)を感じる、主の御言葉が、この身に沁み入る、それが「十字架の主に触れる」ということです。

 41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた」とあります。「喜びのあまりまだ信じられない」とは、変ではありますが、実際に傷に触らなくても「喜んだ」という意味では幸いです。けれども、なお信じられないままだったということは、困ったことです。
 彼らは喜んだのですから、身と体とで救いの喜びを感じ取った、なのに、なお信じ切れなかったのは、なぜでしょうか。神の出来事は、人の思いによって信じられることではないからです。信仰とは、自分の力で信じるということではなく、信仰とは、あくまでも神の力によって信じることなのです。

 なお信じ切れない弟子たちに対して、主イエスはどうされたのでしょうか。主を信じ切れないことを怒ったりはなさらないで、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、42節「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」と記されております。亡霊ではないから食べるのだということを示しているということですが、それは何を意味しているのでしょうか。それは、信じられない者たちのために、主イエスが「信じられるようにしてくださる」ということです。信じられない者たちに、主は「仕えてくださった」のです。これは、すごいことです。ご自身を信じられない者に仕えてくださるとは。信じられない者に、主の方で合わせてくださって、主がお働きくださるのです。

 今、覚えてよいことがあります。それは、復活の、甦りの主イエスは、「甦りを信じられない者に仕えてくださるお方である」ということです。
 主イエスは、信じられない者たちの真ん中に立ってくださいます。けれども、それだけではないのです。主は、その者たちに「仕える」という仕方で臨んでくださるのです。そのことによって、私どもは、甦りの主イエスを知ることができるのです。

 主の働きがあってこそ知ります。私どもの思いによって知るのではないことを忘れてはなりません。
 このことは、私どもの信仰にとって、何と幸いなことでしょう。もし、私どもの信仰が「信じていなければ信仰ではない」というものであれば、私どもが信じられなくなってしまえば、信仰者ではなくなってしまうのです。けれども、たとえ、私どもが信じられなくなったとしても、私どもは信仰者であり得る、主の弟子であり得るのです。

 私どもが信仰を全うできるかどうかは、私どもの意思に依りません。信じられない者に働いてくださる、仕えてくださる主イエス・キリストにこそ根拠があるのです。十字架の主イエスが、神が根拠であるがゆえに、私どもの信仰に揺るぎはありません。自らを根拠にした信仰は、いずれ失われる、いや既に失っているのです。

 主イエスは、甦りの主として、今、この礼拝のただ中におられます。
 信じられない者を、信じられなくなってしまう者を、また老いて主を分からなくなる者であっても、私どもの信仰は、そのような私どもに仕えてくださる主イエス・キリストに根拠があるがゆえに揺るぎなく、私どもは、主の弟子であり得るのです。
 復活の主イエス・キリストが、私どもを主の弟子としていてくださることの恵みを、感謝をもって深く覚えるものでありたいと思います。

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