2014年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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命にあずかる | 2014年第4主日礼拝 2014年1月26日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章43〜50節 | |
9章<43節>もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。<45節>もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。<47節>もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。<48節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<49節>人は皆、火で塩味を付けられる。<50節>塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 |
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主イエスは、43節「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」と言われます。これは、手だけではなく、足についても、また目についても言われております。そして共通していることは、「あなたをつまずかせるなら、切り捨てよ、えぐり出せ」ということです。 けれども43節では、つまずかせる者は誰かと言いますと、他者ではなく、自分の手、足、目だと言っております。他者によるつまずきではなく、「自分自身のつまずき」を言っているのです。 確かに、他者から悪口を言われ非難されるということもあるでしょう。つまずくのも無理からぬということもあるのです。しかし人は、他者がつまずかせるばかりではなく、自分でつまずくことがあるのです。他者から見れば大したことではなくても自分にとっては大きなつまずきとなったり、また、人の好き嫌いによってもつまずきは起こる、そのことを知っておかなければなりません。 主イエスがここで、このようなことを話されることには背景があります。主の十字架・復活の後、主を信じる初代教会には迫害があり、また殉教がありました。しかし教会は、迫害する者を恨まず、却って「まったく神に信頼し、神と固く結びついていた」のです。 「つまずき」とは、神に信頼しきれていないことです。主に真実に依り頼んでいないから、つまずくのです。他者がどうであっても、どう言われたとしても、自分自身が主イエスと結び合っていれば、つまずくことはないのです。 弟子たちが真実に主に依り頼めていなければつまずくしかないことを知って、主イエスは語ってくださっております。「まったく主イエスに従う」こと、「そこでこそ、人は揺るぎない」のです。そして「つまずきが、いかにおぞましいか」を示すために語ってくださった、それが「片手・片足を切り捨てる、片目をえぐり出す」という言葉なのです。 主イエスは時に、人の思いを超えたショッキングな語り方をなさいます。優しく語りかけるばかりではないのです。 人にとって、「片手、片足、片目」それはどれも、神が創り、与えてくださった大切な体の部位です。ですから、神はその大切な部位を切り捨て、えぐり出すことを望んではおられません。片手片足の一本はおろか、指の爪一つをとっても、神が創り与えてくださった尊いものであり、少しも損なってはならないことを前提に、主イエスは語っておられるのです。 また、もし自分の片手が罪を犯したからと言って切り捨てたとします。そうすると自分の大切なものを犠牲にしたわけですから、犠牲にしたもの以上のものを求める、それが人の思いです。それほどまでに、人は欲望の固まりなのです。見返りを求めてしまう、それが人の思いです。献げた、犠牲にしたもの以上の報酬を求めてしまうのです。 ここで主イエスは、弟子たちが自らつまずくことを見越して語っておられます。それはなぜでしょうか。この後、弟子たちが、主イエスの十字架につまずくことを知っておられるからです。弟子たちは主イエスが十字架に架けられたのを見て、散り散りに逃げ去りました。それは、まだ真実に主イエスを知らなかったからです。 続けて、49節に「人は皆、火で塩味を付けられる」と、主イエスは言われます。これはもう、つまずきの話ではありません。とても難しいところです。 50節「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と続きます。 そして「キリスト者がキリスト者であること」は、「御言葉に聴き、信仰に生きること」「祈り、礼拝する者として生きること」です。それが塩味を持つことです。 「互いに平和に過ごしなさい」と、主は言われます。キリスト者として「共に御言葉に聴き、共に祈り、共に礼拝する者でありなさい」ということです。そこでこそ、私どもは「共に主の交わりのうちにある、平安のうちにある」のです。「共に聴き、共に祈り、共に礼拝する」、そこで見知らぬ人と共に礼拝するとすれば、何と幸いなことでしょう。共にあることによって、平安を得るからです。 ですから、礼拝は内輪だけのものではありません。見知らぬ者も共に礼拝する、喜びを持って集えるならば、そこでこそ共に交わる幸いを与えられ、主にある平安に与ることができるのです。 私どもは、生活の慣れから、知った者同志で教会が立っていると思ってしまいますが、そうではありません。互いに知らない者同志であっても、共に御言葉に聴く者が集う、それが教会であり、そこにこそ平安があるのです。 「共に聴き、祈り、礼拝する者、神の民とされている者」は、共に礼拝に与りながら、「神の国にある平安のうちに、既にある」ことが示されていることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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