2014年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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わたしたちの味方 | 2014年第1主日礼拝 2014年1月5日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章38〜42節 | |
9章<38節>ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 <39節>イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。<40節>わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。<41節>はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」<42節>「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 |
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共々に、この年の最初の主日の礼拝を守れますことを感謝します。皆さんの上に、神にある一年の幸を、恵みと平安を祈ります。 38節「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。ここでまず注意すべきことは、ヨハネが主イエスを「先生」と呼んでいることです。「先生」という呼び方は、信仰に基づく呼び方ではありません。信仰に基づいて呼ぶならば、「主よ」となるのです。この時点では、ヨハネはまだ、主イエスを「神の御子キリスト(救い主)」として知っていないということが、この「先生」という呼び方で示されております。 ヨハネは「お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」と言っております。「お名前を使って」つまり「主の御名を使って」ということです。「主の御名を使う」ということは、その人は「主の名を呼ぶ者である」ということですから、これは驚くべきことです。主イエスを信じる者が主の名を呼ぶのは当然のことですが、ここでは、主を信じていないのに主の名を呼んでいるというのです。どういうことなのでしょうか。その人の目的は「悪霊を追い出すこと」でした。 ヘブライ人にとって、また日本人とも共通する感覚ですが、「名は体を表す」と言います。主の御名をを呼ぶとき、そこに主が臨んでおられるのです。主の御名を呼ぶところ、そこに主が臨み、主が働いておられるのです。主がここにおられ、臨まれ、力をくださっている、それが主の名を呼ぶところ、この「礼拝」です。そして、主の御名を呼ぶことによって、私どもは主イエス・キリストに触れることができるのです。 力ある主の御名によって、悪霊は退散せざるを得ませんでした。 主の御名を使って悪霊を追い出した者たちは、何を見てそのようなことをしたのでしょうか。多くの人々が主イエスによって悪霊の力から解き放たれ、癒されたのを見たのです。主の御名は権威ある名です。人々をさまざまな捕われから解き放つ、それが主の御名です。 では、私どもが主の御名を頂くとは、どういうことでしょうか。 私どもの一年の歩みは、主の御名を呼ぶものです。そこでこそ、主が力を与えてくださり、慰めてくださいます。大切なことは、私どもに「主の御名を呼ぶ恵みが与えられている」ということです。 ヨハネは「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言いました。このことが問題です。 ここで、弟子たちが、主の名を使うことをどうして禁じたのかを知らなければなりません。ヨハネは「わたしたちに従わないので」と言っております。それは、後の教会で起こったことが背景になっていることです。同じ仲間に加わろうとしないのに、主イエス・キリストの名を勝手に使うということが起こったのです。 ある時期に、教会は、数を増やすことが宣教の目的ではないと言いました。確かにその通りです。教会は、キリストの権能を委託されたものとして、人々に「救いの宣言をなす」のです。ですから、教会のなすべきことは人数を増やすことではなく、「人々を救いに与らせること」です。教会に与えられた使命は、一人でも多く救われる者が起こされることを祈ることなのです。確かに数ではありませんが、しかし、一人でも多く救われること、それがキリストの思いであることを知らなければなりません。 ヨハネの言葉に対して、主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。それは、主の御名を呼ぶことを、主が許してくださっているということです。このことの恵み深さは、主イエスを知っている者だからこそ、キリスト者だからこそ知っていることです。キリストを知らずに主の名を呼んでいる人たち以上に、それがいかに恵み深いことかを、私どもキリスト者は知っております。それは、主イエスに相応しくなければ主の名を呼んではならないというところから解き放たれるからです。十分に主イエスを、救い主を知らなくても主の名を呼ぶことが許されるならば、自分は主イエスに相応しくないと思ったとしても、主の名を呼ぶことができるからです。 まさしく、主の御名を呼ぶに相応しい者など、どこにもおりません。だからこそ、主を知らない人々に対して、私どもは、主の名を呼ぶことの恵み深さを語ることができるのです。誰もが主の名を呼べる幸いを与えられているのです。 「わたしの名を使って奇跡を行い、…」と言われております。主の御名を呼ぶときに起こる大いなることは何でしょうか。それは「奇跡」です。神の救いの御業ということで言えば、「罪人が罪赦され、救われ、神の子とされる」ということ以上の大いなる奇跡はありません。私どもキリスト者自身が、既にその神の御業に与っております。主の御名を呼ぶとき、そこに救いの御業が起こるのです。 では、禁じるべきことはないのでしょうか。「そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と言われます。主の名によって起こることの麗しさを見て、悪口など言えないだろうということです。けれども、悪口を言う場合には別です。主の名を用いながら、悪口を言い、主の名を辱めることは禁じられなければなりません。私どもに、そういう課題は残されているのです。主の名を用いながら主の名を汚す場合には、主の名を語ることを禁じなければならない、それは教会のなすべきこと、心して整えておくべきことです。主の名を呼ぶ恵みを示さず、主の栄光を現さず汚す、そういうこともあるのです。 けれどもそのことよりも、ここで語られるべき主題は、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」ということです。これは大きいことです。人は、自ら、敵を作ってしまうものです。自分と同じでなければ味方ではない、同じようにせよと迫ってしまう、それが人の思いです。 主のあり方、神のあり方は、人のあり方とは違います。 私どもは神に対して敵であったのに、その私どもを神は救ってくださいました。このことを深く感じれば感じるほどに、他者の敵となる必要はなくなるのです。「この私のために、主の尊い血潮が流された」のですから、もはや私どもは、他者の敵となる苦しみから解き放たれるのです。 今日は42節まで読んでいただきました。38節から42節までは一つの区切りであり、キリスト者のあり方を示しております。次週はこの後半から聴きたいと思います。 |
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