2014年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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つまずきを除く | 2014年第2主日礼拝 2014年1月12日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章41〜50節 | |
9章<41節>はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」<42節>「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。<43節>もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。<44節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<45節>もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 <46節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<47節>もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。<48節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<49節>人は皆、火で塩味を付けられる。<50節>塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 |
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主イエスは「はっきり言っておく」と言ってくださいました。宣言してくださっているのです。41節「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われます。 ここでは「キリストの弟子」と訳されておりますが、これは必ずしもギリシャ語聖書に忠実な訳とは言えません。ギリシャ語では「弟子」という言葉は使われていないのです。ですから、「キリストの弟子」という表現は意訳です。 私どもは、この世の生活の中では、例えば学生であれば、教えてくれる恩師があり、その弟子であり、「○○の弟子」という名を記されます。けれども、「キリストの名をいただく者」という場合には、キリストの弟子であっても必ずしも名を記されないのです。「キリストの弟子」は、「この世でキリストを証しした者」として、いずれ消えゆく者です。その代表的な人はバプテスマのヨハネでしょう。ヨハネはキリストを証しし、そして消えていきました。 私どもは自分のことをどう表すでしょうか。「一人のキリスト者である」と言うこと、それがキリストの名を負う者として相応しいと思います。「キリスト者」という言葉は、キリストの名をいただいている者の正しい認識であり、自分を表す言葉です。 「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われておりますが、この「一杯の水」ということをどう受け止めるべきか、難しいのです。一般的には「一杯の水を飲ませる」ことを「ほんのささやかな行為」と捕らえ、「ささやかな行為によっても報いを受ける」と解釈します。 もちろん、「ささやかな一杯の水に報いてくださる」と聴くことも麗しいと思います。けれどもそれだけではなく、井戸から汲み上げ、運び、水瓶に移された、その一杯の水に至る人々の営みのすべてを、過程を、神はご存知であって、慈しんでくださって、受け止めてくださって報いてくださると聴きたいと思うのです。 そしてここには、キリストの名をいただく者に対してした業は、主イエスに対してした業として、神は覚えてくださるのだということをも併せて覚えたいと思います。キリストの名をいただくということは、何とすごいことかと思います。私どもキリスト者に誰かが何かをしてくれたことは、神に対してしてくれたこととして覚えられると言うのです。これは、私どもにはできないことです。私どもにできることは、せいぜい御礼を言うことぐらいですが、神は、してくれた者の背後にある生活のすべて、営みのすべてを祝してくださるのです。素晴らしいことです。キリストの名をいただいていることの麗しさを思います。ただ神の一方的な恵みのゆえに、私どもはキリスト者なのです。 そして、42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われます。ここに、「キリストの弟子」とは何かということが、もう一つの仕方で示されております。 日本人の元々持っている信仰は「普通信仰」です。目立つと攻撃される、だから普通にしていれば大丈夫だと、どこかで思っている、そこには大きな罪の問題があります。普通であることが良いはずはありません。いろいろな事柄は起るのです。他の人に起った不幸は、普通にしていたら自分には起らないということではないのです。普通であっても、尊大であっても、あるいは卑屈であっても、どう生きていても、大災害は降り掛かります。普通だから大丈夫なのではないのです。 「神によりすがるしか術のない者」、それが「小さな者」です。その者には「神がわたしのすべて」となるのです。神に全く信頼する者、それが小さな者です。このことが大事なことです。 けれども、このことが最も難しいことです。委ねることをやってみて、その難しさが分かるということが大事です。だからこそ「主の十字架なくしては済まされない」ことが分かるのです。ですから大事なことです。 キリストを抜きにして、自ら小さくなろうとすると問題が起こります。恵みに圧倒されて初めて、恵みを恵みとして知るのです。それ以外にない、神以外ない、それが私どもの信仰です。 今改めて、神が御子を十字架につけてくださってまで、私どもを神のものとしてくださることの恵み深さを覚えたいと思います。 |
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