2014年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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新しい天と新しい地 | 2014年元旦礼拝 2014年1月1日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/ヨハネの黙示録 第21章1〜6節 | |
21章<1節>わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。<2節>更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。<3節>そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、<4節>彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」<5節>すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。<6節>また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 |
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2014年の日の出に、愛する聖徒の皆さんと、神の恵みのうちに集い礼拝できますことを感謝いたします。新しい一年に、神の恵みと平安を祈ります。 1節に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」と、ヨハネは語りかけております。ヨハネの黙示録は、その名前が出てきますので、ヨハネが神の霊感によって記した書です。ヨハネは、小アジア(トルコ)の諸教会の説教者として人々の尊敬を受けておりました。小アジアの伝道と言えばパウロですが、その後を受け継ぐ者ということです。 この黙示録に記されているのは、説教です。小アジアの諸教会は厳しい状況に置かれておりました。当時、小アジアの人々は、「皇帝礼拝」を望む習慣を持っており、民の指導者、王を神として崇めることを望んだのです。 今は薄れておりますが、かつての日本でも地域共同体の中でのキリスト者の生活は大変でした。そこでは、信仰は社会の文化でもありますから、自ら進んで地域でやっていることに参加しないことは難しいことだったでしょう。今日も元日ですから、町内会で新年の互礼会などあります。私は、それをしないことを条件に自治会長をしています。それでも自治会長をしてくれる人がいないからと言って私に役を頼むわけですから、今の日本では薄れている感覚です。 教会の指導者として、ヨハネもパトモス島に流刑になっております。そのような状況の中で、ヨハネが記すことは驚くべきことです。1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」と言っております。迫害という現実の中で、ヨハネが見ているものは何か。見えている現実は事実ではない、真理ではない。「事実、真実は『新しい天と新しい地』である」と、その現実を見ているのです。これは、信仰の視点が無ければ言えないことです。 ここにおける迫害の原因は、キリスト者、教会の側にはありません。自ら望んでする皇帝礼拝、それは地域の文化ですが、それがキリスト教会をローマ帝国に敵する者としたのです。ヨハネは、この世が真実を弁えていないことを見ています。「見えている現実が真実なのではないこと。真実は、神が天と地を新たにされていること」であると見ているのです。現実は偽りの支配に過ぎないことを見ている、それが信仰にある視点ということです。 ヨハネが、迫害という現実の中で見たもの、それは「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」ということでした。もはや天地の境を失った最初の天と最初の地は去った、それは神の委託を受けて人々が支配する場は去ったということです。また、「秩序を混沌とさせるもの、人々の秩序を失わせる、神に敵対するもの」、それが「海」ですが、その海をも神は一掃されたことが示されております。 そして、「新しい完全な秩序の中に、私どもは置かれている」ということを、ヨハネは見ているのです。2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とヨハネは語ります。バビロンとして語られるローマ帝国の支配が圧倒するように見えているが、そうではないと言っているのです。「新しいエルサレムは、神の支配する聖なる都として建設される」と言っております。現実はローマ帝国が支配しているように見えるが、人々の目に見えていなくても、「神の支配がこの現実の地にも始まっている、神の国が始まっている」と、ヨハネは見ているのです。 そして、そのことは、「天から、神が語ってくださる」ことを、ヨハネは言っております。3節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり』」。神が「私どもに臨み、私どものただ中に住み、神の民としてくださる」と宣言してくださるのです。「神が、私どもの神となってくださる」ことが示されております。感謝です。 クリスマスの出来事の中心にあることは、「神がキリスト(救い主)として私どものところに来てくださった」ということです。それは「神が共にある恵み」です。「神が共にある」とは、どういうことでしょうか。神が共にあって、神が私どもの神となってくださる。それは、この世が私どもの主人なのではないということです。「真実の主人である神が、私どもと共にいてくださる」、そこにこそ、私どもの守りがあります。 新しい年も、いろいろなことがあるでしょう。現実の目に見える支配の下で右往左往することでしょう。見た目にはどのように大きな支配があったとしても、私どもは真実に神の支配の下にあり、神共にある守りの中にあるのです。そしてそれは、「秩序を得る」ということです。私どもを混沌に陥れようとする一切の力を神が一掃してくださる、ゆえに私どもは、秩序ある者として、この地を生きることができるのです。 4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と、ヨハネは言います。地上を生きる限り、人は悲しみも苦しみも、死も、経験しないではいられません。けれどもヨハネは、「神共にある、神との交わりに生きる者として、キリスト者は永遠の命に生きている」と見ております。すべての悲しみから解き放たれることを語っているのです。悲しみ、死の恐怖はあります。けれども、すべては一時の幻であることを示しております。真実は何か。真実は、「神の支配のうちにある」、「永遠の命のうちにある」ということを語っております。 この世の現実、支配する力は、主イエス・キリストによって一切が取り去られ、神と共に生きる恵みを頂いているのです。それが信仰を持って生きることの恵みであることを覚えたいと思います。 神の御言葉に導かれつつ、真実を見て生きる歩みをなし得たいと思います。それがキリスト者に与えられた恵みです。そのためには、御言葉をいただきつつ、日々に確信を与えられつつ生きることです。信仰とは、「神にある確信に生きること、確信によって強められて生きること」です。それは、御言葉に生きることによって初めて与えられる確信です。 |
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