聖書のみことば
2014年1月
1月1日 1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神の忍耐と憐れみ
2014年第3主日礼拝 2014年1月19日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第4章27〜28節、ローマの信徒への手紙 第3章25〜26節

エレミヤ書 4章<27節>まことに、主はこう言われる。「大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。 <28節>それゆえ、地は喪に服し/上なる天は嘆く。わたしは定めたことを告げ/決して後悔せず、決してこれを変えない。」
ローマの信徒への手紙 3章<25節>神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 <26節>このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 今エレミヤ書を読んでいただきました。わたしは、愛宕町教会で、月1回「聖書に親しむお母さんの集い」を担当しております。もうかれこれ8年ほど続いておりますので、聖書のいろいろな箇所を読んでまいりました。今年は1月からエレミヤ書を読んでいます。最初は、難しくて後悔しましたが、今ではとても楽しく読み進んでいます。
 現代で、このエレミヤ書を読むということが意味深いとつくづく思っています。

 今日、愛宕町教会で説教する機会を与えられましたので、1月、2月、3月に1回ずつですが、エレミヤ書からみ言葉を分かち合いたいと考えました。そのほんの一片をご一緒に味わうことが出来れば幸いに思います。

 エレミヤは、ご存知のように旧約の預言者の一人です。イザヤより約100年後に登場した預言者です。エレミヤが、神さまから預言者として召されたいきさつについては、1章に詳しく載っていますので今日は、そこに触れません。
 エレミヤは、神様から預言者として召されたとき、若干20歳前後でありましたから、神さまに「わたしは若者に過ぎません」としり込みしました。どう考えても、自分が神の言葉を伝えることに恐れを感じ躊躇せざるを得なかったことは当然だと思います。しかし、神は決して引き下がりませんでした。『若者に過ぎないと言ってはならない。』と、エレミヤを一蹴するのです。そして、神は、『わたしが、あなたと共にいて、あなたを助け、救うのだ』と強引に引っ張りこんだのです。

 神の召しは不思議です。欠けや弱さがあっても、神は引き下がることをしません。そのことは、イエスさまが弟子をお選びになるときも同じことが起こっています。漁師だったり、徴税人や異国人であったあり、弱さをたくさんもっている人たちを弟子にしています。
 このことは、旧約の人々にも重なりますが、わたしたちにも同じことが起こっていないでしょうか。神様は、決して強い人、有名な人だけをお用いにならないのです。自分のことを胸に手を置いて考えても、神の導きとしか考えられない仕方で、信仰へと導いてくださったのです。
 よく言うのですが、このような者を牧師にしてくださったのは、信仰が小さいからだと。このごろつくづく思うことがあります。年を重ねてくると悟るよりも、益々罪の深さを感じるようになっているように思います。40にして迷わずと日本では言いますが、このごろは寿命が延びていますから、50か60と言ってもいいかもしれませんが、年をとるごとに罪が深くなってくるように思います。しかし、幸いなことに、神の恵みも増し加わるのです。信仰を与えられたことを感謝する日々が続いています。もし、信仰がなければ自分はもっと悲惨になっていたのではないかと。

 エレミヤは口下手で、自分に何もない、中味がないということを訴えています。しぶしぶ預言者として立てられたのです。エレミヤの武器は、何かといえば、『神の言葉、真実』でした。1章9節に、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』とありますように、エレミヤは神の言葉を口に入れられたのです。自分の中には何もない、空っぽですが、神の言葉が注がれたのです。たったそれだけで、神はエレミヤを『諸国民。諸王国に対する権威を委ねる』と言っています。エレミヤにとっては、仰天するようなことでありました。たった20歳の若者が、万国の預言者として立てられたのですから。これほどの使命を与えられることは、想像もしていなかったのですから。おそらく、じたばたして、身震いしたに違いありません。万国を相手にしなければならないことを考えただけで身のすくむ思いを抱いたことは想像に難くありません。
 それも、エレミヤが告げなければならないことは、イスラエル民族への神の裁きですから、同胞にそのことを伝えることは、はらわたがよじれるようなことであったといっても過言ではないでしょう。罪を暴くということは、心が痛みます。人の悪口をいうことは嫌なことですが、ましては罪を指摘することは耐えがたいことです。イスラエルの罪を暴くことは、死を意味することでありました。

 エレミヤの預言のメッセージの中心は、1章16節に記されています。『彼らは、わたしを捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した』とありますように、神への裏切りです。これがイスラエルの罪でありました。
 神の怒りと裁きは、この罪に対するものでありました。エレミヤは、イスラエルの裏切りと偶像礼拝に対する神の裁きを語り続けました。

 しかし、今日のテキストを見ますと、そこには神の底知れない憐れみが見えています。
 4章27節『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼしつくしはしない。』 このフレーズは、この後たびたび出てきます。
 5章10節「ぶどう畑に上って、これを滅ぼせ。しかし、滅ぼしつくしてはならない。』
 5章18節『そのときですら』と主は言われる。『わたしは、お前たちをほろぼしつくしはしない。』と。これを見ますと、神の裁きが徹底していないという印象を抱きます。 もし、神の愛を徹底すれば、神はすべてを愛しゆるされるはずですし、もし怒り裁きを徹底すれば、すべてを滅ぼしつくさなければなりません(全滅)。
 そこに、神の忍耐が示さています。つまり、忍耐ということは、怒りでもない、愛でもないといえるのではないでしょうか。旧約聖書の、創世記にも、しばしば神の忍耐が語られています。あのアダムとエバが楽園を追われるときに、神は2人に葉っぱの衣服の代わりに、皮の衣を着せています。弟アベルを殺害したカインには、しるしを。また、ノアの箱舟でも、神は憐れみを持って、ノアとすべての動物たちを洪水から救っています。徹底的に、全地を拭い去っていないのです。滅ぼしつくしていないのです。

 忍耐には、ふた通りの使い方があります。いわゆる我慢する、耐えるという意味と、もうひとつは「堪忍」ということです。今日では、堪忍ということはあまり言われなくなっていますが、子どものころにはよく使われていたように思います。
 それは、手を上げているが、それを振り下ろさないということです。神は振り上げた手を振り下ろさないでいるということです。それが堪忍ということでしょう。
 そのことを、新約聖書の時代パウロが、明確に指摘しています。ローマの信徒への手紙3章25,26節で、次のように書いています。 『神は、このキリストを立て、その血によって信じるもののために罪を償う供え物となさいました。それは、これまで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今このときに義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じるものを義となさるためです。』
 パウロの義とは法廷用語で、『無罪と宣告する』というものです。神は、私どもを、「独り子を十字架に磔にすることによって、私どもの罪を贖ってくださった」、これは究極の恩寵です。

 神は、振り上げた手を振り落とすことなく、堪忍して、ついにはイエス・キリストをたて、十字架によって、神の義(神の正しさ)を示されたのです。

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