2014年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神のみぞ知る | 2014年11月第5主日礼拝 2014年11月30日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章32〜37節 | |
13章<32節>「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。<33節>気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。<34節>それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。<35節>だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。<36節>主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。<37節>あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 |
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32節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と、主イエスは言われます。「その日、その時」とは、どの日のことでしょうか。それは13章のここまでに語られております。「終末やその前触れとしての天変地異がいつ来るのか、それはだれも知らない、知ることはできない」と主は言っておられるのです。 主イエスは、「天使たちも子も知らない」と言っておられます。まさに、天使が知らないことを人が知る由もないことを強調しておられるのです。神に仕える天使ですら知らない、ここまでは良いとしても、「子も知らない」と言われる。つまり、神の子である主イエスご自身すら知らないと言われる。これは重要なことです。 「知らない」、ではどうすれば良いのでしょうか。神の御意志として、いかなることが起こったとしても、そこでただ神の憐れみを乞うこと以外にないのです。いつ起こっても良い、どうなっても良いのです。ただそこに「神の憐れみが臨むことを祈る」のです。いろいろと詮索して自分で答えを出すということではないのです。その日を特定することは出来ません。私どもにできることは祈ることです。終末は神が定めたもう日ですから、神の憐れみを願う他ないのです。 ところで「子も知らない」ということで確認すべきことがあります。先ほど、それは子の父に対する従順を示す言葉であると言いました。主イエスは、敢えて「知らない」と言い、「父だけがご存じである」と、「神のみである」と、子としてどこまでも父に従順であることを強調しておられます。父の意志にどこまでも従うことを言っておられるのです。 プロテスタント信仰において、信仰者の従順を特に強調した教派は、メソジストとホーリネスです。私どもの教会はその流れを汲みます。主が従順であられたことは、私どもにとっての規範なのです。 ここで、「神のみ」ということを覚えなければなりません。「神のみ」という信仰が示されております。それは「神のみを神とする」ということです.神を神として、神に従うということです。「神のみ」とは、「神が全て」という信仰であることを覚えたいと思います。「神のみ正しい」ということが私どもの信仰です。信仰とは、難しいことではありません。けれども、神のみ、神が全てであるということは簡単なことですが、しかし、これ以上に難しいことはないとも言えます。神が全て、ですから説明を必要としない。けれども、だから却って難しいと言えます。簡単だということは、説明を必要としない、つまり相手を説得する必要のないことです。 「神が全て」なのですから、終末においてはなおさらのこと、神に依り頼む他ありません。そこでこそ、神を神として表す、それが終末における私どものあり方です。 33節「気をつけて、目を覚ましていなさい」と、主は言われます。「目を覚ましている」ということは、何もしないということではありません。私どもは、為すべきことを為さなければなりません。神に全く依存し、信仰を持つ者として、為すべきことを為すということです。 34節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」とは、目を覚ましている人には、責任が与えられているということです。いつ何が起こっても良いように、整えておく責任があるのです。 35節「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」。夜の時が4つに分かれて表現されておりますが、それはローマの考え方です。 礼拝において語られることは、教会として、私どもの信仰としての目覚めた生き方です。 私どもは、終わりの日の完成を目指して今日を生きております。そこに、私どもには希望があるのです。希望、目標を与えられて生きる今日なのです。 終末に対する私どもの信仰とは喜びであることを覚えたいと思います。 |
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