聖書のみことば
2014年11月
11月2日 11月9日 11月16日 11月23日 11月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 人の子が来る
2014年11月第1主日礼拝 2014年11月2日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第13章20〜27節

13章<20節>主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。<21節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。<22節>偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。<23節>だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」<24節>「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、<25節>星は空から落ち、天体は揺り動かされる。<26節>そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。<27節>そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 主イエスは、終末を前にして苦難が続くことを語った上で、20節「…しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と言ってくださいました。主は、人が苦難に耐えられないことを知っていてくださいます。
 しばしば、苦難に耐えることが信仰だと言われます。そういうこともあるかもしれませんが、しかし、人は、神の憐れみがあってこそ、苦難に耐えられるのです。「苦しみによって、神は人を救う」と、聖書は語ります。その代表的な人はヨブでしょう。神は苦しむ者を憐れんでくださるのです。

 人が苦しむとき、苦しむ心は自分に向いて、なお苦しみに悶えます。自らへと心を向けることは、自らに執着し、そこから抜け出せずに苦しむのです。そのような苦しみにある者を、神は憐れみ給う。神は、人の苦しみを御自分のものとしてくださるほどに憐れみ深いお方です。それが主イエス・キリストの父なる御神なのです。
 主イエス・キリストは、人々の熱狂によって人々から妬まれ、辱められ、弟子たちからも裏切られました。それが主イエスの苦難ですが、主はなお人々のために苦しみ、十字架に死なれるのです。主の十字架のゆえに、人は苦しみのただ中で憐れみなる神を知ることができる。苦しみの中で神の憐れみを知ること、それが苦難に耐えることです。ですから、決して自分の力で苦難を乗り越えるということではありません。

 苦しみに遭うとき、そこで神へと向かい、神に苦しみを訴えることのできる人は、そこで深く神との交わりを得、神の憐れみを知るでしょう。けれども、神に向かえない、そのような者をも神は憐れみ、語りかけてくださるのです。十字架の主イエス・キリストは、踏み出し給う神です。私どもの方へと一歩を踏み出してくださるのです。
 この世においては、何かの目標に対して人は常に自分から向かって行かなければなりません。けれども、神の救いの出来事は、「自らに執着しそこから抜け出せない者をも見捨てない」という、そういう出来事です。神は御自分から一歩を踏み出し、様々な事柄を用いて語りかけてくださるお方であることを覚えたいと思います。
 ですから、苦しみは呪いではありません。苦しみは、神の恵みを知ることです。そのような神の憐れみを、ここでどう表現しているかと言いますと、「主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださった」と言うのです。憐れみをかけてくださるのです。神の憐れみを知ること、感じることで、人は慰めを受け、癒されます。

 「御自分のものとして選んだ人たち」と言われていることに、神の選びとは何かが示されております。「選ぶ」とは、神が「御自分のものとする、神の民とする」ということです。人は、選ぶと言うとその人の能力によって選ぶと考えますが、神の選びはそうではありません。神は「ご自分のものとするために」選ばれるのです。その人の能力によっての選びではない。神の選びは、取るに足りない者、欠け多い者を選ばれるという選びです。それは、欠けたる者であるがゆえに自分を表さず、神を現すこととなるからです。
 神の民イスラエルのそもそもの選びを思い出してみますと、ユダヤ(ヘブル人)は有象無象の民、エジプトの奴隷の民でした。奴隷ゆえに苦しみ、その苦しみの中で呻き叫んだ、その奴隷の民の苦しみの呻きを、神は聞いてくださいました。そして、神の民としてくださったのです。奴隷、人々から辱められた民を、神の民としてくださった、それが神の選びです。能力を見出しての選びではありません。取るに足りない空しい者を選ぶ、それが神の選びであり、それがイスラエルの初めの選び、そしてそれは私どもとて同じなのです。
 十字架と復活の主イエス・キリストを、私どもは信じます。十字架の主イエスが私どもの贖いとなって死なれ、復活によって永遠の命の約束を与え、神との尽きない交わりに入れてくださる。それが「贖いの恵み」です。まったく汚れなく聖い主イエスの命という代価を払って、私どもの罪ゆえの汚れた命を買い取ってくださった、それが「贖い、神の救いの恵み」なのです。
 清くも尊くもない、本来なら打ち捨てられる者を選び、御自身で代価を払ってまで、御自分のものとしてくださったのです。罪人を御自分のものとするために、代価を払うために御子まで十字架に付けてくださって、神御自身が犠牲を払ってまで買い取ってくださった、キリスト者の選びとはそういう選びであることを覚えたいと思います。それは、イスラエルの民の選びと同じなのです。

 代価を払って贖われたのですから、私どもはキリストのもの、神のものとされるという恵みを与えられております。私どもは神の所有なのです。自分のものではありません。それが「キリストのもの」ということです。自分で自分を持て余すこともある私どもです。そんな者を「わたしのもの」と言ってくださる神なのです。自分で自分をコントロールできないような者を、主はご自分のものとしてくださるとは、何と有り難いことでしょう。
 神に属する者だから、私どもは清く、天に通じる聖なる者とされております。自分を神の所有とすること、それが信仰の姿勢です。自分で自分を処することは罪の姿です。自分の思いで生き、死ぬということではありません。

 神の憐れみによってしか、人は救われません。「キリストのもの」としてくださる、そういう者であると覚えて、神は期間を縮めてくださると言ってくださっております。キリストのものとするということは、神の民とするということです。そしてそれは「教会」を意味しております。何と幸いなことでしょう。神は私どもの群れを覚えていてくださるのです。教会は神の御国を映す群れです。神はその群れを覚えていてくださるのです。
 旧約以来の考え方として、苦しむ者を神はどのように救われるのでしょうか。ただ一人の義人が居れば救うと言われております。思い起こすのは、ソドムとゴモラの滅びです。そこにある救いは、正しい者が居るならば救うという約束でした。「正しい者が20人居れば、10人居れば…と、」アブラハムは神を根切り、神は値切られてくださるのです。神は、これ以上は駄目とは言われません。とうとうその先を言わなくなったのはアブラハムの方でした。そこまでして、義人は居なかったためにソドムは滅びますが、ただアブラハムを神が憐れむがゆえに、甥のロトは救われました。

 罪人がキリストに贖われる、それは「義人とされる」ということです。キリストの所有の群れとして義、それゆえに教会は人々を救うのです。
「義としていただく」こと、それが信仰の出来事です。罪でしかない者が、義と認められた、神が認めてくださった、それが救いの恵みです。教会は、キリストによって義とされた者の群れなのです。神なくして義はありません。義とされた者として交わりを許されているのです。この世に証しを立てることを許されているのです。ですから、キリストを信じることと、義なる者とされることは一つのことです。
 神の選びは、その人の持つ能力とは関係ありません。能力を買われての選びであれば、その能力が誉め称えられるだけです。しかしそうではなくて、神が誉め称えられることです。自分は神に選ばれた、だから自分を誉めるということではありません。選ばれた者として、だからこそ、神を表すのです。自分に能力があれば自分を証しすることになります。しかしそうではない。神の選びであれば、自らを証しする必要はないのです。

 ここで「期間」ということも考えておかなければなりません。苦難は必ずあると、主は言われます。それは、運命論や決定論ではないということです。苦しみの中で、神の支配があるのです。神が御心を遂行しておられるのです。私どもの救いのために、神は生きて働きたもうことを示しております。

 21節「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない」と、「そのとき」と言われております。終わりの日を前にして「そのとき」に、主は「信じてはならない」と教えてくださっております。22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」と言われます。偽物が出現して、しるし、すなわち奇跡を行い、神の力を宿すしるしだと言って誇る者、キリストの再来だと自称する者がいる。それゆえに、主が言われることは「信じてはならない」ということです。それは、キリスト者の群れを惑わそうとしていることだからです。

 キリスト者にとって、キリストがすべてです。「わたし以外にない。わたしに代わる者はいない」と、主は言われます。キリスト以外にない、ということを明確に示してくださっているのです。御子キリスト、父なる神、聖霊なる神という「三位一体の神」以外に、私どもの信じるものはありません。信じるとは、崇める対象であるということです。私どもが礼拝するお方は、「御子キリスト・父なる神・聖霊なる神」である「三位一体の神」のみです。私どもの崇める対象は、ただ神のみです。キリスト者は、自称キリスト者を信じるのではありません。終わりの日の救いの完成を成してくださる神を信じるのでなければ、様々に束縛され、ただ滅びに至るのです。

 本来、人は、他者に依存する存在です。人は信じられない者であると同時に、「信じたい」者です。なぜ信じたいのかと言えば、それは交わりの中で育つからです。ゆえに、他者に依存するという思いは、自ずと生まれてくるのです。ですから、人は、様々に神以外のものを信じます。信じられないことは最も不幸なことなのです。
 しかし、信じることには大切な要素があります。真実の無いものを信じるならば、そこには必ず裏切りが起こるのです。人は真実になりたいと思いますが、しかし、なれません。不完全な者なのですから、裏切りたくなくても、裏切ってしまうことになるのです。人は、真実であり切れない者を信じようとしますが、それは信仰の対象ではないのです。人は自分本位であり、自分の利益を求める者ですから、自分の利益によって信じようとするのです。そこで、その人のためにと何かをしても、結局は裏切られるということが起こります。
 今の社会は自意識の高くなった社会ですから、助けられることは屈辱です。他者に負い目を持つことになりますから、助けても、その人の為にならないということが起こるのです。昔より自尊心が高くなったゆえに、情けは重荷になり、却って恨みが生まれるのです。それが現代のあり方です。それでは、かつてのような助け合いができる交わりを作ろうとしても、人の心情が変わってしまっていますから、それはなかなかできません。自分の利益を優先するようになればなる程に、人は信頼に足らなくなるのです。

 けれども、信頼できないそのような者を神は愛してくださいます。信じたくても信じられない社会、そこで求められていることは何か。それは「愛する」ことです。神が罪人を愛してくださったゆえに、御自身が犠牲を払ってまで愛してくださったゆえに、人は人を信じるのではなく、人を愛することをもって生きることです。神の慈しみのゆえに、愛するのです。
 愛するというとき、自分が愛の主体となってはなりません。愛されている者として愛するのです。愛する相手も神に愛されている者だと知って愛する、それが「他者を愛する」ということです。憎まれようと、歯向かわれようと、それでも神の愛し給う人と思うならば、自分の思いから解き放たれるのです。

 主イエスは「私のみ、信じなさい」と言ってくださっております。人は信じるに足りない者であることを知っておられるゆえに、愛をもって共同体を作るべきことを示してくださっているのです。キリストの自己犠牲によって、教会の交わり、共同体は作られているのです。

 続けて主イエスは言われます。23節「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」。予め主が言っていてくださること以外に信じるものはないと言ってくださっているのです。この後、いろいろと言う人がいても、それは信じる対象ではないと教えてくださっております。

 「気をつけていなさい」とは、神の御言葉に心を留めなさいということです。そのことによって、違いを見分けることができるのです。人の能力としての注意力などは、どんどんと衰えていくばかりですから、そうであれば、主の御言葉に心を留めること以外にないのです。
 そして、私どもには、既に御言葉が与えられております。御言葉をお与えくださった方のみを信じること、それがここに示されていることです。

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