2014年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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人の子が来る | 2014年11月第1主日礼拝 2014年11月2日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章20〜27節 | |
13章<20節>主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。<21節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。<22節>偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。<23節>だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」<24節>「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、<25節>星は空から落ち、天体は揺り動かされる。<26節>そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。<27節>そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 |
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主イエスは、終末を前にして苦難が続くことを語った上で、20節「…しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と言ってくださいました。主は、人が苦難に耐えられないことを知っていてくださいます。 人が苦しむとき、苦しむ心は自分に向いて、なお苦しみに悶えます。自らへと心を向けることは、自らに執着し、そこから抜け出せずに苦しむのです。そのような苦しみにある者を、神は憐れみ給う。神は、人の苦しみを御自分のものとしてくださるほどに憐れみ深いお方です。それが主イエス・キリストの父なる御神なのです。 苦しみに遭うとき、そこで神へと向かい、神に苦しみを訴えることのできる人は、そこで深く神との交わりを得、神の憐れみを知るでしょう。けれども、神に向かえない、そのような者をも神は憐れみ、語りかけてくださるのです。十字架の主イエス・キリストは、踏み出し給う神です。私どもの方へと一歩を踏み出してくださるのです。 「御自分のものとして選んだ人たち」と言われていることに、神の選びとは何かが示されております。「選ぶ」とは、神が「御自分のものとする、神の民とする」ということです。人は、選ぶと言うとその人の能力によって選ぶと考えますが、神の選びはそうではありません。神は「ご自分のものとするために」選ばれるのです。その人の能力によっての選びではない。神の選びは、取るに足りない者、欠け多い者を選ばれるという選びです。それは、欠けたる者であるがゆえに自分を表さず、神を現すこととなるからです。 代価を払って贖われたのですから、私どもはキリストのもの、神のものとされるという恵みを与えられております。私どもは神の所有なのです。自分のものではありません。それが「キリストのもの」ということです。自分で自分を持て余すこともある私どもです。そんな者を「わたしのもの」と言ってくださる神なのです。自分で自分をコントロールできないような者を、主はご自分のものとしてくださるとは、何と有り難いことでしょう。 神の憐れみによってしか、人は救われません。「キリストのもの」としてくださる、そういう者であると覚えて、神は期間を縮めてくださると言ってくださっております。キリストのものとするということは、神の民とするということです。そしてそれは「教会」を意味しております。何と幸いなことでしょう。神は私どもの群れを覚えていてくださるのです。教会は神の御国を映す群れです。神はその群れを覚えていてくださるのです。 罪人がキリストに贖われる、それは「義人とされる」ということです。キリストの所有の群れとして義、それゆえに教会は人々を救うのです。 ここで「期間」ということも考えておかなければなりません。苦難は必ずあると、主は言われます。それは、運命論や決定論ではないということです。苦しみの中で、神の支配があるのです。神が御心を遂行しておられるのです。私どもの救いのために、神は生きて働きたもうことを示しております。 21節「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない」と、「そのとき」と言われております。終わりの日を前にして「そのとき」に、主は「信じてはならない」と教えてくださっております。22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」と言われます。偽物が出現して、しるし、すなわち奇跡を行い、神の力を宿すしるしだと言って誇る者、キリストの再来だと自称する者がいる。それゆえに、主が言われることは「信じてはならない」ということです。それは、キリスト者の群れを惑わそうとしていることだからです。 キリスト者にとって、キリストがすべてです。「わたし以外にない。わたしに代わる者はいない」と、主は言われます。キリスト以外にない、ということを明確に示してくださっているのです。御子キリスト、父なる神、聖霊なる神という「三位一体の神」以外に、私どもの信じるものはありません。信じるとは、崇める対象であるということです。私どもが礼拝するお方は、「御子キリスト・父なる神・聖霊なる神」である「三位一体の神」のみです。私どもの崇める対象は、ただ神のみです。キリスト者は、自称キリスト者を信じるのではありません。終わりの日の救いの完成を成してくださる神を信じるのでなければ、様々に束縛され、ただ滅びに至るのです。 本来、人は、他者に依存する存在です。人は信じられない者であると同時に、「信じたい」者です。なぜ信じたいのかと言えば、それは交わりの中で育つからです。ゆえに、他者に依存するという思いは、自ずと生まれてくるのです。ですから、人は、様々に神以外のものを信じます。信じられないことは最も不幸なことなのです。 けれども、信頼できないそのような者を神は愛してくださいます。信じたくても信じられない社会、そこで求められていることは何か。それは「愛する」ことです。神が罪人を愛してくださったゆえに、御自身が犠牲を払ってまで愛してくださったゆえに、人は人を信じるのではなく、人を愛することをもって生きることです。神の慈しみのゆえに、愛するのです。 主イエスは「私のみ、信じなさい」と言ってくださっております。人は信じるに足りない者であることを知っておられるゆえに、愛をもって共同体を作るべきことを示してくださっているのです。キリストの自己犠牲によって、教会の交わり、共同体は作られているのです。 続けて主イエスは言われます。23節「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」。予め主が言っていてくださること以外に信じるものはないと言ってくださっているのです。この後、いろいろと言う人がいても、それは信じる対象ではないと教えてくださっております。 「気をつけていなさい」とは、神の御言葉に心を留めなさいということです。そのことによって、違いを見分けることができるのです。人の能力としての注意力などは、どんどんと衰えていくばかりですから、そうであれば、主の御言葉に心を留めること以外にないのです。 |
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