2014年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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人の子が来る2 | 2014年11月第2主日礼拝 2014年11月9日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章24〜31節 | |
13章<24節>「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、<25節>星は空から落ち、天体は揺り動かされる。<26節>そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。<27節>そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」<28節>「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。<29節>それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。<30節>はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。<31節>天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 |
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24節「それらの日には」と、主イエスは言われます。14節以降に記されているさまざまな「苦難」に続く日のことを言っておられるのです。キリスト者は苦しみを受ける。それからその日が来る。これから来るその日に何が起こるのかが、24節25節に述べられております。 このことも大事なことです。人の罪は、最終的に「裁かれる」からです。どうしてでしょうか。罪が清算されるということが起こるからです。清算されて、罪は終わります。清算されなければ、罪は残りますから、救いは無いのです。 では、どこで私どもは救いを自覚するのでしょうか。それは、祈りにおいて、御言葉に聴き、礼拝することにおいてです。今この礼拝でこそ、神との交わりを頂いているからです。神との交わりを失っていることが罪の姿ですから、礼拝を失うことは罪です。救いの生活、それは礼拝し、祈り、御言葉に聴く生活なのです。 さて、しかしここでの主イエスの言葉は、罪人の裁きを語ってはおりません。終わりの日を主が語るのは、26節「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」というのです。終わりの日の裁きを語っておられるのではありません。闇なる日であると語りつつ、しかし「人の子の到来の日である」と語ってくださっております。 罪なる私どもの救い、それが「神の御子が人となってくださる」ことの意味合いです。そこに神のご意志があるのです。 主イエスがご自身を「人の子」と言われる。それは、敢えて私どもと同じ「人となってくださっている」、そういう意味によって「人の子」と言ってくださっているのです。 そして、主イエスが言われていることは、約束における「主の来臨」ということです。「人の子の来臨」を、ご自身のこととして語っておられます。ここに言う「人の子」は、主以外の人がメシアとして来るということではありません。主ご自身が敢えて人の子となったこと、人の子として来られることを強く印象づけて言われているのです。 人の救いは、神を神として知ることにあります。本来、人は罪ゆえに不完全な者、神との交わりを頂けない者です。完全なお方である神との完全な交わりを与えられる、それが終わりの日の完成です。終わりの日に、完全な神との交わりに入れられる。ですがそれは、完全であられる神あってのことです。 「雲に乗って来る」と、主は言われます。旧約聖書の中で、モーセがホレブ山で十戒を授かった時を思い起こしますように、雲とは、神の臨在を表すのです。「雲に乗って来る」とは、神が臨んでくださること、主イエスが神として臨まれることを示しております。 ここに、非常に大きなコントラストがあります。終わりの日は罪の裁かれる日であり、闇として描かれる。ところが、人の子としての主イエスの到来は、栄光として、光として表されております。 神を信じることによって、私どもは、闇から光へと変えられるのです。 信仰とは「明るい」という出来事です。なぜならば、罪赦されているからです。罪を赦された者としての明るさがあるのです。ですから、信仰者は明るい。落ち込んでいたとしても明るい、それが大事です。キリストの光を頂いているから、罪赦されているからです。信仰者にとって、元気で明るいという印象はとても大事です。 27節、人の子が来るのはどうしてでしょうか。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と言われます。人の子の到来は、「選ばれた人たちを四方から呼び集めるため」だと言うのです。地の果てからだけでなく、天からも呼び集めて、主との交わりに入れてくださるためです。終わりの日、信じた者を全く神との完全な交わりに入れてくださる。苦難の後に、人は見るのです。主の来臨の日である終わりの日の、神との完全な交わりを望み見ることを赦されているのです。 神の選びは、自分を高めることではありません。「ただ神の憐れみによって選ばれる」ことを忘れてはなりません。憐れみのゆえだからこそ、感謝をもって受けるのです。選ばれたと傲慢になってはいけません。憐れみとしての選びなのですから、選ばれた者して、低くなること、へりくだって仕えることです。 神の選びと自らの低さを喜びとすること、それがキリスト者の姿です。 |
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