聖書のみことば
2014年11月
11月2日 11月9日 11月16日 11月23日 11月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 人の子が来る2
2014年11月第2主日礼拝 2014年11月9日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第13章24〜31節

13章<24節>「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、<25節>星は空から落ち、天体は揺り動かされる。<26節>そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。<27節>そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」<28節>「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。<29節>それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。<30節>はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。<31節>天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 24節「それらの日には」と、主イエスは言われます。14節以降に記されているさまざまな「苦難」に続く日のことを言っておられるのです。キリスト者は苦しみを受ける。それからその日が来る。これから来るその日に何が起こるのかが、24節25節に述べられております。
 「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」と主は言われましたが、これは、イザヤ書13章9〜10節を用いて語られた言葉です。「見よ、主の日が来る、残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない」、イザヤ書でいう「主の日」はどういう日かというと、「太陽も星も月も一切が光を失う闇に世界が覆われる日。その日には主なる神の怒りが下され、罪人が断たれる」と言われております。神の怒りが臨み、罪人が一掃される日だと、イザヤは言うのです。それは「終末」を表しております。終末は神の審判の日です。「主の日」それは「罪人が裁かれる日」、ですから「闇」という印象として描かれております。「主の民の裁きが行われる日である」と、イザヤは語っているのです。

 このことも大事なことです。人の罪は、最終的に「裁かれる」からです。どうしてでしょうか。罪が清算されるということが起こるからです。清算されて、罪は終わります。清算されなければ、罪は残りますから、救いは無いのです。
ですから、「罪の赦し」ということを誤解してはなりません。「罪の赦し」は、罪が清算されずに帳消しになるということではないのです。「罪赦された」ということは、罪のままで良いということではない。代価を支払っての罪の清算なのです。その代価とは、主イエス・キリストです。
 人は、「罪赦されて、神との交わりを回復する」のです。罪赦されたことが救いなのではありません。「罪赦された者の救い」とは、「神との交わりに生きる者となった」ということです。私どもに罪が無くなったということではない。そうではなくて、神との交わりの回復が赦されたのですから、赦された者として、だからこそ、神との交わりに生きるのです。それが私ども罪人の赦し、救いなのです。「罪の赦し」は「赦された者として神との交わりに生きる」ということを含んでいるのです。
 ですからこそ、日々に神の御名を呼び、御言葉に聴き、讃美し、祈りつつ生きることが大事です。日々神との交わりに生きること、そういう生活をする、それが「救われた」ということの内容です。復活の主による永遠の命を与えられた者として「神との交わりに生きること」、それが救われた者の姿なのです。

 では、どこで私どもは救いを自覚するのでしょうか。それは、祈りにおいて、御言葉に聴き、礼拝することにおいてです。今この礼拝でこそ、神との交わりを頂いているからです。神との交わりを失っていることが罪の姿ですから、礼拝を失うことは罪です。救いの生活、それは礼拝し、祈り、御言葉に聴く生活なのです。
 終末とは、究極の救いの出来事を言います。今この時は、終末における救いを約束として与っているのです。私どもが神との交わりに生きること、それは礼拝によって表されております。ですから、救いは私どもの信仰生活、礼拝生活の中にあるのです。他のどこにもない、ここにこそ、礼拝にこそあるのです。
 罪の赦しは神との交わりの回復です。交わりの回復なくして、救いを表すことはできません。ですから、罪赦されることの意味合いをはっきりしていなくてはなりません。罪の清算、代価を支払っての贖いなくして、赦しは無いのです。

 さて、しかしここでの主イエスの言葉は、罪人の裁きを語ってはおりません。終わりの日を主が語るのは、26節「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」というのです。終わりの日の裁きを語っておられるのではありません。闇なる日であると語りつつ、しかし「人の子の到来の日である」と語ってくださっております。
 「人の子」とはだれでしょうか。通常、人の子は人間を意味します。けれども、主が26節で言われる「人の子」は、ダニエル書を用いて語っておられる言葉です。「神より光を授かった者、統治する者」として用いられております。人の子は、本来は人ですが、その者に神がご自身の王権を与えて地を治めさせられる、すなわち、「人の子」は「メシア」を意味するのです。主イエスは、「力と栄光を帯びてメシアがやって来る」と言っておられるのです。
 覚えておくべきことがあります。度々主はご自身を「人の子」と言われておりますことは意味深いことです。主イエスは、神の子なる救い主です。その救い主が「人の子となる」という自覚によって、主はご自身を「人の子」と言ってくださっているのです。「神の子でありながら人となってくださった」ということ、これは、論理的には有り得ないことです。そこに神の強い意志が現れております。神が人となるということは本来有り得ないこと、それは「神が敢えてなさる」以外に有り得ないことなのです。論理的には有り得ない、それゆえに神は全能です。並々ならぬ神の強い意志によることなのです。
有り得ないことを敢えてなさるまでの神の強い意志、それは「罪人の救い」です。罪なる私どもの救いなど、本来有り得ないことです。しかしそれを、神は敢えてなさるのです。
 神が救うと言われる、それは生半可なできごとではありません。全てを凌駕するほどの強い神の意志、それが主イエス・キリストの十字架を通しての神の救いの御業なのです。私どもは、主の十字架の出来事を中途半端にしか捕らえていないかもしれません。けれども、神の御意志は違うのです。私ども罪人の救いのために、強い意志をもって臨んでくださっているのです。
 私どもにはあまり感覚がないかも知れませんが、神の最も強い意志とは何でしょうか。「それでも救う」という神の覚悟です。私どもはこのように、神が敢えて成してくださった救いの恵みに与っているのですから、それゆえに、私どもには「感謝」の他ないのです。

 罪なる私どもの救い、それが「神の御子が人となってくださる」ことの意味合いです。そこに神のご意志があるのです。 主イエスがご自身を「人の子」と言われる。それは、敢えて私どもと同じ「人となってくださっている」、そういう意味によって「人の子」と言ってくださっているのです。

 そして、主イエスが言われていることは、約束における「主の来臨」ということです。「人の子の来臨」を、ご自身のこととして語っておられます。ここに言う「人の子」は、主以外の人がメシアとして来るということではありません。主ご自身が敢えて人の子となったこと、人の子として来られることを強く印象づけて言われているのです。
 終わりの日のメシアなるキリスト・イエスの来臨の日を、裁きの日としてではなく、救いの日として、主は語っておられます。それは、裁きの日であると同時に救いの日、メシアが臨んでくださる日です。神の力を帯びておられる方の来臨。神としての栄光を帯びて来られるのです。「栄光」それは、神が神として現されることです。主イエスが神として臨んでくださる終わりの日、神の救いが臨む日なのです。

 人の救いは、神を神として知ることにあります。本来、人は罪ゆえに不完全な者、神との交わりを頂けない者です。完全なお方である神との完全な交わりを与えられる、それが終わりの日の完成です。終わりの日に、完全な神との交わりに入れられる。ですがそれは、完全であられる神あってのことです。
 今、私どもは終わりの日に完成を見ることができるという約束の中にあります。何と幸いなことでしょう。それは、神との正しい関係にあってのことです。神との正しい関係にあって、完全なお方との交わりに入れられる、それによって私どもも完全な者とされるのです。神が神として臨んでくださり、私どもが神を神として覚える、それは神の栄光の中に入れて頂く者として、神にある完全な者とされるということです。

 「雲に乗って来る」と、主は言われます。旧約聖書の中で、モーセがホレブ山で十戒を授かった時を思い起こしますように、雲とは、神の臨在を表すのです。「雲に乗って来る」とは、神が臨んでくださること、主イエスが神として臨まれることを示しております。

 ここに、非常に大きなコントラストがあります。終わりの日は罪の裁かれる日であり、闇として描かれる。ところが、人の子としての主イエスの到来は、栄光として、光として表されております。 神を信じることによって、私どもは、闇から光へと変えられるのです。
 信仰は、光なる出来事です。闇なる者が、光を頂くことです。これは、私どもの教会に大変ぴったりとしていることです。会堂は、常に外から光が入る設計で、それは日本一日照時間の長いこの地に合っています。そして、信仰を持っている者の明るさがあります。私どもの教会の特色は、信仰にある明るさと言えるでしょう。それは大事なことです。

 信仰とは「明るい」という出来事です。なぜならば、罪赦されているからです。罪を赦された者としての明るさがあるのです。ですから、信仰者は明るい。落ち込んでいたとしても明るい、それが大事です。キリストの光を頂いているから、罪赦されているからです。信仰者にとって、元気で明るいという印象はとても大事です。
 罪なる闇と、信仰の光・明るさを頂いているのですから、信仰生活は明るいのだということを覚えたいと思います。

 27節、人の子が来るのはどうしてでしょうか。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と言われます。人の子の到来は、「選ばれた人たちを四方から呼び集めるため」だと言うのです。地の果てからだけでなく、天からも呼び集めて、主との交わりに入れてくださるためです。終わりの日、信じた者を全く神との完全な交わりに入れてくださる。苦難の後に、人は見るのです。主の来臨の日である終わりの日の、神との完全な交わりを望み見ることを赦されているのです。
「選ばれた人たちを四方から呼び集める」、それはすなわち「キリストを信じる者たちを呼び集められる」ということです。主イエスが語られる終わりの日の出来事は、主が信じる者を集めてくださって、交わりに入れてくださるという恵みなのです。

 神の選びは、自分を高めることではありません。「ただ神の憐れみによって選ばれる」ことを忘れてはなりません。憐れみのゆえだからこそ、感謝をもって受けるのです。選ばれたと傲慢になってはいけません。憐れみとしての選びなのですから、選ばれた者して、低くなること、へりくだって仕えることです。
 憐れみを知る出来事は、低き思いを持つことにつながります。主が十字架にまでつき、ご自身を低くしてくださった、そうまでしての選びなのです。
 ですから、自らを高くすることは、神の選びに反することであることを忘れてはなりません。 神の憐れみによって選ばれ、私どもは低きに至るのです。

 神の選びと自らの低さを喜びとすること、それがキリスト者の姿です。

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