主イエスが「いちじくの木から教えを学びなさい」と言われます。28節「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」と言うのです。パレスチナは雨季が明けると夏が敏速にやって来ます。すぐに葉が繁るのです。
ここで強調されていることは何でしょうか。それは「近さ」ということです。何が近いのでしょうか。ここはなかなか難しいところですが、24節からを受けていると考えますと、そこでは天変地異の後に「人の子が来る」と言い、29節ではいちじくの木のしるし、それと同じように、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。つまり「人の子の到来の近さ」が強調されているのです。苦難や天変地異が終末の前に起こる。しかしそれは同時に「人の子の到来の近さである」と、主は言ってくださっております。
「人の子」とは、主イエスご自身のことです。終末の近さが、主イエスの再臨の近さとして語られております。これは大切な視点です。終末は単なる滅びの時なのではなく、救い主の到来の時なのです。
ここで注目すべき言葉は、「近い」という言葉です。これは大切なことなのです。私どもにとって「信仰」とは、どういうことでしょうか。それは「近さ」を意味しております。「主イエス・キリストを近きお方として知る」こと、それは一つの信仰の姿勢なのです。神が近いと知ること、それが信仰なのです。
ここで苦難や天変地異が語られておりますが、それは、苦しみや困難を覚えるとき、人は「神を呼ぶ」からです。困難を覚えるとき、その人の心が曲がっていなければ、神に向かうでしょう。曲がっていると、何事も人に向かい人のせいにしてしまうのです。どんな時に神の近さを知るか。労苦の中でこそ、私どもの心は神へと向かいます。人は、順風満帆であることが必ずしも良いわけではありません。順風満帆であれば、それで満足してしまい、神の近さを忘れるからです。
そして、苦しみの中にあってこそ、同じように苦しむ人を理解し、近い者として感じることができます。それは、苦しみ、悲しみ、痛みを知ることで、痛む人と近くなるということなのです。
私どもにとって、神の近さとは何でしょうか。忘れてならないこと、それは、私どもが主体となって主を知るということではないということです。主を知ることは、神の恵みとして私どもに与えられているものです。自分を主体にして考えることではありません。それは、キリストの方で、私どもの苦しみを担ってくださったからです。神の子でありながら「人とまでなってくださった」からです。すなわち「受肉」とは、神が私どもと近き者となってくださったという恵みの出来事なのです。
神が私どもと近い者となってくださっているのであって、私どもが神の近くにいるということではありません。とてもとても神に近くなどなれない私どもに、神の方で近くにいたもうということなのです。
神の御子が人となってくださった、それがクリスマスの出来事です。まさしく、神が私どもと近き者となってくださったという恵みです。それは同時に、御子をこの世に送ってくださった父なる神が、私どもの近くにいてくださるという恵みなのです。主イエス・キリストの出来事とは、神が私どもの近き者となってくださったという恵みの出来事、そして、主を知るという私どもの信仰の出来事であることを覚えたいと思います。
キリスト教は愛の宗教であると一般的に言われておりますが、これは平板に語れないことですので敢えて強調しようと思いません。けれども、隣人愛はキリスト教の一つの教えであることは確かです。隣人愛とは何でしょうか。それは、その人を一番身近な存在とするということです。それは誰をも愛する博愛ということではありません。誰よりもその人を一番身近な者とするということ、それが本来の定義です。
神の御子が私ども人間に最も近い者となってくださいました。何よりもまず、主が私どもの隣人となってくださった、だから、主は「隣人を愛しなさい」と言われるのです。ただ主イエス・キリストによって、私どもは、主に最も近い者とされました。このことを抜きにして隣人愛を語ることは、隣人を裁くことに繋がります。人は、自分の持つ愛の概念と合わなければ、人を愛するのではなく、裁いてしまうのです。そういうことではなく、神が最も近き者となってくださっているということが根底にあってこそ、他者を近い者と思うことができるのです。
「最も近きお方」として主イエスを呼ぶこと、それが私どもの信仰です。主が近くなってくださったがゆえに、最も親しいお方として主を呼ぶ歩み、それが私ども信仰者の歩みなのです。
そうであるならば、この「礼拝」は、とても重要です。「呼ぶ」ということは「祈る」ことであり、それが最も神を親しいお方とするということですから、私どもは神を呼ばざるを得ない者です。祈らねばならない、聖書を読まなければならない、礼拝しなければならない、ということではありません。まさに、神を、親しいお方を呼ばずにはいられない、神との交わりを求めずにはおられない、それが礼拝し祈ることです。主が最も近きお方として今ここに在す、それが礼拝です。
ここで、主(人の子)の近さが、終末の近さとして語られております。滅びと救いが目前にある。それは滅びか救いかのどちらかであって、中間はありません。滅びを思えば、一層、救い主を感じざるを得ません。終末のときこそ、主を最も近いお方として覚えるときです。
けれども私どもは、終末になってからということではなく、既に今、主を最も近きお方として知る恵みに与っております。それは、十字架の主が甦ってくださったからです。復活の主イエスと共に、終末は始まっているのです。私どもが今感じる主との親しい交わり、それは、終わりの日の主との親しい交わりの先取りとして与えられているもの、前味なのです。
信仰者とは、神を近いお方として生きるということです。では、不信仰とはどういうことでしょうか。それは、神を遠い方とすることです。神から遠いこと、それが罪の出来事です。創世記、アダムとエバの罪は、自意識過剰になった人の罪を示しております。神に呼ばれて、神から隠れる、神を遠ざける、それが不信仰です。また、ルカによる福音書にある放蕩息子は父の愛から独立したいと思い、与えられた財産を持って父から遠ざかりましたが挫折しました。自立を求めることは重要なことですが、放蕩息子の愚かさは、父から遠ざかったことです。遠ざかって初めて知ったことは、父が雇用人たちにも最も近い方だったことでした。そして彼は父へと立ち帰りました。彼は、父の愛の中にありながら、破綻するまで父の近さを感じられませんでした。
神は裁きをどう行われるでしょうか。近さと遠さということで語られているのはバベルの塔の物語です。文化とは、人と人との交わりを深めるもの、共同体を作るという人に与えられた恵みでした。けれども、人は自分を高めるために文化を用い、高い塔を作り、神に代わる者になろうとしました。そこで起こったことは、コミュニケーションの断絶でした。言葉が通じなくなり、人と人とが遠くなりました。自意識過剰は人を傲慢にし、人は人とコミュニケーションできなくなる、遠くなるのです。人は、交わりを生きる存在です。にも拘らず、人と人とが遠くなる、それが人の傲慢の帰結としての「裁き」ということです。誰のせいでもない、人自らが至ってしまう結果、それが神の裁きの出来事です。交わりを絶つこと、遠さ、それが既に裁きです。そして、その遠さということは、人が人としての尊厳を失うこと、交わりからの孤立によって、自らの存在に空しさを覚えることです。
ですから、自ら驕るところで人は既に滅びにあるのです。今この礼拝の場で神を崇め、神の御名を呼び、神を近きお方として知ることは、大いなる神の恵み、憐れみの出来事であることを覚えたいと思います。神が私どもに最も近きお方として、今臨んでおられる、それが私どもの礼拝です。
29節「人の子が戸口に近づいている」と言われます。人の子、すなわちメシアが戸口に近づいている、これは救いの近さを示す言葉です。私どもの救いが近いのです。それは終わりの日との関連で言えば、終末における救いの完成の近さと言って良いのです。もちろん、既に私どもは救いの内にありますが、しかしその救いは、この地上においては完成してはおりません。終末における救いの近さとは、つまり救いの完成の近さということなのです。
けれども、どれだけ不完全な救いであったとしても救いに違いはなく、必ず完成を見る救いであるのです。しかしそれは、ただ神によってのみであることを忘れてはなりません。
実は、28節の「いちじくの木の教え」は、元々、終末における人の子の到来の近さを語っているものではありません。本来は「主イエスと共に神の国が到来する」ことを言っております。主イエスは、町々村々で人々に教え、奇跡を通して多くのしるしを示されました。そのしるしとは何か。それは神の国のしるしです。このことはとても重要です。マルコによる福音書の最初、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。それから主はご自身の御業を通して、神の国の到来を示されました。ですからここで、「しるしを見たならば、ここに神の国があることを知りなさい」と言われたのです。
この本来の道筋を無視することはできません。なぜならば、主イエス(人の子)の近さは、救いと示されているからです。「救い」それは「神の民とされる」ということです。神との交わりに生きる者とされるということです。そこに、神の支配が起こる、それこそが神の国であることが示されているのです。
礼拝の恵みとは何でしょうか。そこで私どもが神の民とされていることを感じることです。救いの近さとは、神の支配、神の国の到来の近さなのです。私どもは、救われて、神の国の民とされるのです。
30節、続けて主イエスは「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。「はっきり言っておく」と宣言されるのです。「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」、すべてが起こった後に到来するとは、どういうことでしょうか。いろいろと起こるが、しかしそれは滅びではないと言っておられるのです。この地は一掃される、けれども「わたしの言葉は決して滅びない」と言っておられます。
地上の滅びは必然のことです。けれども、その上でなお、「キリストの言葉のみ残る」と言っておられます。この世の一切の力、価値観は絶対ではありません。すべて相対的なものです。自分がどう思っているかということも絶対ではない、相対化されるものです。地上のもので絶対なものは、何一つないのです。
ただ神の言葉のみ、主イエス・キリストの言葉のみ、揺るぎない。地上が滅びようとも、主の言葉は成るのです。
地上を終わってなお、価値を失わないのはキリストの言葉のみです。人の言葉は絶対ではありません。絶対と言い切るところに人の傲慢があります。ただ主の言葉のみ救いがあるのです。なぜならば、神の言葉は真実だからです。人の言葉は、時として真実であったとしても、常にそうではありません。
ただ主の言葉のみ真実、主が「あなたの罪は赦された」と言ってくださる、その主の言葉のみ真実であるがゆえに、私どもは赦されるのです。「主よ、憐れんでください」と主を呼ぶところで、主より御言葉を頂いて、神の国の民とされるのです。
主の言葉のみ真実であるがゆえに、今のこの時代、天変地異の中にあっても、神の国の民としての希望に生き得ることを感謝したいと思います。 |