今日のエレミヤ書13章には、比喩的な表現等で5つの警告、苦言が書かれています。イエスは、譬え話の名人で、優れたものを福音書に50話ほどを残しておられますが、エレミヤの譬えは、それと比較すれば一目瞭然拙劣であると言わざるを得ません。しかし、エレミヤの譬えは、自身の体験的背景があるという点で特色がみられます。ただ内容を吟味すれば無理があるように思えます。今司会者に読んでいただきましたので、繰り返す必要はないかもしれませんが、その内容を見ていきます。
主は、エレミヤに「麻の帯」を買うように命じます。「帯」は、その人の名とし、誉れであり、栄とするものと言われていました。故に、きちっと締められていないと、全体がしどけない、だらしない感じを与えるものになります。帯は、その人を表し、その人と共にあり、その人を輝かせるものでもあります。
腰に帯がしめられるように、神と共にいなければならない契約、律法、戒めを象徴しているものとされていました。神との関係を帯にたとえて、密着していることが大切であることを言っています。神とイスラエルは、親密な関係にあることが大事だと考えられていました。いわば、人の中心を表すものの象徴と言っても良いでしょう。
パウロは、コロサイの信徒への手紙3章13節に、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と語っています。この箇所はよく結婚式で読まれますが、口語訳では、絆のところが、帯と訳されていました。また、岩波訳では、「紐帯」となっています。パウロは、神の愛がすべてを完全に結びつけるものとしていました。つまり、愛は、帯だというわけです。すべての中心に愛を置いているわけです。
そのような「帯」をユーフラテス河に行って、岩の裂け目に隠すように命じました。それは神の誉れを表さない、栄光を表さないものにすることを意味しています。隠すということは、見えなくすることです。 神を見えなくすることを意味しています。
エレミヤは、そこに行って岩の裂け目に帯を隠しました。それから「多くの月日が経った後」とありますから、これはバビロン捕囚を暗示していることは言うまでもありません。再び主はエレミヤに、ユーフラテスに行き、岩の裂け目に隠した「麻の帯」を見つけ出すよう命じるのです。行って、それを取り出してみると帯は腐り、全く役に立たなくなっていた(7節)と記されています。
これは譬えですから、そのことを殊更に考えなくても良いとは思いますが、エレミヤの体験的なものであるとするならば、注解者は、この点に疑問を投げかけています。つまり、エルサレムからユーフラテス河まで、2回行っているということになりますが、その距離は片道約1000キロですから、(甲府一高の強行遠足、小諸〜甲府5往復分)約100日の行程になります。不可能とは言えませんが、実際そこに赴いていたかは疑問視されています。
エレミヤがここで言っていることは、イスラエル、ユダの傲慢を指摘していることは明らかです(9節)。 このことをエレミヤが指摘することができたのは、エレミヤのユダに対する思いが強く示されていることは言うまでもありません。イスラエルが、神に対して不従順(不服従)でありながら、にもかかわらず神の救いが貫かれていること、神の救いの道は閉ざされていないということが、この譬えの中で隠れていると考えて良いと思います。結論的には、それはまさにイエス・キリストの十字架の贖いへと繋がっていくものと言っていいでしょう。具体的には、この譬えの中で、神の意志とエレミヤの思いとが、明確に語られていることは明らかです。つまり、イスラエルが捕囚されたことは無論の事、そのことについて神は憐れみとしてイスラエルを帰還させようという思いが強く表れていること言えましょう(11節)。しっかりと神との関係を持つことを願っています。
しかし、現実は「神に従わなかった」のです。イスラエルは、神に逆らってしまったのです。
ですからユダの傲慢、思い上がりを厳しく戒めるものになっています。神の前で自分を主張することに対する神の怒りです。神の言葉よりも、自分の願いや思いを優先させることは傲慢なことです(私たちも、よく優先順位の事で悩みます。多くのことを目の前にして、何を一番にするか…)。祈りにたとえるならば、熱心な祈りは、ややもすると自己主張になりやすいのです。自己を高めることや、自分の誇りを優先させることに躍起になってしまうことに傾いてしまう恐れがあります。そこには自己実現への思いが潜んでいるわけです。神の御心を聞く姿勢と真逆なことになってしまいます。へりくだりではなく高ぶりであり、驕りになってしまいます。自己顕示的な姿勢になってしまいます。
神との契約を腐ったもの、使い物にならなくしてしまうことになります。ユダの人々、エルサレムに対する痛烈な皮肉を込めた言葉です。これが第一のたとえです。
二つ目は、酒壺に譬えた警告です。一つ目の帯と壺のたとえで、鍵(カギ)になる言葉は、7節と9節とに出ている「全く役に立たなくしてしまった」と「砕く」という言葉です。
ここに言われている壺は、最大級の酒を入れるツボです。酒は嗜好品ですから、人にとやかく言われるものではありません。コーヒーでも紅茶でも、人それぞれに好みがあります。酒もその一つですから、誰に何と言われても好きなものは好きなのです。タバコ、これほど肺がんのリスクが叫ばれていても、吸う人は吸うのです。それはそれで良いわけです。
しかしここで、殊更に酒と言われています。この場合はブドウ酒ですが。アルコールは世界中、どの民族でもそれぞれ地域性や環境などによって作られているものです。嗜好品ですから、そのことをうんぬんすることはできません。ただ、ここでエレミヤが語っていることは別の視点です。飲むと高ぶりが出てきて、横柄になる傾向があります。つまり、驕りが頭を持ち上げるわけです。つまり高ぶり、傲慢ということです。酒は、度を超すと気が大きくなりかねません。
我が家では、父がバリバリのピューリタンでしたから、禁酒禁煙でした。ですから灰皿も、とっくり、お猪口もありませんでした。そんな環境で育ちましたから、社会人になって初めて酒宴の席に着いた時、お猪口を見て、なんて小さなご飯茶碗があるのかと思ったほど無知でした。先日も、ある会合があって二次会で酒場に行くことになって、途中まで一緒に歩いたのですが、道すがら弁護士をしている方が、無駄な金をどれほどお酒につぎ込んだか、これも付き合いだから…とぼやいていました。私はその点、付き合いが悪いのです。
酒は、人を高ぶらせるものになりやすいのでしょうか。心を荒立たせたり、悲哀にするものなのでしょうか。心が神から離れるほどに泥酔することを警告しています。
それで、エレミヤは、神の怒りが臨んでこないうちに、神に栄光を帰して、悔い改めなさいと語るのです。心砕くことをせずにいることは、神に忍耐を強いることになるのだというのです。神は悔い改めることを待っておられるのです。
酒をやめることを戒めているのではありません。泥酔するほどに、自分を失ってしまうほどに酒におぼれることを警告しているのです。泥酔することは、人を高ぶらせることになりかねないからです(対立を生み、内部崩壊をきたすことも生じます。それは、自己破壊にもつながります)。神の契約に反して自己本位になるのではなく、主イエス・キリストのご栄光を表すことを求めること勧めているのです。神の慈愛と寛容を知っているならばと願っているのです。エレミヤは、心を痛めているのです。涙を流さんばかりにユダの人々が神に帰ることを祈っているのです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙5章18節で、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛美と霊的な歌によって語り合い、主に向って心からほめ歌を歌いなさい」と言っています。 ローマの信徒に宛てた手紙でも、酒宴と酩酊を捨てて、主イエス・キリストを身にまといなさいと勧めています。危機に直面したときに、酒に酔った者のように友と敵の区別がつかなくなるばかりか、自分をも失うことになるからというのです。
自分では、自分を立たせることができません。神によってこそ、自分が自分であることができるのです。
信仰は、神によって与えられたもので、自分でゲットすることができません。
エレミヤは「帯と壷」の譬えを語ったあと、13章15節、16節で「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ」と語っております。考えるとことをさせない時代、自分が失われる時代に生きてりる今の私たちに対して言われていることは、まさしく「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ」ということです。 |