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2013年12月 |
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12月1日 | 12月8日 | 12月15日 | 12月22日 | 12月29日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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仕える者になる | 最晩礼拝 2013年12月29日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章18〜25節 | |
9章<33節>一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。<34節>彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。<35節 >イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」<36節>そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。<37節>「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 |
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神の言葉と御旨に従う者として、一年の終わりの主の日に、共々に主を仰ぎ、讃美し、過ごせますことを感謝したいと思います。 主イエスは、弟子たちが議論し合っていることをご存知の上で、「途中で何を議論していたのか」と問うてくださいました。ここまでは3週間前に聴いたところです。 この沈黙に対して、主イエスは「真実な弟子とはどういう者か」ということを話してくださいます。 「すべての人の後になる」とは、「不名誉で良い」ということです。「人々が名誉を求めても、弟子であるあなたがたは不名誉を受けても良い、すべての人に仕えなさい」と、主イエスは言っておられます。 では「仕える者になりなさい」とは、どういうことなのでしょうか。「仕える」、それは「僕(しもべ)、奴隷の仕事」です。「仕える」ことは自由人のすることではありませんし、主人は仕えてもらう者です。ですから、ここで主イエスが「仕える者になりなさい」と言われたことは、当時の人々にとっては、「主イエスは驚くべきことをおっしゃった」ということです。自分を「自立した者、自由人」と思っている人にとって、「仕える」ことは不名誉極まりないことなのです。 「僕(しもべ)となれ、すべての人の奴隷となれ」と、主イエスは言われます。この前のところで、主イエスは2度目の受難を語られました。主の受難の予告とは何でしょうか。主イエスは人々の救いのために、ご自分の命まで献げて人々に仕えてくださる。その主イエスの弟子だからこそ、「仕えよ」と言われるのです。神は、主イエスを「人々に仕える者として」お遣わしくださいました。ですから、主の弟子たちも、人々の救いのために仕える者なのです。 「人々に仕える」とはどういうことでしょうか。主イエス・キリストは「人々の救いのために」仕えられました。ですから、弟子たちも、教会もまた、同じなのです。「人々の救いのために仕える」のです。そこでこそ、人々は神を知ります。私どもは、人々に仕えることをもって、神を表しているのです。そして、そういう者をこそ、神は顧みてくださるのです。 そして更に、36節「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」、主イエスは37節「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。真の弟子とはどういう者であるか、更に深く語られております。 「このような子供」ということを理解するためには、まず「子供」をどう理解するかが大事です。10章13節以下には、主イエスが子供を祝福されることが記されておりますが、その冒頭には「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」と記されております。なぜ弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱ったのでしょうか。子供がいると迷惑だったからです。当時の社会では、子供とは「人格が認められていない者」であることが、全世界に共通の考え方でした。今の社会とは違うのです。ですから、ここを理解するためには、当時「子供をどう受け入れていたか」ということが問題です。子供とは「取るに足りない者、弱くて無力な者」であることが前提に語られているのです。子供はうるさいだけだから連れて帰れと言って、弟子たちは大人たちを叱ったのです。大人から邪魔にされる存在、それが子供です。 仕えることが、「人々のために」という自負を持つ業であれば、神を表さず、自分を表すことになります。今の時代は、子どもの人格を重んじているとしても、本当の意味で子どもを大切にしているとは限らないように思います。そこにある偽善を知らなければなりません。子どもは大切な存在だと思って、人はあれこれ考え、例えば「子どものために」と教育が大事だと言いますが、しかし教育を受けられない子どももいるわけで、そこでは教育の格差が起こります。つまり、この世の価値観によって、子どもは翻弄されているのです。子どものためにとお金をどんどん使う、しかしそれは子どものためにという名目で大人が儲けているに過ぎません。そしてそれは、子どもを無力にすることでもあります。人はそれほどに罪深いのです。子どもを利用して大人の利益を求めることが起こっているのです。昔より子どもを大事にしていると思ってはなりません。深い罪があることを覚えなければなりません。子どもの尊厳は、人の目から見れば本当には重んじられないのです。 「子ども」とは、「他者から無意味とされる者」です。自らを、そのような者として見、神に依り頼む、神にすがるしかない者とする。そのような者を、主は良しとしてくださる、真実な弟子と言ってくださるのです。それが「すべての人に仕える」ことの意味です。 マルコによる福音書が書かれた時代背景も知らなければなりません。初代教会は迫害の中にありました。パウロも迫害を受けました。虚しくされるどころか亡き者とされようとし、また殉教の死を遂げた者もいたのです。ですから、ここに記されていることは、この世から虚しくされた者、弱い者とされた、そういう迫害の中にある教会への大きなメッセージとなっているのです。この世から虚しくされ迫害され、殉教の中にある教会にとって、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と主は言われる、それは、迫害を受け殉教の死を遂げた者たちと主イエスが同じ者と、一つなる者となってくださるということです。まさしくそのような者こそ「わたしを受け入れた者」として、主は誉めていてくださるのです。このことは大事です。この世から誉れを受けず迫害を受ける、そのような者を、主はご自分の弟子として認めてくださる、受け入れてくださって、一つの者となってくださいました。そればかりではなく、更には「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われます。そのような者は、「父なる神とも一つなる交わりに生きる、神の民とされる」と言ってくださっております。 「仕える」ということに意味を見出すべきではありません。ただ仕えるしかない者として、ただ神にすがるよりないことを知る。そこでこそ、神を神として表すのです。神を神として人々に示す、すべての人の救いを指し示すことなのです。それが証しを立てることです。 主は、自らの力をもって仕えよと言っておられません。ただ砕かれ、自分の罪深さにくずおれるところで、神にすがるしかない、そこでこそ、神を表すのです。そこでこそ「あなたはわたしのもの、子である」と言ってくださるのです。それが「子どものように」と言われていることです。 主の恵みのうちにあることを覚えつつ、新年を迎えたいと思います。 |
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