2013年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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愛によって新たにする | アドヴェント第2主日礼拝 2013年12月8日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/ゼファニヤ書 第3章14〜20節 | |
3章<14節>娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。<15節>主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。<16節>その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。<17節>お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」<18節>わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた。<19節>見よ、そのときわたしは お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い 追いやられていた者を集め 彼らが恥を受けていたすべての国で 彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。<20節>そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で お前たちの繁栄を回復するとき わたしは、地上のすべての民の中で お前たちに誉れを与え、名をあげさせると 主は言われる。 |
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14節、預言者ゼファニヤは、ユダの民に向かって「娘シオンよ、イスラエルよ、娘エルサレムよ」と呼びかけ、「喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び躍れ」と、「大いに喜ぶこと」を呼ばわっております。 ゼファニヤ書1章1節を見ますと、ゼファニヤの時代は「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」とあります。ヨシヤ王は宗教改革などをした王として知られている王ですが、この書にはそのことが記されておりません。ヨシヤ王が即位したのは8歳ですから、ゼファニヤが預言者として活動したのは、王とはいえ、まだヨシヤ王が幼い頃だったと思われます。 そして、「娘シオンよ、喜び叫べ」と言ってくれているのです。なぜ、「喜べ」と言われているのでしょうか。 私どもは、「裁き」は人の存在を失わせるものだと考えてしまいますが、そうではありません。人の存在を失わせるのは、苦しみであり混沌さなのです。曖昧さ、混沌さこそが滅びです。それゆえに、神の裁きが下されることを通して、裁きは終わり、悶々とした苦しみは終わるのです。「神を信じない」ところで、人は既に裁かれております。それゆえに、神は裁きを下し「裁きは終わった」としてくださるのです。それが「裁きを退ける」ということです。 イスラエルを苦しめていたのは他国の支配もありましたから、ここでは「お前の敵を追い払われた」とも言ってくださっております。そして、神が「神の民のただ中にいてくださる」と言われます。このことは、とても象徴的です。「救い」とは、この世の支配から解き放たれて、「神の支配に入れられること」です。それは「神の国が実現する」ということと一つです。 「神の国の民とされる」ことは、何と幸いなことかと思います。今、私どもの国の状況を考えますと、様々な事柄に右往左往させられるばかりで、現実のすべての状況において、どこにも救いを見出すことはできません。人々の求めの実現よりも、まずは国の繁栄、力ある者の繁栄が求められております。しかし、たとえ国が繁栄したとしても、そこに人々の喜びがあるでしょうか。繁栄は混沌を生み、混沌によって虚しさが生まれることでしょう。 イスラエルの罪を終わりとし、他国の統治から神ご自身が民を統べ治めてくださることが宣言されるゆえに、「お前はもはや、災いを恐れることはない」と語られます。「神こそがイスラエルの王である」ことを思い起こさせてくださっているのです。 ゼファニヤ書のこの箇所は、待降節に読まれる御言葉として重んじられております。主イエス・キリストを預言する代表的な聖書箇所なのです。 私どもは、一年のサイクルの中で、信仰の曖昧さを経験していきます。ですから、この待降節のときに、「信仰とは何か」を思い起こしリセットする、そのことの大切さを教会歴は整えております。キリスト教においては、イースター、ペンテコステが信仰の中心ですから、教会歴において待降節は、一番最後にできた最も新しいものです。そういうことから、オランダ改革派教会のように、今でもクリスマスを祝わない教会もあるのです。 そして、「信仰を新たにする」に当たってゼファニヤが語ったことは「喜び」です。「喜びに満たされること」、それが「信仰を新たにすること」なのです。「神の民とされている」ということは、「大いなる喜びをいただいていること」です。ゼファニヤは、「喜び」をユダの民に対して宣言しております。しかしこのことは、ユダに対してのみならず、この御言葉を聴く私ども、神の民に対しても語られているのです。すなわち、私どもに対しても「喜べ」と呼びかけてくれているのです。 17節は、「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と続きます。しかしどうでしょうか。「喜べ」と言われて、喜べるものでしょうか。なかなか喜べるものではありません。なぜかと言えば、神の恵みはあまりにも大きすぎて、人を萎縮させるからです。「こんな罪深い私を憐れみ、救ってくださって…」と、ただただ申し訳ありませんと言わざるを得ないからです。人は「赦されている」という実感だけでは、喜ぶことはできません。「こんな罪人が救われるとは…」と、本来有り得ない「罪人をも救う、圧倒的な恵み」の前に、くずおれるしかないのです。 では、そこでどうして喜べるのでしょうか。それは「神が喜んでくださる」からです。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」、神が喜び、神が抱きしめてくださるからこそ喜べるのです。 喜びというものは、自分の心に強いて生まれるものではありません。「喜びのうちに包まれて、神の喜びに包まれて」しか、生まれないのです。人はそう簡単に喜べません。私どもの救いのために、神が痛んでくださったこと、主イエス・キリストの流された尊い血潮、その贖いの恵みの大きさを知るならば、私どもはただただくずおれるしかなく、単純に喜ぶことはできません。「愛する我が子を十字架につける」、そこまで犠牲を払い損をしてまでも、私どもを憐れみ、救ってくださって、「神が私どもの存在を喜んでくださる」からこそ、私どもは喜べるのです。 ゼファニヤは「喜べ」と言い、その「喜びの根拠は神にある」ことを神の言葉として語ります。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」、「お前のゆえに」と言ってくれております。まさに私どもは、この礼拝によって何を見出すかということを覚えてよいのです。礼拝によって思い起こすことは何か。それは「神の招き」によって、私どもは今この礼拝にあり、神の民とされているということです。今日この礼拝に集うことを、私どもは喜んだかどうか。必ずしも喜ばなかったかもしれません。けれども、私どもが礼拝に集うとき、神は喜んでいてくださいます。まさに私どもがここにあることは、神の喜びのうちにあることです。それが「神がこのただ中にいてくださる」ということです。そして、私どもを神が喜び、神の喜びを現してくださっているのです。神の喜びのうちに私どもは抱きしめられているのです。それが、この「礼拝」の出来事なのです。 日常生活の中でこの世に埋没するしかない私どもを、「愛によって新たにし、新たに神の民としてくださる」のです。罪に過ぎない私どもを憐れみ、神の民とすることを喜び、その喜びで包んでくださるのです。 新しい一年の信仰の歩みを始めるに当たって、信じてよいのです。救い主を仰ぎ見ることによって、「神が私どもを愛し、神の民として新しくし、神が喜んでくださっている」ことを見出してよいのです。そして、神が私どものただ中にいてくださることを覚えて「神の民として喜ぶことを得させてくださっている」ことを、感謝したいと思います。 私ども愛宕町教会のただ中に、神がいてくださいます。私どもは、神の喜びの民、神の恵みの民です。 |
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