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2013年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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すべての人に仕える者 | 12月第1主日礼拝 2013年12月1日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章30〜37節 | |
9章<30節>一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 <31節>それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。<32節>弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。<33節>一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 <34節>彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。<35節>イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」<36節>そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。<37節>「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 |
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30節に「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」と記されております。「そこ」とは、前節で主イエスが入られた家です。 ガリラヤは、主イエスの活動の場でした。主はガリラヤで、神の子として人々に教え、多くの奇跡(癒し)をなさいました。けれどもここで、「ガリラヤを通って行った」ということは、ガリラヤは目的地なのではなく、通過点に過ぎないということです。 このことは大変興味深いことです。主イエスは、ガリラヤで、大変目立つ活動をなさいました。けれどもそれは、人に知られることを目的とした業としてなさったのではなかったということです。ガリラヤは、主にとって通過点に過ぎないのです。ここに、ガリラヤでの出来事が「人の思いを超える出来事」であったことが示されております。 では、主イエスはどこに行かれるのでしょうか。目的地はどこなのでしょうか。 「主の十字架と復活の預言」は、8章31節でも既に語られており、ここは2回目の預言ですが、1度目と2度目には違いがあり、その違いが何なのかということを聴いておいてよいのです。 ガリラヤは、主の活動の中心地ではありませんでした。ガリラヤは通過点に過ぎず、主の活動の最終目的地はエルサレムであり、「十字架と復活」であることが鮮やかにされていることを、改めて覚えたいと思います。 しかしなぜ、ガリラヤで大いなる業をなさったのでしょうか。それは、ご自身の神の子としてのしるしを人々に見せるためになされたことです。 では、「十字架と復活」とは何なのでしょうか。それは「人々の救いのための業」です。「人々に仕えるための業」なのです。主イエスの十字架と復活は、「仕える者」としての業です。「人々を救う」という「父なる神の御心に従う業」です。ですから第一義的には「神に仕える」ために、主は来られました。 主イエスは、ご自身の活動の中心が「十字架と復活である」ことを語ってくださっておりますが、しかし、32節「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と記されております。なぜ「怖くて尋ねられなかった」のでしょうか。 人々の上に立ち、人々を仕えさせたい、それが人の思いであることを示されます。人の思いとは、人に仕えるのではなく、人に仕えて欲しい、人から賞賛を受けたいと思うということです。賞賛を受ける、誉めてもらうということは、実は、相手を仕えさせることです。その思いの内にあることは、自分が他者のために何ができるかということではなく、他者が自分に何をしてくれるかと思う隠された思いなのです。 ここで、「怖くて尋ねられなかった」とは、面白いことです。言われていることが分からなかったから聞けなかった、というのなら分かります。確かに、主イエスはまったく分からない話をなさっているのですから、弟子たちが無理解であることは分かります。けれども、彼らは何が怖かったのでしょうか。単に話が分からないということではなく、「だれがいちばん偉いか」と考える自分中心な考え方が明らかになることが怖かったのです。知られることが怖かった、自分の本心を知られることが怖かったのではないかと思うのです。 「さらけだす」ことの怖さを、人は持つのです。「この身の罪を知る」とは、どういうことかを思います。それは、自らの力、思いでは語れないことです。怖さがあるからです。けれども、主イエス・キリストが、そのような秘められた罪のために贖いとなってくださったことを知るときに、語れるようになるのです。「十字架と復活の恵み、神の恵みを知る」ことのゆえに、自らの罪深さを知り、「主よ、憐れみたまえ」と言えるのです。「十字架と復活」が、「このわたしのため」であったことを知って初めて、「わたしを救ってくださったこと」を、「この罪人を救ってくださったこと」を感謝できるのです。 そこで、私どもにとって大事なことは「祈り」です。「どうか、このわたしに働いてください」と、主の業を、聖霊の業を求める、それが祈りです。 私ども愛宕町教会が伝統的に大事にしてきたことは、祈りでした。「聖霊の導き」ということを大事にしてきたのです。それは「神の出来事をこの身に感じつつ生きる」ということを大事にしてきたということです。
「この罪の身に、聖霊よ、臨みたまえ」との祈りなくして、聖霊の導きなくしては済まされない、そのような日々を歩み行く者でありたいと思います。共々に祈っていきたいと思います。 |
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