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2013年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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飼い葉桶に眠る御子 | クリスマス礼拝 2013年12月22日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第2章1〜7節 | |
2章<1節>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。<2節>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。<3節>人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。<4節>ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。<5節>身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 <6節>ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、<7節>初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 |
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今朝はクリスマス礼拝として、御子イエス・キリストが幼子として私どものところにお生まれくださったことを祝います。大変、大きな喜びです。 そして、共にこの礼拝に集い、クリスマスを祝うという出来事は、神が私どもを顧み、思いを与えてくださってこと、神の招きによることです。それは、「神が喜んでいてくださる」ということと一つです。「神の喜びのうちにある」、そこでこそ、人は存在を得るのです。喜ばれているところで、人は存在を得ます。喜びのうちに自分を見出すこと、そこでこそ人は自分の存在を確かにし、自分を大切にすることができるのです。 ルカによる福音書が語る主の誕生の次第が、今日の箇所2章1節以下です。そこではまず「そのころ」と、大まかな時代設定がなされております。1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と、当時の世界の中心であったローマ帝国の皇帝から、行政命令が出されたことが記されております。まさに、世界史の動きのただ中で救い主がお生まれになったことを、聖書は記しております。世界の歴史のただ中で、そこではまだ隠されていて人々は知りませんが、「救い主の誕生という形で、既に神の救いの出来事は始まっている」ということが、この2章1節の「登録の勅令」ということに示されていることです。 何のための人口調査なのでしょうか。一つは「徴税」のため、また一つは「徴兵」のためです。誰が成人した大人かを知り、戦いのための兵力を備えるためです。 ここに、「登録をせよとの勅令が出た」と記されていることの中に、人の営みとは不安を払拭できないものであるということが言われております。しかし同時に、ここには「人に平安をもたらす救い主の誕生」が記されております。私どもに平安を与える神の御業が、ここに既に始まっていることが示されているのです。世界史のただ中に、人々の知らないところで、私どものための救いが始められているのです。 4節に、救い主はどのように生まれられたかが記されております。救い主は「ヨセフとマリアの子として」生まれられました。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」とありますように、ヨセフはダビデの家系です。 5節「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」と続きます。大変配慮された書き方がされております。「身ごもっていた、いいなずけのマリア」と、「妻」ではなく「いいなずけ」と記しております。それは暗に、マリアの妊娠がヨセフとマリアの肉体的な関係のもとにあることではないことを示しております。聖霊によって宿ったことが示されているのです。 マリアを伴って、ヨセフはダビデの町ベツレヘムに登録に行きます。ヨセフはマリアを妻として登録するのです。それは生まれてくる子を、ダビデの家系の子として登録するということです。 では、ダビデの末裔である御子は、どのように生まれたのでしょうか。 では、「飼い葉桶」はどのように連想するでしょうか。馬の食べる餌桶であれば、顔の長い馬の餌桶は深い桶で、そこに赤ん坊を寝かせることはできません。けれども、小家畜の餌箱は横に長く、赤ん坊を寝かせるのに丁度良いのです。ですから、それが飼い葉桶です。舟の形をした餌箱、それがベビーベッド代わりなのです。 そして「布にくるんで」と、また敢えて書かれております。赤ん坊が体温を保つためには産着が必要です。主イエスの誕生は、普通の赤ん坊の誕生と同じであったということが、ここに記されていることです。 「布にくるんで」というところで、もう一つ大事なことがあります。それは、主イエスは「弱さ」を取られたということです。「布にくるむ」ということは、保護を必要とするということです。主は、弱く、虚しく、保護を必要とする者とまでなってくださった、誰かの助け無しには済まされない、そのような者とまでなってくださったということです。私どもと同じになってくださったのです。 弱さを担い、無力さを担う、そんなことがどうしてできるでしょう。それは、神がなしてくださった業であるからこそ、できることなのです。神は、弱さにおいて、虚しさにおいて、私どもと一つになってくださいました。 主イエスの誕生によって、私どもがその弱さ、虚しさにおいて救われるという恵みが与えられております。神との交わりに入れられることによって、決して失われることのない平安を生きる者とされているのです。 「主イエスこそ、わたしの救い」と、感謝をもって受け入れる者でありたいと思います。 |
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