ただ今、ルカによる福音書12章41節から48節までを、ご一緒にお聞きしました。
41節に「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと」とあります。「このたとえは、弟子である私たちに向けて話しておられるのか、それとも、更に多く周りで聞き耳を立てている人たちのためにも語られているのか、どちらでしょうか」とペトロは尋ねています。
「このたとえ」というのは、直前で主イエスがお語りになった2つのたとえ話を指していると思われます。婚宴の喜びの席から花嫁を伴って帰って来る主人を待つ僕たちのたとえ、そして、いつ泥棒がやって来ても押し入らせないように目を覚まして備えをしている家の主人のたとえです。この2つのたとえ話は、神が私たちにくださろうとしている「神の国の喜びの交わりが現れた時に、その喜びに与り損ねることがないように、目覚めた信仰をもって生活するべきこと」を教えるたとえでした。けれども、「信仰が目覚めているように」と言っても、私たちは24時間目覚めていることはできません。どこかで眠らないと死んでしまいます。信仰にも似たようなところがあって、自分の力によって常に目覚めた信仰を保ち続けるということは、私たちにはできないことです。ですから日常生活の中で、たとえ信仰が眠ってしまって神や主イエス抜きで私たちが生活するようなことがあっても、それは私たちが寝ている時間なのです。「本当に肝心な時には、どうかわたしの信仰を目覚めさせてください」と神に祈って、神の御手の保護と導きに信頼して、自分自身をお委ねすることがとても大切なことなのでした。
信仰を自分の力や自分の思い、あるいは熱心さで維持しようとする人は、その信仰を長く保ち続けることができなくなります。人間の力や思いはそんなに長続きしないからです。むしろ自分の弱さを知って、その弱い自分自身を神に引き渡してお委ねし、「どうか弱いわたしの信仰を守り導いてください。たとえ信仰が眠り込むようなことが起こっても、そのためにすっかり信仰が失われて、わたしが神さまのことを忘れてしまわないように、神さまから離れてしまう前に、どうか主イエスがわたしの許に来てくださって、眠っている信仰を目覚めさせてください」と祈って生きることこそ、私たちが信仰を失わずに生きていく秘訣なのです。
この前の箇所に、「人の子は思いがけない時に来るのだ」と、主イエスは弟子たちに教えておられました。「人の子がやって来て、目覚めさせてくださる。そして私たちを保護し導いてくださる」その働きは、私たちが予想できる時にだけ働くのではありません。思いがけない時、つまり、まったく予想もしていないような時に主イエスは不意に私たちの許を訪れてくださり、私たちの内で眠っていた信仰を目覚めさせ、信仰の喜びで満たしてくださるのです。
そのように、主イエスが弟子たちに教えておられた時に、ペトロが口を挟んで言いました。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」。一体なぜペトロはこの質問をしたのでしょうか。主イエスが教えようとしておられた事柄の一体どこが分からなかったのでしょうか。ペトロがここで語っている言葉に注意を向けて聞きますと、ペトロは、「私たち」つまり主イエスの弟子である自分たちと、「みんな」つまり周りにいる群衆とを区別して考えているように聞こえます。ここまで長い間主イエスに従って様々な経験を共にしてきた自分たちと、それ以外の今ここにたまたま集まって来ている群衆とは違うということを思っているような言葉遣いです。すると、もしかするとペトロにとって分からなかった点というのは、「神の国の信仰生活は誰にでも贈物として与えられるものだ」という点だったのかもしれません。今日この時点でのペトロの信仰は、実はペトロの信仰はこの先もずっと同じような調子で続くのですが、まず自分自身が神を信じて主イエスに従っていると思っていたのでした。神との結びつき、神との交わりというのは、自分が神のことを考え、信じているからこそあるのであり、そしてそこに信仰があるのだとペトロは考えていたのです。
ところが、主イエスはこれまで繰り返して、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いなのだ」と教えておられました。あるいは「泥棒に押し入られないように、あなたも備えているように」と勧めておられました。こういう主イエスのおっしゃりようがペトロには腑に落ちないのです。ペトロは考えます。「他の誰の信仰が眠り込んでしまうようなことがあったとしても、この俺だけは別だ。俺の信仰は眠ってしまわない。他の誰かが躓いてしまうことがあるとしても、このわたしは決して信仰を失わない」、そう思うところからペトロの今日の質問が生まれているのかも知れません。ペトロは自分の信仰に絶対の自信を持っています。ですから、主イエスが「目を覚ましているように」とお語りになると、その意味が分からなくなるのです。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」、このように尋ねる時、ペトロはこれまでも主イエスが語って来られた神の国の中に生きる人の心構え、それを伝えようとして語られた言葉を、自分には必要ないもののように感じていたに違いないのです。すなわち、「自分は当然、主イエスに従って神の国の生活を生きている」と、そう思い込んでいるようなのです。
主イエスは、そういうペトロに一つのたとえ話をお語りになりました。忠実で賢い管理人のたとえです。42節から44節に「主は言われた。『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」とあります。「忠実で賢い管理人」と言われていますが、この「管理人」という言葉は元々の文字を見ますと、「財産をきちんと分配して管理する」という言葉です。管理人は、この家の召使たち、つまり家で働く僕仲間の上に一応立てられてはいますが、43節を見ると、この管理人もまた家の僕の一人であることが分かります。主人の家で働く多く僕たちのために、彼らが飢えてひもじい思いをしないで済むように、日毎に、またちゃんと時間通りに食事の用意をしながら、主人が帰って来るまで皆が一緒に生活できるようにと取り計らっていくのが管理人の務めです。
この管理人は「忠実で賢い管理人」と言われています。ここから分かるように、管理人に求められる第一の最大の資質は「忠実である」ということです。主人の財産を預かるのですから、それで私腹を肥やしたりせず、主人の思いに忠実に差配するということでしょう。そしてそれと同じように大切な第二の資質として述べられているのは「賢い」ということです。賢さとにも色々あると思いますが、ここに書いてある文字は「判断」という言葉から生じてきた文字ですので、落ち着いた大人の判断ができるという意味であると思われます。因みにこの「判断」という文字は、コリントの信徒への手紙一14章20節に「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と出てきます。従って「忠実で賢い管理人」というのは、主人に対しては忠実であり、また誘惑されて悪に陥ったりしないように注意深く配慮をもって仲間の僕たち一人ひとりをおもんばかる、そういう人物のことが述べられていることになります。
そして、そういう忠実で賢い管理人が与えられた務めを誠実に果たしている、その姿を、主人が家に帰った時に見い出されるならば、その人は本当に幸いだと言われます。なぜ幸いなのかということは、43節で「確かに言っておくが」と主イエスが是非とも相手に聞いて欲しい大事なことをおっしゃる際の口癖に続けて、「主人がこの僕に全財産を管理させるに違いない」と言われているからです。「全財産」と言っても、当時は今日のような貨幣経済ではありませんので、この「財産」とは、家や士地や家畜や家の使用人や家族全員のことを指しています。その全体を管理するというのは、本当の所有者は主人であっても、この僕も主人と同じように、すべての家族や家畜や資産に注意を払って全体のために働き、また色々な判断や決定を下す立場にしてもらうということです。こういう幸いな一人の僕の姿を、主イエスはペトロに聞かせました。
しかしどうして、主イエスはペトロにこのような管理人の話をしたのでしょうか。この管理人は、主人から信頼に価する確かな人物であると認められて、まるでこの僕自身が主人であるかのように振る舞うことを許されたわけですが、しかしその根底には、この僕が主人から言われたとおりに忠実に、また誘惑や悪を避けて賢明に働いている、この人自身のありようがあります。仮にこの僕が自分自身の思いや正義や欲求に捕らえられてしまい、自分勝手に家の中をメチャメチャにしてしまったなら、その時には、この僕は大変に厳しい報いを受けなくてはならないのです。45節46節に述べられているのは、そういう、この僕の悪い方の可能性です。忠実で賢い管理人としてのあり方とは裏腹に、自分には主人と同じような権限が手渡されたのだとすっかり勘違いして、好き放題なことを行なった挙句、最終的には主人から八つ裂きにされてしまう、愚かで悪い僕の将来像も語られているのです。
明暗がくっきりと分かれてしまう、この僕の2つの可能性の話をしながら、主イエスがペトロに教えようとしているのは、「僕とは、本人の考えや思いのままに主人に従うのではなくて、あくまでも主人の言葉や思いに従うものだ」ということです。神の国の信仰生活に生きることの根本にあるのも、家の主人が自分の財産である人々や物事を本当に大切に思っているということ、そしてそれに忠実に仕えていくという生活なのです。僕は主人の思いを考慮しながら主人に従って生きてこそ、忠実な者として働けるのです。
ペトロは、自分から主イエスに従っていると思っていました。ペトロからすれば、自分から主イエスに従って行こうとしている、そしてそこに彼自身の信仰生活があるのだと思っていました。こういうペトロのあり方はこの先もずっと続いて行くのですが、しかし、こういうペトロの信仰生活の問題点は、主イエスが逮捕された晩に露わになります。主イエスが逮捕された晩に、ペトロは大祭司の家までついて行きました。そしてそこまでは、信仰を持って従っていたと思っていました。ところが、大祭司の家の中庭で3度主イエスのことを知らないと言ってしまい、自分が本当には主に従うことができないことを白状させられてしまいます。そして、ペトロ自身がそのことに気づいて愕然とする、そういうゴールへと行き着きます。ペトロは、自分では信仰があると思っていましたし自分の信仰は眠るはずはないと思っていました。けれども、ペトロの信仰はいつの間にか眠ってしまっているのです。
「誰に向けて話しているのですか」とペトロは主イエスに尋ねましたが、主イエス御自身は、今日のところで一貫して弟子たちに向かって話しておられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とおっしゃって、「あなたたちには、神の国の生活、神の慈しみ豊かな御支配のもとに生きる生活が神さまからの贈り物として与えられる」ことを教えておられました。このことは、今日ここに集まっている私たちにとっても同様のことです。私たちの信仰生活も、神から私たちに贈り物として与えられているものです。
ところが私たちには頑ななところがあって、そんなふうに贈り物として与えられた神の国の生活からしばしば彷徨い出してしまいがちです。気づいたら昔のように自分一人で、自分の願いや欲求を追いかけて生きてしまうことも多いのです。主イエスは、私たち人間の信仰がそのような弱さを持っていることをよく知っておられて、「あなたの弱い信仰が眠り込まないようにしなさい」とおっしゃって、「信仰は、弱い自分が頑張るのではなくて、神の御手の中にあなた自身を委ねるように」と教えておられました。
今日の箇所では、あくまでも自分の思いや覚悟によって信仰を持ち運ぼうとするペトロに対して、たとえ話を通して一つの警告が与えられています。「あなたは家の僕として、管理人として働くのであれば、主人の思いに忠実に生きるのだ」と主イエスは教えてくださっています。主の御意志に精一杯に従って家の中を管理しようと努力する代りに、自分自身がこの家の主人、会社に例えれば社長にでもなったかのように勘違いして主イエスの御意志に従うのではなくて、自分自身が思った通りに物事を取り仕切ろうとする時には、きっと手痛いしっぺ返しを食うことになることを、主イエスは教えておられます。
ペトロは、自分自身が主イエスについて行きたいと思い、主に従うあり方ができていると思っていたので、神の国の生活が贈り物として与えられているということを理解できずに、今弟子として従っている自分たちと群衆の間に線を引いてしまいました。しかし主イエスはそんなペトロに、本当に神の国に生きるためには、自分の思いや決意や情熱によって従おうとするのではなくて、神の国の主人である方の慈しみと愛の御心に繰り返して忠実に耳を傾け、注意深く配慮を持って生きるのでなければならないことを教えられました。
そして、この福音書の第二巻の使徒言行録の中でルカが語ろうとしている事柄全体のことも考えますと、忠実で賢い管理人が立てられ主人の思いに従おうとして歩む神の国の生活というのは、地上に立てられている教会の生活の中で、既に始まっていると言えるのです。使徒言行録の中には、復活の主イエスに招かれ、その主の御言葉に従って生きようとする教会の生活が語られているからです。「神の国があなたの許にやって来ている。あなたにはその喜びの生活が与えられる」、それはまだ完成しているわけではありませんが、私たちの教会生活の中に与えられ、始まっているものなのです。
もちろん、地上の教会は人間の集まりですから、教会の交わりそのものが神の国かと言われれば、しばしば人間臭い破れや綻びが目立つのも確かです。しかしそれにも拘らず、地上の教会は、その一つひとつが主人の決心とそこにある喜びを表すものとして建てられているのです。先週の礼拝で、ヨハネの黙示録に出てくるラオディキア教会の様子を紹介しました。あの教会は、自分たちでは教会の運営がうまく行っていると思い込んでいて有頂天になっていたのですが、主イエスから信仰の貧しさを指摘され、「あなたがたはわたしから、火で精練された金と、白い衣と目薬を買うように」と勧められていました。実際の教会生活にそのような破れや綻びがあることを指摘され、様々な試練に遭い、苦労して悔い改めなければならないのですが、しかしそれでもラオディキア教会には、そのように歩んで行った末に、教会の主、つまり主イエス・キリストが座る御座に共に座らされる晴れがましい日が来ることが約束されています。ヨハネの黙示録3章21節に「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」とあります。これは今日のたとえ話で言えば、忠実で賢い管理人が懸命に働いた末に、主人と同じような立場に着くということと同じことを言っています。
今日のたとえ話の中で、忠実で賢い管理人が遂には全財産を任され、主人と似た晴れがましい立場につけられると言われているように、ラオディキア教会もそうなるのであれば、私たちの教会生活の最後の終着点も、神の大きな喜びと輝きの中に迎えられるということを信じて良いのではないでしょうか。
今の私たちの信仰生活には、色々分からないこと、欠けを憶えることが多くあるかもしれません。そのために私たちは、地上の事柄ではなく神のことを思うようにと聞かされたり、怠惰にではなく主と隣人に仕えるあり方を教えられなければならないかもしれません。人間の思いではなく、神の御言の光に照らして自分自身や世界の姿を知らなければならないことを教えられなければならないかもしれません。けれども、そういう一つ一つを諭され教えられ変えられていって、私たちが最後に辿り着くところは、「御国の民として生かされる喜びなのだ」ということを信じて良いのです。
弱い私たちが、神の保護のもとに置かれていることを信じ、神に自分自身をお委ねしながら、私たちそれぞれに備えられている最終目的地を目指して、今日ここからもう一度、歩む者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |