ただ今、ルカによる福音書12章22節から31節までを、ご一緒にお聞きしました。
22節23節に「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ』」とあります。「思い悩むな。心配するな、心配するには及ばない」と主イエスはおっしゃいます。こうおっしゃることで主イエスは、しきりと何でも求めようとする人間の心の傾き、欲しがる思いである貪欲の根を断ち切ってしまおうとなさいます。
この直前の記事では、主イエスが弟子たちを教えておられたところ、急に横合いから主イエスに言葉をかけて、相続財産についての仲裁をして自分の分け前を多くしてくれるよう兄弟に言って欲しいという頼み事をする人が登場していました。主イエスはその人の心の中を御覧になって、濡れ手に泡の相続をすることで少しでも豊かになりたいという貪欲への心の傾きがあることに気がついて、その人の申し出をはっきりとお断りになり、そして、その場に居合わせた人々一同に向かって、どのような類の貪欲についても、そういう思いに捕らわれてしまわないようにと教えておられました。
しかし、人間の中に兆す貪欲という思いというのは、おそらく最初から貪欲という形でその人の中に存在するものではないように思います。貪欲には、それが育ってしまうと、やがては貪欲になってしまうような元々の根っこがあるのです。それは、私たちが心に抱く数々の心配事であり、不安であり、思い煩いです。人間は神ではありません。何でも自分の思い通りにできるような存在ではありません。それは人間に限らず、この世界の中に存在するすべての生き物や事物、物事もそうです。この世の存在はすべてが神によって造られた被造物です。それは決して永遠でも無限でもなく、どこまでも自分自身の意見や思いを押し通して生きたり存在したりできるものではありません。この世の被造物には限界というものが定められています。しかしそれでも、この世の大方の生き物は心配することも不安になることもありません。神の支配しておられる世界の中で、それぞれに与えられている分に応じて、静かに、しかし精一杯に生きています。ところが、人間だけはそうはいかないところがあるのです。人間は、自分自身の置かれている状態や自分自身のありようについて、自分で判断して善いか悪いかを決めてしまうところがあります。それが自分にとって満足できている間は良いのですが、自分の思い通りにいかないとどうしても気に入らないと感じてしまい、自分の思い通り、願い通りに様々なことを治めようと企てます。そんなところから人間は、何でも自分の思い通りに行い、また少しでも多く豊かになりたがる貪欲への傾きが生まれてきてしまうのです。
しかし、主イエスは何故これほどまでに人間の内に生まれがちな貪欲への傾きを気になさるのでしょうか。なぜ貪欲を警戒なさるのでしょうか。人間の貪欲が、時に隣人の持ち物や名誉を奪っても構わないという邪悪さを孕むからでしょうか。お互いの信頼関係や社会的な結びつきを破壊することにつながるからでしょうか。人間の貪欲さには確かにそういう危険があるということを、見過ごしにはできないと思います。
それはそうなのですが、主イエスがそのような思いで貪欲に警戒するようにおっしゃったのだとすると、この記事の直前で主イエスがお語りになった富める農夫のたとえ話は、少し的が外れた話になっているようにも思います。なぜなら、あのたとえ話に登場する、最後に命を失ってしまった農夫は金持ちであったと言われていましたけれども、他の人の物をだまし取ったり掠め取ったりしていませんし、また、誰の名誉も傷つけてはいないからです。農夫が自分以外の誰かに迷惑をかけただろうかと考えてみると、この人は誰にも迷惑をかけていません。それなのに、あの農夫は、自分のために富を積んでも神の前に豊かになることがなかった愚か者と言われて、命を失ってしまうのです。
貪欲は、確かに時として隣人から物を奪ったり名誉を傷つけたりして、隣人との交わりを損なう凶悪さを秘めているのですが、しかし主イエスが気になさっておられるのは、どうやらその点だけではないようです。一体、主イエスは何を気にしておられるのでしょうか。そう思いながら今日の記事を何度か読み返してみますと、主イエスはここで4度も、「思い悩むな」ということをおっしゃっておられることに気づかされます。
まず、入り口の22節で「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃいます。また、25節26節で、「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と、2度重ねて「思い悩む」ということを気にしておられます。4度目は29節で「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」と、念を押すように「思い悩むな」とおっしゃっています。このように、主イエスがしきりと「思い悩むな」とおっしゃっていることに気がついてみると、ここで主が繰り返して気にしておられる「思い悩み」とは一体何のことだろうかと考えさせられるのです。そして、この言葉に注目して聞いてみたくなります。
「思い悩む」という言葉は、元々はギリシア語で「心配事、気がかり、思い煩い」という名詞から出ています。心配事、気がかり、思い煩いをするという形の言葉が「思い悩む」という動詞です。心配事、気がかり、思い煩いという名詞にさらに注目してその語源を辿ると、「心が幾つもの部分に分かれてしまう、割れてしまう」という言葉が語源です。ギリシア語で「思い悩む」とは、「心が幾つもの部分に割れてしまうこと」なのです。その思い悩んでしまう状態をとてもよく表わしている実例となるような出来事が、今日の箇所の少し前のところに記されていました。10章の終わりに、マルタとマリアの家を主イエスがお訪ねになった時、姉のマルタは主イエスの一行をもてなすためにあれこれ心を砕いていて、その一方で妹のマリアは主イエスの足元で話に聞き入っているのです。マルタは、その妹の様子に苛立ちを募らせ遂に爆発させてしまいます。その時主イエスがマルタにかけた言葉の中に、この「思い悩む」という言葉が出てきます。10章41節で主イエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と、マルタにお語りになりました。この箇所が説教される時によく言われることが、マルタは、もてなしのあれこれのことで心が忙しくなってしまい、思いが分裂し心が乱れてしまったという説明です。そういう状態になるのが「思い悩む」ということで、それと同じ言葉が今日の箇所で語られているのです。あのマルタの話では、誰もマルタを貪欲な人だとは思わないでしょう。マルタは、本来は主イエスと弟子たちの一行を迎えて、大喜びでもてなしの準備を始めたに違いないのですけれども、いつの間にか、もてなしの行いの方に思いが向かってしまって、その結果、御言に聞き入っている妹と主イエスをどやしつけてしまう失敗をしました。心が幾つにも割れてしまう時には、事柄の本筋が見失われてしまうのです。
そして、「貪欲」にも似たようなところがあるのです。先週聞きましたが、豊かな収穫を与えられて喜びでいっぱいになった農夫は、すべてが自分のものだと思って大きな倉を建てることを思いついた後、自分に語りかけます。19節に「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」とあります。「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、ひとまとまりの言葉に翻訳されていますが、原文は4つの動詞です。「休め、食べよ、飲め、楽しめ」と言っています。快楽をとことんまで楽しみ尽くそうとするあり方がこの言葉に表れていて、その結果、神への思いが失われてしまう、それが「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われてしまい、命を失ってしまうことになります。
「思い煩い」というものは、心配事や気がかりや、自分の目的実現のことで心がいっぱいになってしまうことです。そして神の事柄に気が回らなくなってしまう、そういうありようようへと人間を導くものなのです。私たち人間と神との間柄のただ中に「思い煩い」が立ち塞がって神のことが分からなくなってしまう、神との関係が切れてしまう、その状態が即ち「貪欲」ということになります。主イエスは、貪欲への傾きを持つ人が現れたことをきっかけにして、どんな貪欲にも注意するようにと人々を戒め、そして弟子たちに、根本にある「思い煩い」に捕らわれてしまわないようにと教えてくださいました。
その際、主イエスは弟子たちが思い煩いにすっかり捕らえられてしまわないように、自然界に生かされている二つの生物の姿を指し示されました。そして、その生物の上に神の顧みがあることを確かに憶えるようにとおっしゃるのです。
その第一の生物は烏です。24節に「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」とあります。「あなたがたは鳥よりも間違いなく価値がある」と主イエスはおっしゃいます。そして、少し前にこれとよく似たことを主イエスがおっしゃったことを思い出すかもしれません。12章7節で「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言っておられました。雀も鳥の一種ですが、「たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われるのと、「あなたがたは、鳥よりどれほど価値があることか」と言われるのは、よく似ていると思います。ただ、今日のところで特に注意して聞き取りたいのは、これが鳥一般ではなくて、「烏」を名指ししているということです。
雀というのは、貧しい人が献げ物をする際に献げられる最も安い鳥で、2羽が1アサリオン、5羽が2アサリオンで買われていて、雀1羽では値がつかないほど安い、取るに足らない鳥だという意味で語られていました。では烏はどうかと言いますと、レビ記11章15節で「特に汚れた鳥として烏」と名指しされていて、値がつくかつかないかという以前に、忌まわしい鳥だと考えられていたのです。そしてそれを受けて、箴言30章17節には「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲の雛がついばむ」と言われていて、烏は忌まわしく、人間に害をもたらすとさえ考えられていました。ところが主イエスは、値段がつかないどころか、何の益にもなりそうもない、却って害をもたらす、まるで役に立たないと思われていた烏をわざわざ名指しして、「烏は、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないけれども、神はそんな烏を顧み養ってくださるのだ」とおっしゃるのです。人間から見て何の役にも立たない汚れた者だと言われるような烏でさえも、神は、「そうではない。あなたはここで生きて良いのだ」とおっしゃって、烏にエサを与え生きるように支えてくださることを、主イエスはお語りになります。神は、烏について、なお役立つものであり、生きるべき者だと見てくださるのです。「だからあなたは、いたずらに不安に襲われたり、心配事の虜になってはならない。あの烏でさえ、神さまは憶えてくださることを思い出しなさい」と、主イエスはおっしゃいます。
もう一つの生物は、野に咲く花のことです。「野原の花」と新共同訳聖書には記されていますが、これは原文では「百合の花」という言葉が書いてあります。ただパレスチナ地方では、百合に限らず他にも白い花のことを百合と呼ぶ場合が多いので、新共同訳聖書では種類をぼかした形で「野原の花」と訳しています。けれども、「野原の花」ですと、ここで主イエスがおっしゃったことは分かりにくくなると思います。花には、背丈の高さ低さもあります。野生の百合の花は背丈も高く、他の花よりも頭が出ています。だからこそ、ソロモン王と比べられています。27節に「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とあります。百合の花を想像しなければ、この言葉はあまりよく分からないのですはないかと思います。まさに百合の花は、花の中の王者です。高く背筋を伸ばすようにして大輪の花をつけます。花がしぼむとその花は捨てられてしまいますが、しかし咲いている時には、まさに威風堂々と野に咲き誇ります。27節のソロモンとの対比は、装飾のきらびやかさではなく、凛として野に咲く百合の気高さと威厳を思い浮かべて語られているのです。一介の花であり、しぼめば人間の手によって炉に投げ入れられてしまうような花であっても、その花が咲いている時には誰もそれを折って燃やそうとする人はいません。「あなたがたも、そういう者として神さまに憶えられている。一人ひとりが神さまから尊厳と気高さを与えられて生かされていることを、百合の花を見て学びなさい」と、主イエスは教えておられるのです。
この言葉は、どちらも大変印象的な言葉だと思います。主イエスからこのように聞かされた人は、烏に出会う度、また野に咲いている百合の花を見る度に、主イエスの教えを思い出したのではないでしょうか。思い煩いに捕らえられ、心配事や気がかりな多くのことが心を塞いで、思い煩いが自分の心の主人になりそうな時、主イエスは「烏や百合の花を思い起こしなさい」とおっしゃり、思い煩いから解き放たれるようにと教えられます。
ただし、この主イエスの言葉を、よく注意して聞き取りたいのです。ここで主イエスは、思い煩わない人が正しい人で、思い煩う人が駄目な人だとはおっしゃっていません。29節30節で主イエスは、「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われました。食べること、飲むこと、あるいは衣服を着たりすること、今日一日を生きていけるだろうかと私たちは心配するのですが、そのような思い煩いは、「世の異邦人が切に求めているものだ」と主はおっしゃいます。つまり、衣食住の悩みや思い煩いというのは、世の人間であれば普通に誰でも持ち得るものである、誰にでも思い煩いはある。そして、その思い煩いにすっかり心が塞がれてしまうと、貪欲なあり方になってしまって、何でも自分の側に取り入れないと気が済まないという風になってしまうのです。
少し前に、主イエスが弟子たちに「種まきのたとえ」を話されました。あのたとえ話の3番目に出てくる茨の中に落ちた種についての説明で、主イエスが言われたことは、8章14節ですが「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」ということでした。主イエスの御言に喜んで耳を傾け確かにそれを聞き取るのですが、生活の中での思い煩いや富や豊かさの惑わしや快楽に捕らえられてしまって、なかなか実を結ぶに至らない、そういう人間の姿が有り得ることを、主イエスは教えておられました。これは決して駄目な人間の姿ではありません。むしろ、人間にはしばしばこういうことが起こると主イエスはおっしゃっています。私たちも自分を振り返ってみると、往々にして思い当たることがあるのではないでしょうか。
主イエスはそのために、あとひと言を付け加えられます。31節に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とあります。「ただ、神の国を求めなさい」と言われますが、ある説教者は、これは「むしろ、神の国を求めよ」と訳した方がより良い訳だと言っています。原文を見ると、確かにそうだろうと思います。
「思い煩うな」と言われても、私たちは、どうしても思い煩ってしまうところがあるのです。思い煩いから自由な人間、無縁な人間はどこにもいません。むしろ、「思い煩いから離れるために、あなたは『神の国を求める』というあり方をするように」と主はおっしゃいます。そういうあり方をすると、あなたは思い煩いから解き放たれるようになる、そういうことが起こってくるとおっしゃるのです。
しかしそれならば、「神の国を求める」というあり方は、実際には私たちがどういうあり方をすることなのでしょうか。主イエスはこの点をとても大切に考えておられ、この先の箇所で、神の国について多くのことを弟子たちに教えていかれます。今日の箇所は、エルサレムまでの旅の途上で語られたその入り口のところですから、まだ多くを聞いているわけではありませんが、しかし私たちがこれまで聞いてきたところでは、さしあたり主イエスが「主の祈り」を教えてくださった中に、「こういう祈りを祈れ」と教えてくださった祈りがありました。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るようにと、主イエスは教えてくださっています。ですから、私たちもそう祈っています。
そう口に出して祈っているからといって、私たちが神の御国の事柄をよく知って分かっているかと考えると、まだそうでもないと思うかもしれません。けれども主イエスは、私たちが神の御国が来ることを憶えて、「来らせてください」と祈って良いと言ってくださり、実際にその祈りの言葉を与えてくださっていることを憶えたいと思います。
神の側では、神の国を私たちにお与えになってくださいます。そして私たちが神の国の民の一員として生きていくようになる、そのことを望んでくださっています。「神は願う者に御国を与えてくださる」と、主イエスはおっしゃいます。
私たちは、神の御国に生きる者とされていることを憶えて、思い煩いに覆い塞がれてしまうのではなく、神が私たちをさまざまな苦境や困難から救い出してくださる、あるいは、自分の思いが果たされなければ気に入らないという有頂天な思いから救い出そうとしてくださっている、そのことを憶えたいのです。そして、御国の民の一人とされていることを憶えて、ここから歩み出すことができますように、神に助けと導きを祈り願いたいと思います。お祈りを捧げましょう。 |