ただ今、ルカよる福音書12章35節から40節までをご一緒にお聞きしました。
35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とあります。何となく唐実な印象を受ける言葉です。これまでのところで主イエスは弟子たちに向かって、「思い悩みから解き放たれるように。そして神の国を求めるように」と教えておられました。食べ物や飲み物、着物など、自分の生活をどのように成り立たせるかという思い悩みに捕らわれてしまうと、自分の思いが自分の主人のようになってしまい、本当に自分を生かしてくださっているお方が誰なのか、分からなくなってしまいます。そうならないようにと「思い悩むな」とおっしゃり、「神の国を求めるように」と勧めておられました。
ところがその文脈の流れからすると、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉は、一体何のことをおっしゃろうとしているのかと戸惑ってしまうのです。これまで教えられてきた事柄とどう繋がるのか、しかしどう繋がるのかという点は別にして、言われている事柄は分かるような気がします。
「腰に帯を締める」というのは、どこかに出掛けて行く時、あるいは仕事に取りかかる時のいで立ちです。ずっと昔のことになりますがモーセの時代、イスラエルの人たちがエジプトを脱出する前夜に、神がエジプトの国中を巡り歩かれ、すべての家に裁きをもたらして長子を撃つということがありました。エジプト人たちは皆その裁きを受けたのでしたが、イスラエルの人たちは家の鴨居に羊の血を塗ることによって、裁きを過ぎこしていただきました。あの晩、エジプト人たちが裁かれて災難に遭っていた時、イスラエルの人々はこれからの長い旅行に備えて過ぎ越しの食事をとったのですが、その時、神はイスラエルの人々にお命じになりました。「過越の食事をとる時には、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして急いで食べなさい」。ですから、腰帯というのはそのように、今から旅行や仕事に出かける時の姿です。そんな風に「あなたがたは用意しなさい」と、主イエスは今日の箇所でおっしゃっています。
もう一つの「ともし火」は、明らかに暗がりを照らすための道具です。そうすると、弟子たちは今から夜の暗闇の中を旅するような仕度をしなさいと言われているのでしょうか。しかし、仮にそのようにこの言葉を受け取ると、なぜ主イエスがこのようなことをおっしゃるのか合点がゆきません。どうもここは、旅に出るというような話ではないようです。
新共同訳聖書の特徴の一つに、元々の聖書には無かったゴチックの小見出しがつけられているということがあります。今日の箇所ですと、「目を覚ましている僕」という小見出しがつけられています。本来の聖書にはついていないのですが、初めて聖書を読む人のために、そこに記されている内容を分かり易くしようとしていわば親切心からこの小見出しがつけられているのですが、この小見出しがあることで便利な場合もありますが、逆に聖書の元々の言葉の流れが途切れてしまい、分かりにくくなってしまう場合もあるのです。今日の箇所で言いますと、35節からまったく新しい話が始まって、その最初に「腰に帯を締め、ともし火をともすように」と主イエスがおっしゃったのだと思うと思います。けれども、多分35節の言葉はここから新しく始まっているのではなくて、直前に語られていた事柄とゆるやかに繋がっている箇所であろうと思われます。直前に語られていたのは、「施しをしなさい」という勧めです。「あなたは喜んで自分の宝をささげて施しに用い、あなたの富を天に積むようにしなさい」という勧めが語られています。この勧めの言葉は、おそらく35節の2つの命令と結びついている言葉なのです。
そして、このように「自分の財産をささげて施すこと」「帯を締めて働きに備えること」、更に「ともし火をともしてよく見えるように注意する」という3つの事柄は、主イエスに従って神の御国に憧れて生きる「信仰者の基本的な生活態度」として教えられているようなのです。というのも、言葉はやや違っているのですが、この3つの事柄「富を自分のために使うのではなく施しにささげて天に富を積むこと、帯を締めて自分の身なりを整え働けるように備えること、そして自分の目がきちんと闇の中でも見通せるように気をつけること」は、聖書の他のところでも大切な事柄として語られているからです。
例えば、聖書の一番最後に記されているヨハネの黙示録3章に出てくるラオディキア教会のありようを戒める言葉の中に、この3つの事柄が語られています。ヨハネの黙示録3章17節から20節に「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とあります。このラオディキアの町は、小アジア、今日のトルコ国がある場所の内陸部にあって当時の世界では有数の大都市の一つでした。今日では滅んでしまって近くに小さな村と沢山の遺跡が見られる場所として知られています。1世紀の終わり頃は大都会でしたので、この地に建てられた教会も、多くの信者が集まって栄えていたようです。この教会の人たちは、自分たちの人数が多く経済的にも豊かで満ち足りているので、「これ以上何も必要な物はない」と言って、すっかり安心していたようです。
ところがそんな風にして、自分たちのことを誇って高ぶっていた教会の姿が、神が御覧になった時には、まことに見すぼらしい姿に映ったようなのです。「あなたがたは、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない君、裸の者であることが分かっていない」と言われています。これはもちろん、教会の財政が傾いているという話ではないのです。そうではなくて、この教会の人たちの信仰がまことに貧しく、神の国を待ち望んで生きるというあり方から見れば、進むべき道を間違ってしまっているという警告です。ですからこの教会には、「悔い改めなさい」という言葉がかけられます。「あなたがたは悔い改めて、生き方の向きを変えるように」と勧められる言葉の中に、「火で精錬された純度の高い金や、身なりを整える白い衣や、見えるようになるための目薬を買いなさい」と言われています。言葉こそ違いますが、これは「天に富を積むこと」「自分の身なりを豊えて、主の僕となって働く備えをすること」、そして「この世の闇の中でも、神の御旨を聞いて見通す目を持つようになること」が勧められています。1世紀終わり頃の教会がこんな風に戒められ、勧められているのは、実は今日のところで、主イエスが弟子たちを3通りの仕方で戒めておられることが、その一番始まりにあるのです。
そして主イエスは、神の国を待ち望んで生活する者たちの本来あるべき姿を3つ語られた後で、それを説明するたとえを2つ、お語りになります。最初は「婚宴の喜びの様子を携えて帰ってくる主人を待つ僕のたとえ」、そして次に「盗人のように密かにやって来る主の訪れの時に虚をつかれないように備えをしている家の主人のたとえ」が語られます。ルカによる福音書で、このように2つ、あるいは3つほどのたとえ話が続けて語られる時には、主イエスが一時に2つの話をなさったのは稀で、別々の機会に主イエスが語られたたとえ話をルカが編集してここに並べたと考えることができます。ルカは、主イエスがたとえを通して教えようとなさった事柄を、一つのたとえ話で済ませてしまうのではなくて、2つ3つ重ねて聞かせることで、主イエスが何を伝えようとなさったのかをよりはっきり示そうとするのです。今日の箇所もそういう目的で、2つのたとえ話が組み合わされて語られています。
では、この2つのたとえ話を通して語られている事柄は一体何でしょうか。それは「一つのまことに重大な時がやって来ている。時の訪れ」ということです。それは、神の国の訪れの時です。今日の記事の中には「神の国」という言葉は出て来ませんけれども、主イエスは、主御自身がここにやって来て共にいてくださる、まさにその時、そこに神の御国が来ているということを伝えようとしておられるのです。
最初のたとえでは、家の主人は結婚式の喜びの席に出かけ、そこから妻を伴って帰って来ようとしています。早く自分の喜びを一緒に喜ぶように、留守を守っている僕たちを招こうと考えながら家路を急いでいるのです。「天に富を積みなさい。身なりを整えて準備をしていなさい。ともし火をともして目覚めていなさい」という3つの教えは、意味もないのに「そうせよ」というような教えではありません。主人が帰って来て、その主人の喜びの中に僕たちも招き入れられるので、「目を覚まして待つように」と呼びかけられています。先ほど聞いたラオディキア教会に向かっても、よく似た言葉が投げかけられていました。20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と言われていました。主が戸口に立って戸を叩いておられるというのは、今日の箇所を重ね合わせて聞くならば、主人である主イエスが妻である教会と共に私たちのもとを訪れてくださり、そして喜びの食事を共にしようとして戸を叩いてくださるということです。喜びの交わりである教会の群れの中に、僕たちが招き入れられるのです。そういうことがあるのですから、私たちは、主の僕としての備えやいで立ちをしっかり整えておくようにと勧められるのです。
しかも主イエスは今日のところで、極めて大切なことを教えておられます。37節で主イエスは、「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とおっしゃるのです。僕たちに「帯を締めよ」というだけではなく、「主人も帯を締める」と書いてあります。しかし考えますと、こんなことは普通には起こりません。主人が僕たちのために給仕に当たるなどということは、普通では考えられないだろうと思います。夜更けであろうが明け方であろうが、主人は主人、僕は僕です。僕たちがどんなに眠気を催していても、僕は主人に仕えて給仕をするのが当たり前であり、そのことで主人が僕たちに「ありがとう」とお礼を言うことはないでしょう。ところがこの主人は、僕が目を覚まして待っていることを大変喜んで、自らが帯を締めて給仕をしてくれるというのです。この主人とは、主イエス御自身のことを指しています。こういう普通では決してあり得ないようなことが起きているので、「あなたがたは、よくよくこの言葉を覚えていなさい」とおっしゃって、主イエスは、「はっきり言っておく」と言っておられるのです。
ところで、ここで使われている「給仕をする」という言葉に注目したいのです。この言葉は「奉仕する」という言葉です。英語で言うなら「サーブ」という言葉です。そして、ここから「サービス」という言葉、即ち「礼拝」という言葉が生まれているのです。7月に教会全体研修会で礼拝のことを考えた折に、このサービスということを申し上げました。私たちのささげる礼拝はサービスと呼ばれるのですが、礼拝は上からのサービスに呼応するようにして、私たちも下から上へ、つまり天を仰いで神のなさりようを喜び、感謝し、誉めたたえます。主イエスが妻である教会を伴って私たちの許にやって来て給仕をしてくれる時というのは、今、この礼拝の時もその一つなのです。礼拝の中で主イエスが自ら帯を締め、私たちに仕えて、御言葉を告げ知らせ教えてくださいます。私たちは、その主の奉仕によって御言葉を理解し、自分に理解でき合点の行った度合いに応じて、天に宝を積み、主に仕えて働き、終わりまでの主の御業を見通して生きる者へと育てられてゆくのです。
もう一つのたとえは、泥棒のたとえです。この記事に限らず聖書の中には何箇所も、「主の日の訪れ」が盗賊の忍び込む様にたとえて語られます。このたとえの意味は、主イエスが泥棒の一味だと言っているのではありません。主イエスが弟子たちの許にやって来てくださるのは、まことに密やかな仕方で起こるのだと教えているのです。どんな泥棒であっても、泥棒を予告して押し入ったりはしません。泥棒は気づかれないように、密かに行動するものです。主イエスが教会を伴って弟子たちを、あるいは私たちの許を訪れてくださる時も、そのようなのだとここに述べられているのです。
ですから私たちは、主イエスが神の御国の訪れという喜びの知らせを携えて私たちの許にやって来てくださる時を楽しみに待って良いのです。自分には決して神の国の事柄が分かることはないだろうと言って、しょげ込む必要はありません。何放なら、主イエスは盗人のように、まことに密かにおいでくださるからです。主イエスは私たちのために、事を密かに持ち運んでおられ、そしてある日突然に、神の御国の中に私たちを立たせてくださるのです。
ですから、泥棒のたとえ話は40節のような言葉で結ばれます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。「神の国が来ている」ということは、ある日突然、自分がその中に入れられていることに気付かされる、そういう仕方で知るのです。主イエスは思いがけない時に私たちを訪れてくださいます。ですから、用意をして備えているようにとおっしゃるのです。
ですが、「主の訪れに備えて用意する」とは、どういうことなのでしょうか。私たちは、どうすれば用意していることになるのでしょうか。私たちの信仰が眠ってしまわないように、自分自身に気を配るということでしょうか。そうではなくて、主イエスが来てくださり心の扉を叩いてくださる時、私たちがその呼びかけに気づいて「どうか、お答えできますように導いてください」と神に祈ることが、一番の備えなのではないでしょうか。
私たちの信仰は、自分では注意しているつもりでも、つい居眠りをしてしまう時があるのです。自分自身の信仰生活を振り返ってみますと分かるでしょう。礼拝をささげ聖書の御言葉を聞き、新しい思いで「主のものとして生きよう」と決心して礼拝堂を後にしても、ふと気がつくと、私たちはいつの間にか主イエスの御業を忘れ、神を抜きにして、自分の思いや願いを先立たせて生きてしまうということは、よくあることなのです。朝起きて「今日は神の民に相応しい一日を送りたいです。どうか神さま、導いてください」と祈っても、夜の祈りでは「神を忘れて過ごしていた時間が多くありました。どうか、このわたしを憐れんでください」と祈ることはないでしょうか。あるいは最初から、神の御心に添って生活することはそっちのけに、「今の自分の生活が上手く運びますように、どうぞ守ってください」と、自分中心の事柄しか祈っていないことに気がついて愕然とすることだってあるかも知れません。ですから私たちは、自分の力で自分自身が注意を払って自分の信仰生活を守る、眠らずにいることなどできないのです。私たちの持つべき第一の備えは祈りです。「主イエスが訪れてくださる時に、起きていることができるようにしてください」と祈ることです。
主イエスはこの先何度も、神の国がやって来る時のことを弟子たちに教えて、その時に備えるようにと勧めてくださいます。たとえば、この先の21章34節では、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」と警告してくださいます。そしてその上でさらに、主イエスはこう勧めてくださるのです。21章36節で「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。「目を覚ます」ということは、緊張して自分自身を見張るということではありません。そんなことをやってみても、私たちには弱いところがあって、どうしても眠り込んでしまう時があります。信仰が目覚めている人は、自分の努力や力で起きていようと頑張るのではなくて、弱い自分であることをよくよく弁えて、その弱い自分を神の慈しみと憐れみにお委ねするのです。私たちは、自分の力で信仰を目覚めさせていることはできませんが、そんな弱い私たちを神が持ち運んでくださり、大事な時に目覚めた働き手へと導いてくださるのです。そういう祈りの備えを持って生活するようにと、今日の箇所で主イエスは教えてくださっています。
「神さまは、あなたに神の国を喜んでくださるけれども、それを受け取るために、目覚めて祈りをささげて生きるようにしなさい。神はきっとあなたに、そういう生活を与えてくださる」と主イエスが私たちに呼びかけ、私たちの信仰を励ましてくださっていることを覚えたいと思います。お祈りをささげましょう。 |