聖書のみことば
2025年8月
  8月3日 8月10日 8月17日 8月24日 8月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月10日主日礼拝音声

 小さな群れよ、恐れるな
2025年8月第2主日礼拝 8月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第12章32〜34節

<32節>小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。<33節>自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。<34節>あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 ただ今、ルカによる福音書12章32節から34節までを、ご一緒にお聞きしました。
 32節に「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とあります。「恐れるな」と主イエスが弟子たちに呼びかけていらっしゃいます。ということは、この時、弟子たちは何かの恐れを憶えるような状況の中に置かれていたのでしょうか。
 1つ前の箇所、12章22節から31節までのところで、あらゆる貪欲に注意するようにと戒められた主が、その貪欲の根となる生活の思い患いについて教えておられました。思い患いに囚われてしまうと、そちらにばかり思いが向いてしまって、私たちに命を与えてくださった造り主である方がおられることを忘れてしまいます。命の主である方に思いが向かなくなってしまう、その点が最も注意しなくてはならない点で、主イエスは私たちが神を忘れて神から離れてしまわないように、思い患いへの注意を換起しておられました。食物や飲み物、着物のことで思い悩まないように言葉をかけてくださり、また、「神さまの御国を求めるように」と勧めてくださいました。

 では、今日の箇所での主イエスの教えは、食物や飲み物、着物などの生活に必要なものが手に入らなくなる心配をすることについて、「恐れるな」とおっしゃっているのでしょうか。確かに、生活するのに必要な食糧や飲み水や衣服などが手に入らなければ、私たちは困るに違いありません。ですが、主イエスがここで「恐れるな」とおっしゃったのは、そのように生活が困窮するということばかりではありません。12章に入ってから、主イエスはしきりに弟子たちに「恐れないように」と教えておられました。たとえば4節5節では「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」とあります。ここでは、日常生活の欠乏や生活の困窮といった事柄をこえて、主イエスと弟子たちに対してはっきりと敵意を抱いて攻撃を仕掛けてくるユダヤ人たちが現れることを予想して、そういう者どもを恐れないようにと教えておられます。「人間を恐れるのではなく、神をこそ恐れるように」と教えられます。
 このことは2つのことを言っているように感じるかも知れませんが、そうではありません。どうしてかというと、私たち人間は、神を恐れなくなると人を恐れるようになるからです。神を恐れるということは、人を恐れなくなる秘訣のようなことです。神を恐れる人は、神を侮ったり神に逆らったりするのではなく、逆に神に保護していただくことを願うようになります。そして、神がきっと自分のことを守り支えてくださると信じるところで、私たちは他人への恐れから解放されるのです。ですから、人間を恐れないということと神を恐れるということは、いわばコインの裏表のような関係にあります。神を心から恐れその神のなさりように信頼して、神に自分自身を委ねるときに、私たちは本当に人間への恐れから自由にされるのです。4節5節で主イエスが「人間を恐れず、神を恐れるべき」ことを教えてくださったのは、主が本気で弟子たちを恐れから解き放ち、自由な者にしようとしてくださっている、そういう思いの表れなのです。
 また、11節12節では、弟子たちがユダヤ人たちに捕らえられて町々の会堂に置かれていた地方法院やエルサレムに設けられていた最高法院の裁きの場に連行されることを予想して、主イエスが語っておられます。11節12節に「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」とあります。主イエス御自身は今、エルサレム郊外のゴルゴタの丘にやがて建てられることになる十字架を見据え、その十字架にお掛りになる決意をもって道を進んでおられるのですが、それだけではなくて、主イエスに向けられる敵意や憎しみがやがて弟子たちにも向けられるようになる時が来ることを見越しておられるのです。主イエスの弟子たち、即ち、主イエスに従おうとする志を与えられて教会の群れに連なる一人ひとりを気遣って、恐れたり心配したりしないようにと、主イエスは声をかけておられます。

 従って、今日の箇所で主イエスはこうおっしゃるのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。「小さな群れよ」と言われます。群全体が圧迫され敵意の下に置かれることを予想して、「たとえそういうことがあっても、あなたがたは、ひるんだり尻込みするには及ばない。恐れなくともよい。なぜなら、あなたがたの天の父は、喜んで神の国をくださるからだ」と言わるのです。思い違いをしないように注意して聞きたいのですが、主イエスは、信じる者たちにとってはすべてのことが都合よく運ぶから恐れなくて良いとおっしゃっているのではありません。キリスト者であっても、この世に生きている他の人たちと同じように、困難な出来事や事柄に遭遇することはあり得ます。困難に出遭わないから恐れなくて良いというのではなくて、たとえ困難に直面するようなことがあるとしても、恐れなくて良いと教えています。恐れるには及ばないというのです。どうしてでしょうか。主イエスは、「あなたが困難に直面する時にも、あなたには神の国が与えられるからだ」と言っています。「あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる」というのです。
 主イエスは、前の箇所、今日の箇前から始めて、弟子たちに何とかして神の国の事柄を伝えて理解させようとなさいます。それは、まさに今日のところで主イエスがおっしゃるように、天の父が喜んで神の国を私たちに与えてくださるという事実があるからなのですが、ただ、神の方で神の国を与えようとなさっても、それを受け取るようにされている私たちの側がそのことに気づかずに過ごしていることも多いので、主イエスは何とかして、神の国のことを弟子たちに伝え、分からせようとされるのです。この先13章14章16章17章でも、主イエスは繰り返して、たとえを用いたり、もっと直接的な言い方をなさったりしながら、弟子たちに「神の国」を伝えようとなさいます。「神の国」についてはその箇所に来たところで考えるとして、今日の箇所では、「恐れなくて良い」ということと「天の父が喜んで神の国をくださる」という約束が並んで語られていますので、私たちの抱きがちな恐れ、「どうしても恐れを持ってしまう」ということと、「神の国が与えられる」という約束の関係に絞って考えてみたいのです。

 まず私たちが抱く恐れについて考えてみたいのです。どうして私たちは恐れるのでしょうか。恐れを知らないという人は、おそらくどこにもいないだろうと思います。「自分には何も怖いものはない」とうそぶく人は時折いますけれども、それは本当に恐れがないのではなくて、逆に、怖くて仕方がないので、自分が不安や恐れを持っているという事実を認めようとしないだけのことです。
 今日、最初に申し上げたように、神を恐れることを止めてしまうと私たちはどうしたって、人を恐れたり、あるいは未だ見ぬ将来を恐れたりするようになってしまいます。どうしてかというと、私たちは、自分で何でも決めて思いのままに事を運べる神のような存在ではないからです。私たちは神を恐れなくなると、神から離れて、自分の思いに任せ自分の思いばかりを追いかけて生きるようになります。ところが、そのように自分の思いばかりを追いかけて生きるのは、わたしだけではなく、隣の人もまたその隣の人も、自分と同じように自己実現をしようとして生きています。そのようにお互い同士が自分の思いを際限なく追い続けて生きてしまう時には、どこかで必ず衝突や摩擦が起きて来るのです。そして力の弱い方が強い者に屈服させられてしまうのです。ですから、神から離れて神を恐れることなく生きる人は、その生涯にわたって隣人を警戒し、不安と恐れの中を生きる他なくなってしまうのです。
 おまけに私たちは、いつまでも若々しく力を保って人生を生きてゆけるわけではありません。若い時には力を振るって力任せに生きていても、年をとるにつれて弱ってしまい、力の弱者になります。また若くて力の強い者であっても、もっと強い相手に遭遇しないという保証はありませんから、たとえ力の強い者であっても、恐れから自由になれないのです。
 けれども、神を恐れて神の前に従順に生きる人は、人間に対する恐れから自由にされます。もちろん、神を信じる人だってその人なりの思いや願いを持っていて、それが思い通りに行かないという経験をする場合があります。壁に突き当たったり、思い通りにいかないという経験を誰しもするのですが、しかしそのような時にも、上手く運んでいないように感じられる目下の事情や自分の思いを神の前に注ぎ出して祈り、神にお委ねすることで、尚、将来への希望と隣人への愛を持ち続けて歩んでいくことができるようにされるのです。神を恐れて生きる人は、神の御支配がこの世界の上に確かにあるのだということを信じて、神に、自分自身も目下の事情もお委ねして生きるようになるのです。そうやって将来への希望と愛を失わずに生きるようにされるのです。そのために、もはや隣人を恐れる必要がなくなり、隣人を愛する人に変えられていきます。どうしても自分の思いが通らないと気が済まないというありようから解放されるため、隣人に対しても、また人生の中で生じる思いを超える出来事に対しても、和らぎを持って接する余裕が生まれるのです。

 そのように、神に自分自身を委ねて神の導きに信頼して生きるというあり方が「神の国を生きる人間の姿」です。主イエスを見れば、そのことが分かります。主イエスは今、エルサレムの十字架を目指して進んで行かれるのですが、それは、主イエス御自身にとって利益があるとか、良いことがあるからそうなさっているのではありません。主イエスは神に信頼して、すべてを神にお委ねして、神の御業を果たすために、十字架に向かって進んで行かれます。そういう主イエス御自身のありようが、神の国を受け止めて生きてゆく姿なのです。
 この福音書の16章16節で、主イエスは「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」と言っておられます。主イエスはここで弟子たちに、「ヨハネの時まで」と、「主イエス御自身が神の国を告げ知らせてくださるそれ以降の時」を区別しておられます。主イエスが神の国の福音を知らせるのは、他ならない主イエス御自身が神の国の民の初穂として、どこまでも神に信頼して従順に生きられるからです。私たちは、自分では神のことを分かりませんから、人間は誰一人神の国の民として生まれ、生きていく人はいません。私たちは普通に生きれば、どうしても神と接点がないままに一生が過ぎていきます。しかし主イエスは、神の許から来られた方で、神のことをよく御存知なので、神に信頼して最後まで歩んで行かれます。その主イエスが御自身の歩みを私たちの前に示しながら、「わたしに従いなさい。あなたもあなたの十字架を背負っててわたしについて来なさい」と招いてくださるので、私たちは神の国の民として生きるようにされていくのです。
 主イエスが伝える神の国は、どこかにある空想の世界や作り話ではないのです。主イエス御自身の歩みが、この地上に生まれた最初の神の国の歩みなのです。そして、「あなたの前に神の国が来ている。あなたもわたしに従って歩みなさい」と主イエスが招いてくださるのです。

 ところで、主イエスがそのように、神の国を示してくださって以来、「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」という印象的な言葉がここに出てきます。「力ずくで」と言われると、まるで私たちが自分の力でそこに入ろうとしている、例えて言えば、目的地に向かって行く電車が満員だけれどもそこに無理やり乗り込もうとしているという印象を受けるのですが、実は私たちは、そんなに物分かりが良いわけではありません。主イエスから、「神の国がここに来ている。だからあなたも信じてわたしに従いなさい」と招かれても、私たちはあれやこれやと口実をもうけて主に従うことを渋ることがありますし、あるいは、自分では主に従おうと心に決めた場合でも、気がつくといつの間にかその決心を忘れて自分の思いや願いを追いかけてしまうようなところがあります。私たちには、たとえ神の国に至る列車が目の前にやって来たとしても、自分でホームからその電車に乗り込もうとしない頑なさがあるのです。そうすると「力づくで神の国に入ろうとしている」というのは、どういうことになるのでしょうか。
 コロナの流行以降見なくなりましたが、かつて首都圏の通勤列車で満員電車に乗り込もううとする人がいると、駅員がその人の背中を押して何とかして電車の中に押しこもうとする光景がありました。ここに言われている「力づく」というのは、例えて言えば、そんなことなのです。聞き分けが鈍く、なかなか安全な囲いの中に入ろうとしない羊たちを、羊飼いや牧羊犬が一緒になって安全な囲いの中に入れようとしている、そういう外からの力が働いて羊たちは夜の暗い時間も安心して過ごせる小屋の中に入れられて行きます。主イエスはそんなふうにして、私たちを招いてくださるのです。主イエスの招きの声、その言葉の説き明かし、そういう神の業が行なわれていることを賛美して指し示したり、あるいは「どうかこの人が神の前に招かれますように」と執り成しを祈ったりする祈りの声が、力づくで私たちを神の国の民となるように導いているのです。
 「神が喜んで神の国をくださる」というのは、そんなふうに神が御自身の聖霊の力によって私たちを捕らえ、神の国の民の一員にしようとしてくださるということです。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、主イエスはおっしゃいます。主イエスが私たちのもとにもやって来てくださり、神の国に至る道の門を開いてくださっています。私たちは、もしかすると理解が遅く悟りの鈍いところがあるために、せっかく門が開かれてもそのことに気づかず、そこから入ろうとはしないで、自分で神の国の救いに至る道を探そうとするかも知れません。見当違いなことをしてしまうこともあるのです。主イエスはそれでも、何とかして、御自身が見出した弟子たちを神の国の中へ導こう、神の御支配と保護のもとに生きる生活へと招き入れようとしておられます。弟子たちに向かって「神が喜んで神の国をくださる」と語りかけられた約束は、今日ここにいる私たち一人一人にも語りかけられていることを覚えたいのです。
 主イエスがこの箇所から、「あなたは神の国の民の一人として生きる者となりなさい」と招いてくださっている声を聞き取って、群に連なる一人の羊としての生活を、ここから始めるようにされたいと願います。お祈りをささげましょう。

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