ただ今、ルカによる福音書11章24節から28節までをご一緒にお聞きしました。
24節25節に「『汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出て来たわが家に戻ろう」と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた」とあります。「汚れた霊」が出てきますが、これは直前の箇所に述べられていた「悪霊」と呼ばれていたものと同じものを表しています。「汚れた霊」や「悪霊」という言葉を聞かされますと、科学がまだ発達していなかった古い時代の迷信的なことのように感じてしまい、抵抗を憶えるかも知れません。けれども、ここで言われている汚れた霊や悪霊は、人間の力や思いを越えてその人の上に働きかけ、その人を振り回してしまうような不可解で不気味な力や働きのことを表しています。殊に直前の箇所で主イエスが追い出しておられた悪霊は、口を利けなくする悪霊でした。人間がお互いに交わりを持ち協力し合うためには、言葉を交わしてお互いの状況や立場や正直な思いを伝え合わなくてはならないのですが、ここに出てきた悪霊は、その言葉を人間から奪い、コミュニケーションを破壊する不気味な力でした。主イエスがひるむことなく、また、たじろがずにその悪霊と向き合い、辛抱強く関わってくださった結果、その人を強く捕らえていたわだかまりが解きほぐされて、その人から悪霊が出て行きました。その結果、今まで頑なに沈黙し続けてきた人の口のもつれがほどけ率直にものを言うように変わったことが、14節に「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」と述べられていました。ここに「悪霊が出て行った」と言われていますが、今日の始まりのところで「汚れた霊が人から出て行くと」と言われているのと同じ言葉が使われています。
主イエスが辛抱強く関わってくださり、口先だけのお世辞や誤魔化しではない真実な交わりを求めてくださることで、人間の中にあるわだかまりや思いのもつれが次第に解きほぐされ、悪霊がその人の中から出て行くようにされるのですけれども、しかし悪霊は死んで滅んでしまう訳ではありません。何故なら、人間に対して力を振るい、正直な言葉を失わせ、互いのコミュニケーションを阻もうとする不気味な力や出来事がどこからやって来るかと考えたなら、それは他ならない私たち自身に由来するものだからです。悪霊や汚れた霊の育つ温床は、他ならない私たち自身の中にあります。私たちが罪人であり、心に思うこと、そしてそれが口に上ってきて言葉として外に発せられること、また口には出さなくても行動の上で自分の思っていることや考えていることが現れてしまい、自分中心になったり、無責任になったり、思い遣りのないあり方をするところから、私たちの互いの交わりを阻んでしまう破壊的な力が息を吹き返し、働き始めます。ですから、私たちは一時、悪霊や汚れた霊の支配から解き放たれて、心の底からお互いに率直な交わりを持てるようにされても、そこですっかり安心して有頂天になってしまうわけにはいかないのです。
先の箇所の20節で、主イエスは、悪霊を追い出すのは神の指の働きであり、癒された人々が神の国の民とされることなのだと述べたのに続いて、本当に強い方がその家の主人として住んでくださるのでなければ、一時は悪霊の支配から解放された人でも決して安心できないことを教えておられました。21節22節に「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とあります。屋敷、家に例えられているのは、主イエスによって悪霊の支配から解き放たれて、心から率直に、正直に自分のことを語り、また周りの人たちのことを受け止めることができるようにされた人です。このような状態は、しかし、私たち人間にとっての生まれつき、当たり前の状態ではありません。私たちは決して神のように永遠でも無限でもなく、時間的にも肉体的にも精神的にも様々な限界や制約を抱えて地上を生きています。そのために私たちの中からは繰り返し、不安な思いや恐れや悪い考えが浮かんでくるようなところがあります。まさにそれが、悪霊が私たちの中に暗躍して力を振るう温床なのです。
ですから私たちは、主イエスによって多くの思い煩いを整理していただき、本当に生まれ変わったように朗らかで清らかな生活を生きることができるようにしていただいたなら、自分自身の中に、主イエスにまことの主人として住んでいただき、私たち自身の中から湧き上がる思い煩いや悪い考えを治めていただくようにするのが望ましいことになるのです。
今日の箇所の汚れた霊のたとえ話では、人から出て行った汚れた霊が、また同じ人の許に戻って来ると言われていました。25節に「そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた」とあります。ここで家に例えられているこの人の状況に注目したいのです。この家は掃除をして綺麗にされ、整えられていたと言われています。掃除がされていたと言われていますから、この人は様々な思い煩いや悪い思いから解き放たれて、清くされた清い者として生きていたことが分かります。しかしそれと同時に、この人は汚れた霊から見ても整えられていたというのです。この「整えられていた」とは、どういう状態なのでしょうか。口語訳聖書では、「飾りつけがしてあった」と訳されていました。聖書協会共同訳でも「飾りつけがしてあった」と訳されています。「整えられていた」と訳されているこの言葉は、英語のコスメティックの語源になっている字が書いてあります。コスメティックを日本語に訳すと化粧用のとか化粧品を指すと思われますけれども、化粧品には容姿を綺麗に整えることと、体を清潔にするという二つの役割があります。この人は清くされた者であることを自覚して、自分で自分自身を清潔に保ち、またそのように自分を見せようともしていたのでしょう。
ただし、掃除をして整えられてはいたのですが、この家には、本当に強い主人はいなかったようなのです。それで、一旦この家を離れた悪霊は、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て再びこの家に入り込み、住み着いたのでした。七つの霊という7という数字は「沢山の」という意味ですから、この人の中に汚れた霊が最初の霊も含めて8つ住むようになったということではなくて、無数の思い煩いや悪い思いや不安に捉われてしまったと言われているのです。26節に「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とあります。後の状態というのは、前と後という意味もあるのですが、「最終的には」という思いが込もった言い方がされています。主イエスが真剣にその人と向き合い、辛抱強く関わってくださった結果、その人が一時、自分の抱えている思い煩いや悪い思いから解放されたように思っても、その人の中に主イエスがやって来て主人となって共に住んでくださるのでなければ、その人はまた新しい思い煩いに捕らえられてしまうことが起こりかねないことを、主イエスは警告されました。そしてそういうことが起こる時には、一時自分は清い者になったのだと思っただけに、それが挫折する、深い絶望を経験するようになります。「主によって清めていただいた。清い者となって生きて行こう」と心に決めるだけでは、一時はそのことを心から喜べるかもしれませんが、すぐに自分自身の中から湧き上がる弱く邪悪な思いに捕らえられてしまい、元々の辛い生活に逆戻りしてしまうことがあり得ることを、主イエスは見抜いておられるのです。人間の心の中にどんな思いが生い育ち易いかということを、主イエスはよく御存知です。それで、「本当に強い方を、あなたの主人として、あなたの家に迎えるように」と招いてくださるのです。
ところで主イエスがこのように話された時、それを聞いていた群衆の中から一人の女性が声を張り上げて叫んだことが、その先に続けて語られています。27節28節に「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」とあります。高らかに声を上げた女性は、主イエスとの近さを、肉親の近さ、即ち人間的な親しみの近さのように考え、主イエスを宿した胎と乳房の持ち主、つまり母マリアのことを本当に幸いな人だと語りました。確かに主イエスを身ごもり出産した母マリアが本当に幸いな人であるという言葉は、この福音書の初めのところから繰り返し語られます。
たとえば、マリアの親族であったエリサベトは、主を身ごもっているマリアと出会った時に、マリアに対して「あなたは女の中で祝福された方です」、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と呼びかけて、マリアが幸いであると証言しました。するとマリアもこの挨拶に刺激されるかのように、神をほめたたえた中で、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語りました。主イエスが関わりを持ってくださるということは、無条件に幸いなことなのです。
今日の箇所でも、主イエスは別にマリアが幸いな者だということを否定したりはなさいません。確かにマリアは主イエスの母としての立場を与えられ、主イエスに結ばれた者として幸いであるに違いないのです。ですがその幸いは、母マリアだけが特別に幸いなのではありません。マリアに加え更に多くの人々が幸いなことを、主イエスはおっしゃいます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。
母マリアのことを幸いだと言った女性は、別に主イエスのことを救い主であるメシアだと分かってこう言った訳ではありません。そうではなくて、主が悪霊を追い出して口が利けなかった人が口を利けるようにしてくださった不思議な業を見て、「不思議な奇跡を行えるような子どもを産んだ母親は、何と幸いなことか」と言っています。それに対して主イエスは、「本当の幸いは奇跡を行ったりそれを見たりすることではない。そうではなくて、神の言葉を聞いて、それを受け止め、守る人こそが幸いなのだ」とおっしゃっています。
「神の言葉を聞いて守る人」とは、どういう人のことをいうのでしょうか。ここで「守る」というのは、私たちが何かの規則を守るとか、掟を行うという意味ではありません。そうではなくて、「守る」という言葉は、すぐ直前の21節のところで「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である」と言われていた、「守っている」と同じ言葉です。つまり、「神の言葉を聞いて守る」というのは、聞いた人が自分の行いによって何かの規律を守るのではなくて、聞かされたとおりに強い方を自分の中にお迎えして、それによって自分を守っている状態のことです。
神と私たちの結びつきは、主イエス・キリストという方を仲立ちに与えられて成り立つのですが、それは、私たちが寝ても覚めても主イエスのことを忘れずにいるとか、私たちの強く固い決意や思い込みによってもたらされるのではありません。私たちは実際には、神のものとされキリスト者と呼ばれていても、始終、神のことも主イエスのことも忘れ、神抜きで生活してしまい、気がつくと神に背を向けていたりするのです。私たちが普段は忘れていても、改めて考えれば、一人ひとりが主イエスの十字架のもとに置かれている者なのです。私たちは日常的に自分の母親のことを考えているわけではなくても、その母の胎から生まれてきた子どもであることが確かなことであるように、私たちは主イエス・キリストの十字架の許に置かれているのです。
そして主イエスは、まさしく救い主としての働きをするために、エルサレム郊外のゴルゴタの丘に立つ十字架を見据えて、旅をなさっておられるのです。
主イエスは、ゴルゴタの十字架をはるかに見据えながら、神と私たち人間の間を隔てている罪をすべて御自身の側に引き受け、御自身をその罪のいけにえとしてささげ、その死によって罪をすっかり清算するという仕方で、救い主メシアの働きをなさるために歩んでおられます。主イエスの十字架によって、神と私たち人間との罪による対立と断絶が清算されて、神との間柄が再び結び直され、私たちが神の民の一人、神に結ばれている家族の一人として歩んで行けるようにされます。
そういう十字架に向かう道中で、神との交わりを保つために、主イエスは弟子たちに祈ることを教え、また口を利けなくし神との交わりも途絶えさせようとする悪霊と戦ってくださり、私たちを、祈れる者、また祈りをささげて生きる者となるように招いてくださいます。今日の箇所は、そんな風に、私たちが神との交わりの中に実際に生きる者となるようにという、主イエスの願いから語られています。
最初の汚れた霊が、掃除され飾りつけられた空き家に戻ってくる方の話は、私たちが、自分の力では清められた自分を守れないことを教える警告として語られています。私たち自身の中に、私たちを守ってくれる頼もしい方を迎えないと、最終的に私たちは悪い思いや嫌な考えに入り込まれてしまい、どうにも身動きがとれなくなってしまうのです。私たちの中に、本当に強い方をお迎えしなくてはならないという教訓として語られています。
後の方の話は、ではどうやって本当に頼もしい方である主イエス・キリストを自分の内にお迎えするのかということなのですが、それは、「御言を聞いて信じること」です。自分のためにも主イエス・キリストが十字架に掛かってくださり、罪と戦って勝利を収め、復活して自分と共に歩んでくださると信じることで、信仰によって主イエスをお迎えして生きるようにされるのです。私たちは、信仰によって自分自身を守っているということです。自分の行いや情熱、思いの強さによって自分を守れるわけではありません。そうではなくて、「確かに主イエスがわたしのために十字架に掛かり、そしてよみがえってくださっている。わたしは弱く、悪霊を前にすれば手も足も出ないような者だけれど、しかしわたしの中には本当に強い主人が住んでくださっている」、このことを信じることで私たちは、思い煩いや悪い思いから解き放たれていくようにされるのです。
私たちの信仰生活には、私たちの中の信仰の弱さや理解の不十分さから来る疑いや恐れが常に付きまといます。けれどもそれにも拘らず、主イエスは十字架に掛かって罪を清算してくださった方として、私たちの中にいてくださるのです。私たちは自分の力で、疑いや不安や恐れや悪霊を追い出すことはできませんが、しかし、そういうものが家の中に入り込んでいても、主イエスが私たちの中に主人として居てくださることを確認するときに、私たちは様々な思い煩いや悪霊の誘惑から自由にされます。そして本当に清らかな、新しくされた者として生きていくという生活を始めることができるのです。
十字架の上に、私たちを自由に支配しようとする罪と死の勢力の一切が既に滅ぼされています。そして私たちは今、主イエス・キリストと共に生きる新しい朝を与えられ、生きる者とされていることを教えられ、それを信じる者とされたいと思います。
「主イエスがわたしと今日も共に歩んでくださっている」、この信仰によって自らを守る幸いな者たちとされて歩んでゆきたいのです。お祈りをささげましょう。 |