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2025年5月 |
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5月4日 | 5月11日 | 5月18日 | 5月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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祈りと天の父 | 2025年5月第2主日礼拝 5月11日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第11章5〜13節 |
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<5節>また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。<6節>旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』<7節>すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』<8節>しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。<9節>そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。<10節>だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。<11節>あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。<12節>また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。<13節>このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 |
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ただ今、ルカによる福音書11章5節から13節までをご一緒にお聞きしました。 先週、「主の祈り」の文言と共に、主イエス御自身の祈りの生活について、ルカによる福音書を拾い読みしながら確かめました。そこで確かめたことは、主イエスの祈りは神の御心に従うことへ向かっているということでした。主イエスは生涯の終わりに近いゲツセマネの園で祈られた時に、「この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られ、そして最後の祈りは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りでした。主イエスは最期まで信仰を持って生きられ、信仰をもって地上の御生涯を閉じられました。その主が、弟子たちのことも祈りの内に憶えて、信仰が無くならないように、神に執りなしを祈っていてくださいます。私たちの祈りを主イエスが仲立ちしてくださるというのは、主イエスが私たちを憶えて祈ってくださっているということでもあるのです。時に神の事柄が自分から遠く、よそよそしく感じられるという辛い思いを経験する時にも、主イエスはそんな私たち一人ひとりを憶えて、かすかな信仰が無くならないように祈ってくださいます。そして私たちから信仰が無くならないように、神は、助け手となる聖霊を送ってくださるのです。 求めるということについては、9節10節で、「求めなさい」と教えられています。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。特に10節の言葉に注目したのです。ここには「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われています。「だれにでも」というのですから、私たちは祈り求めて良いのです。自分の祈りが本物ではないような気がするなどと言って、臆する必要はありません。今は、よそよそしいと感じられていても、「どうか神様、心からあなたに祈りをささげられるようにさせてください」と私たちが求めていると、神が助け手である聖霊を送ってくださいます。私たちは自分の力で神のことが分かるようになるのではなくて、神の力が働いて、神のことが分かるように変えられていくのです。神が何を喜ばれるのか、何を望んでおられるのか、また、どんなに神が私たちのことを深く愛し、命を支えてくださるかということが分かるようにされてゆきます。求める者には、「だれにでも」そのようにされると主イエスがおっしゃるのですから、そう信じて良いのではないでしょうか。 主イエスは、諦めないで祈り続けて良いことを教えるために、この時弟子たちに、一つのたとえ話をなさいました。ある夜更けに、急に友人が訪ねてきたというたとえ話です。当時の旅行は、乗り物がなく徒歩で行くのが普通でしたから、日中の暑い日差しを避けて夕方涼しくなってから、夜の時間帯に旅することがよくありました。真夜中に友人が訪ねてきたと聞かされますと、私たちの生活感覚では何とも非常識なことのように感じますが、こういうことは、主イエスの時代のパレスチナ地方では、よく起こりがちなことでした。ただそうは言っても、訪ねて来られる方の側は、その来客を予想しておらず食べ物の備えが無いということもありました。そういう時には近所の親しい家に行って、バンを貸して欲しいと頼みました。5節6節に「また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」』」とあるのは、そんな事情です。私たちの日常にはあまりこういう経験がありませんので、この人はパンを貸してもらえるのかもらえないのか分からないと思いながら聞くことになるでしょう。ですが主イエスの時代のパレスチナ地方では、先程も申し上げたように、こういう出来事はしばしば起きていたことなのです。勿論、今日のたとえ話では、寝入っている側の家にも急な来客があった場合には、これと逆さまに、今頼まれている方の家の主人が、お隣りにパンを頼みに行くこともありました。そうやって遠方からはるばる旅をしてきた客人に対しては親切に迎えるのが当時の当たり前だったと言われています。このたとえは、その風習が下敷きになって語られているのです。夜中に遠方から客人がやって来ることは、どこの家にも起こり得ることでした。たまたま手元にパンの持ち合わせがなかったため、隣の家に借りに行きます。ところがその隣の家はこの日はかなり早く寝てしまったようで、一間の居間に家族全員が既に寝入っています。重いかんぬきを外して戸を開けようとするならば、居間に寝ている全員が目を覚ましかねません。家の主人は、そういうこの日の事情を隣人に告げて、何とかバンを諦めてもらおうとします。 主イエスは何のために、このたとえ話をなさったのでしょうか。弟子たちが、様々な口実を設けて祈ることのできない者になるためではなく、神に祈ることができるようになるため、このようにおっしゃって、神に祈りの霊を願い求めて良いのだということを教えられたのではないでしょうか。たとえ、それがとてつもなく困難なことに感じられるとしても、諦めずに願い続けるなら、最後にはきっと聖霊が与えられて、神に近しく祈ることができるようにされることを教えられたのです。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」、このことを知らせようとして、主イエスはこのたとえ話をしておられるのです。 私たちの祈りの生活は、果たしてどんなものなのでしょうか。「自分は神のことがあまりよくは分からない、だからどう祈って良いのかも分からない」と今は思っているとしても、それでも懸命に、「祈ることがでますように」と求め続けることが、私たちには許されています。 天の父は、私たちが父に向かって祈ることを待っていてくださいます。「誰でも、求める者に聖霊を与えてくださる」ことを信じて、祈りの生活によって、神の深く大きな愛を知る者へと変えられていきたいと願います。お祈りをささげましょう。 |
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