聖書のみことば
2025年5月
  5月4日 5月11日 5月18日 5月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月4日主日礼拝音声

 祈るときには
2025年5月第1主日礼拝 5月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第11章1〜4節

<1節>イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。<2節>そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。<3節>わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。<4節>わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 ただ今、ルカによる福音書11章1節から4節までを、ご一緒にお聞きしました。1節に「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」とあります。
 主イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださったことが、今日の箇所に語られています。「主の祈り」のことは、この箇所とマタイによる福音書の2か所に出てきますが、マタイ福音書では祈りの言葉だけが記されています。今日の箇所では、祈りの言葉の文言に加えて、この「主の祈り」が何よりも主イエス御自身の祈りの生活と深く関わっていたことが語られています。主イエスがある所で祈っておられ、その祈りが終わった時、弟子の一人が主イエスに願って教えて頂いたのが「主の祈り」なのだと、はっきりと述べられています。
 この福音書を書いたルカは、福音書全体の書き出しのところで、「この福音書はすべての事柄を順序正しく書き記す」と述べていました。その順序正しさというのは、必ずしも時間の経過に伴う時系列的な正しさではありませんでした。そのことは、今、エルサレムに向かって旅をしておられる道中にある主イエスが、時間的には、その旅の最後に立ち寄られたに違いない、エルサレム近郊のベタニアにあったマルタとマリア、ラザロの家を、もう既に、今日の直前の10章の終わりのところで立ち寄っておられることからも分かります。ルカの言う順序正しさが時間的な順序でないとすると、一体彼は何に基づいて順序を考えているのでしょうか。それはキリスト教信仰を説明し、理解するための順序正しさということのようです。今日の記事で言うならば、私たちのささげる「主の祈り」が、普段、私たちはその祈りの言葉を暗記していてまるで合言葉のように祈ってしまうことも多いのですが、本当は主の祈りも、また私たちが銘々の言葉でささげる多くの祈りも、主イエスが弟子たちのことを憶えて祈ってくださっている祈りに執り成されての祈りなのだということになるのではないでしょうか。

 今日の箇所で、「祈りを教えてください」と願い出た一人の弟子は、洗礼者ヨハネがその弟子たちに教えたように、自分たちにも祈りを教えてくださいと願っています。ヨハネの弟子たちは、先生であるヨハネが神に祈りをささげるのに倣って、弟子たちも祈りをささげていたものと思われます。主イエスの弟子も、主イエス御自身の祈りの生活に従うような祈りをささげたいと願って、祈ることを教えてくださいと願い出たに違いありません。
 それならば、主イエス御自身の祈りの生活は、どのようなものだったのでしょうか。私たちは「主の祈り」と聞きますと、つい、その祈りの文言の方に気持ちが向いてしまいがちです。けれども、ルカは祈りの言葉それ自体も大事に記しながら、それ以前に、弟子たちの祈りの生活を支え執り成してくださる、主イエス御自身の祈りの生活があったことを、今日の箇所できちんと書き込んでいます。この箇所だけではありません。ルカによる福音書では、至る所に、祈りの人である主イエスの姿が示されています。
 主イエスの祈りに注目して、その点に注意を払ってこの福音書の記事を辿りますと、主イエスは御自身の地上の御生涯の節目に当たるような大事な場面では、必ずと言って良い程、祈っておられます。ルカはその様子を書き洩らしません。そのところに、いわばルカ的な順序正しさが現されていると言ってよろしいかと思います。
 今、この福音書に出てくる主イエスの祈りのすべてを拾い上げてお話しする時間はありませんが、幾つかの場面を思い起こしてみたいのです。
 まずは、主イエスが洗礼を受けて御自身の務めを自覚し始める場面で、主イエスは祈っておられます。3章21節22節に、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。主イエスにとっての祈りは、その最初の時から父なる神との暖かな愛に満ちた交わりだったことが、ここからは聞こえてきます。祈る主イエスの上に天が開いて「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という、神の祝福の言葉が聞かれます。祈りは決して、私たち人間の側の一方通行の行いではありません。自分の思いを強く一方的に念じることだけが祈りではありません。たとえ私たちの肉の耳には聞こえないとしても、私たちが天の父に向かって祈りをささげる時には、常に神が天の門を開いてその祈りを聞き上げ、そして祈る一人ひとりを慈しんでくださることを、この主イエスの祈りは、まず私たちに示してくださっているのです。
 他にも本当に度々、主イエスは祈っておられます。12弟子をお選びになった時にも、また、弟子たちに向かって「それではあなたがたは、わたしを何者だと言うのか」とお尋ねになって弟子たちが主への信仰を言い表した時にも、主イエスは祈っておられました。ペトロとヨハネ、ヤコブの3人の弟子だけを連れて山に登られた時には、主イエスの祈りのうちにモーセとエリヤという旧約聖書全体を代表するような二人が現れて、主イエスとエルサレムで遂げることになる最期について話し合われた時には、主イエスの様子がすっかり変わって白く輝くお姿になるということもありました。また、72人の弟子たちを伝道の業に遣わされる時には、「収穫は多いが、働き手が少ない、だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、弟子たちも主イエスの父である天の神に祈って良いことを教えておられます。
 そしてそういう主イエスの祈りの生活は、天に上げられる日が近づき、主がエルサレムの十字架をはっきりと見据えて歩み始められると、険しさを増し、そして弟子たちにも祈ることの大切さを教えられるようになります。今日の「主の祈り」の言葉は、丁度、その歩みの入り口に立ったようなタイミングで教えられています。この先、主イエスは弟子たちに向かって、自分自身のことを正しい人間だと考えて自惚れてしまわないようにと、ファリサイ派の人と徴税人の2人が神殿に上って祈りをささげたとき、神にその祈りを認められ義とされたのは徴税人の方だったことを教えられ、また、過越の食卓の席で何度も神に感謝して祈りながら、御自身の体を弟子たちを清める備え物としてささげることを教えてゆかれます。その過越の食事の席で、なお自分の力で主イエスに従ってゆけると思い込んで大言壮語したペトロに向かっては、彼の信仰が無くならないように執り成しの祈りをささげてくださっていることを明かしてくださいました。食事の後に出かけたゲツセマネの園では、血の汗を流す程の激しい祈りをなさり、今から受ける抔をできれば取りのけて頂きたいけれども、しかし自分の思いではなく、「御心のままに行ってください」と祈られました。そして主イエスが地上の生涯の最後になさった祈りは、息を引き取る際の祈りです。ルカによる福音書23章46節に「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」とあります。
 ルカが順序正しく記す中で、主イエスの地上の御生涯は、まさに祈りの生涯として描き出されていると言っても過言ではありません。今申し上げた以外にも、主御自身が祈ったり、弟子たちに気を落とさずに祈りの生活を過ごすように教えている箇所が多くあります。そういう主イエス御自身の祈りの生活の中にあって、今日の「主の祈り」の言葉が弟子たちに教えられているのです。ですから、「主の祈り」の土台は、主イエス御自身が私たちを憶えて祈ってくださっている生活です。主イエスが弟子たちのことを、すでに御自身の祈りの生活の中に受け入れ、受け止めてくださっています。そのように主によって憶えられ、祈りのうちに執り成されている者たちとして、弟子たちにも、また私たちにも「主の祈り」を祈ることが許されているのです。

 主イエスは、祈りを教えられたいと願う弟子たちの口に祈りの言葉を与えてくださいました。2節に「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように」』」とあります。十戒の2枚の石の板において、一枚目には神との間柄におけるあるべき姿、そして二枚目の板には人間生活のあるべき姿が教えられていたように、「主の祈り」も、まずは神との間柄について祈る祈りが教えられています。
 その先頭のところで、まず「父よ」と呼びかけ祈りを始めることが教えられています。「父よ」という呼びかけは、十戒にはない言葉です。祈りをささげる際には、主イエスと父なる神との親しい間柄を私たちにも許してくださり、「父」と呼びかけて良いことを、主イエスは弟子たちに教えてくださいました。私たち自身の平素の祈りを考えますと、祈りをささげる際には、「天の父よ」と呼びかけずに、「天の神さま」とか、単純に「神さま」と呼びかけて祈りを始めることもあります。どんな風に呼びかけても、神に向かって祈ることが悪いわけはありません。神はどんな祈りにも耳を傾けてくださいますが、しかし、私たちの方から神のことを考えたり、探し求めたりして神に辿り着ける訳ではありません。主イエスが私たちに、父なる神のことを知らせてくださるのでなければ、私たちには神のことが分からず終いになってしまいます。従って、どんな呼びかけで祈るとしても、私たちは、主イエスが御自身の父なる方であると紹介してくださった方、主なる神に向かって祈りをささげるのです。

 その神との間柄についての祈りの言葉を2つ、主イエスは私たちに教えてくださいました。「御名が崇められますように」そして「御国が来ますように」という祈りの言葉を下さいました。
 「御名が集められますように」というのは、神の名がまことに聖なるものとされ、高く高く掲げられますようにという祈りです。「神の名」と言っていますが、これば呼び名という意味ではなくて、神御自身のことをこのように言い表しています。神のことを語る時に、草や木や山のような地上に存在する物と並べて「神」と言ってしまうと、神がこの世の中の存在の一つのように感じられてしまい、神に対して失礼なので、神のことを申し上げる時には、「あなたのお名前」とか「御名」という言い方がされます。ですから「御名が崇められますように」という祈りは、私たちが本当に神のことを高く清い方とできますように、という祈りです。
 このように祈るのだと教えられるのですが、これは裏返しの言い方をすれば、私たちが日頃、どんなに神のことを忘れて軽く考えていて、神御自身の名誉と尊厳を傷つけているか、ということでもあります。私たちは平気で普段は「神のことを忘れている。神抜きで過ごしている」とか言ってしまいがちです。また、口でそう言わないとしても、実際の私たちの平素のありようは、まさにそんな風です。私たちは日頃、神抜きで平気であり、しばしば神に背中を向けるようになって、自分自身の利益や興味、関心ばかりを追い求めて生きてしまいがちです。そのような神と離れたようなあり方をしている私たちが、「どうか私たちを救い出してください。そして、神さまのものとして私たちが相応しく神さまをたたえ、崇めて生活できますように」と祈るようにと、主イエスはこの祈りの最初に、私たちに求めておられるのです。
 それに続いて、「御国を来たらせたまえ」という祈りは、私たちが神のことを心から崇めて、神の民、神の国の民の一人となって歩めますようにという祈りです。主イエスがゲツセマネの園で祈られた時、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。まさにあの主イエスの姿が、神の国の民の一人として歩む姿です。私たちはしばしば、自分の必要や自分自身の思いを先立たせてしまい、それが満たされたり与えられますようにと祈りがちなのですが、主イエスはそんな私たちに向かって「御国の民の一人となって生活することができますように」と祈ることを教えておられるのです。

 しかしそれならば、御国の民として生きるよう招かれている私たちには、神のお求めになることを実現してゆく務めばかりが与えられて、私たちの必要や願いは考慮されないのでしょうか。そんなことはありません。神は、私たちに必要なものが何であるかをよく知っていてくださいます。しかも毎日それを与えてくださいます。3節に教えられるのは、そんな祈りです。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。私たちは、自分自身の必要とするものを神に願い求めて良いのです。しかも毎日祈り求めて良いのです。日曜日に礼拝にやって来た時に一週間分の願い事をまとめて祈り、あとは次の日曜まで我慢して待たなければならないというのではありません。日々の生活の中で、毎日必要なものを願い求めて良いことを、主イエスは教えておられます。
 「日毎の糧」とよく言われますが、これは物質的なものに留まりません。私たちは体をもって生きていますから体を養うための物質は必要ですが、体だけが守られたり満たされればそれで満足して喜べるかといえば、そうではありません。人間らしい交わりの中に置かれて心が支えられなくてはなりませんし、また、神の御前に今日を生かされている者として、私たちの霊も守られ支えられる必要があります。それら一切のものを神に祈り求めて良いことを、主イエスは教えておられます。

 4節には、罪からの解放を願い、また誘惑から守られることを願う祈りの言葉が教えられています。「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。日頃の生活の中で、自分自身が罪にまみれ、罪の生活の中にあることは多くのキリスト者が実感していることでしょう。罪にすっかり捕らえられて、いつの間にか神から離れ自分の思いを先立たせ、罪の虜になっている、そういう自分自身の日々の生活を思うと、罪の赦しや救われて生きる人生などあり得るのだろうかとさえ思わされます。
 けれども主イエスは、そういう人間の罪を正面から受け止め、それを背負って十字架の上で滅ぼすために戦ってくださいました。今、この福音書では、そのために主イエスがエルサレムの十字架を見据えて一歩一歩注意深く歩みを進めておられる、まさにその旅の途中で、「主の祈り」が教えられています。
 私たちは、自分の信仰が弱いとか薄いとか思いますが、しかし私たちは、信仰が強ければ自分で自分の罪の問題を解決することができるのかと言えば、それはできません。まさに私たちのために主イエスが十字架への道を進んでゆかれ、御業を果たして、私たちすべての罪を清算してくださるのです。それならば、「わたしたちの罪を赦してください」という祈りは、私たちが十字架への道を辿ってくださった主イエスに従って、「絶えずその後を辿る者とさせてください」と祈り願うということではないでしょうか。
 私たちが十字架の前に出て、私たちが自分で罪と戦って勝利を収めるのではありません。私たちのために十字架を負って進まれ、激しい苦しみと痛みの末に死を遂げてくださる主イエスの後に従い、十字架の上を常に見上げて、信仰をもって生活できますようにという祈りが「罪の赦しに与る者としてください」という祈りなのです。
 そういう神のなさりよう、主によって果たされた救いの御業から私たちを逸らし、離れさせようとする誘惑は、常に私たちを狙ってやってきます。主イエスに従おうとする人に、誘惑はやって来ます。主イエスから私たちを引き離し、孤独にさせて罪に埋もれた元々の姿に引き戻そうとする誘惑の力は、絶えずくり返して私たちに迫ります。ですから最後に、「主の祈り」の中では、「誘惑に遭うことがないように守ってください」と祈るのです。私たちは誘惑を受けると、本当にもろく崩れてしまうからです。「罪から救い出してくださる主の御業の下に絶えず置いてくださり、配慮に満ちた保護の下を歩ませてください」と祈るのです。
 こういう「主の祈り」と、そして私たちの祈りの生活全体は、主イエスの祈りに執り成され、主イエス御自身の祈りの生活の土台の上に置かれています。

 そこで最後に、私たちの信仰生活の土台となっている主イエス御自身の祈りの生活をもう一度思い返したいのです。主イエスが洗礼を受けられ、救い主としての記念すべき第一歩を記された時、そこでささげられた祈りに際して天が開かれ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という天からの祝福が宣言されていました。そして主イエスはまさに、神に愛されていることを知り、神に信頼して地上の生活を終わりまで歩んで行かれ、十字架にかかられました。神に信頼して十字架に上った最後の祈りは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りでした。主イエスの祈りは最初から語りかけられていた神の愛を信じ、最後まで信頼して神の御手に御自身を委ねるというものでした。
 そうであれば、「主の祈り」も、そのような主イエス御自身の祈りの生活のその上に成り立つものとして弟子たちに与えられ、私たちにも知らされているのではないでしょうか。そして「主の祈り」を祈る私たちも、神の祝福を信じ、「どんなときにも、神さまがわたしを愛してくださっている」と信頼して歩んでいく、そういう生活へと導かれていくのではないでしょうか。
 「主の祈り」の文言については、厳密なことを言うと、まだまだ分からないと思う点が多くあるとしても、この祈りは、神が私たちの上に宣言して置いてくださっている愛を教え、そして、その愛に信頼して、私たちが自分自身の人生を終わりまで歩んでゆくための祈りとして与えられていることを憶えたいのです。

 「主の祈り」を祈り、私たち自身が祈りをささげる度に、神の愛を憶え、信じる者として育てられてゆきたいと願うのです。お祈りをささげましょう。
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