ただ今、ルカによる福音書11章14節から23節までをご一緒にお聞きしました。
14節に「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とあります。「悪霊」などという言葉を聞かされますと、いかにも迷信的な古臭い教えを聞かされているようで、抵抗を感じる方がいらっしゃるかも知れません。聖書の「悪霊」は得体の知れない不可解な力のことを言っています。今日の箇所には「悪霊」という言葉が8回も出てくるのですが、ギリシア語の原文で「ダイモニオン」という固有名詞をこのように訳しています。当時のギリシア人たちは、人間一人ひとりの力や思いを越えて、その人の上に働き、その人を振り回すような不可解な力や働きのことをこう呼んでいました。注意して聞くようにしたいのですが、この呼び名には「悪」という言葉は一切使われていません。ダイモニオンを悪霊という日本語に翻訳した結果、これは悪いものなのだという、その正体の見当が最初からついているような印象を受けるのですが、そうではなくてこれは、不気味にも人間を支配してしまう力と働きのことを言っているのです。
ここには、そのような人間を支配し虜にしてしまう得体の知れない不気味な力と主イエスが戦っておられることが述べられています。いかにも古臭い、現代ではもはやあり得ないような言い方に感じるかも知れません。しかしここに述べられていることを注意深く聞いて考えてみますと、ここに起きている事態というのは、今日でもしばしば見られるような出来事であると言えるかもしれません。主イエスが戦いを挑んでいた悪霊、それは「口を利けなくする悪霊」だったと述べられています。互いに口を利けないような間柄にしてしまい、コミュニケーションを阻害するような得体の知れない力や働きということであれば、今日の私たちも、至るところでこのような事態を目撃することがあるのではないでしょうか。単純にウマが合わないという身近なところから始まって、果ては、戦争が起こって無数の人間が血を流して傷ついたり命を失ったりしているところで是非とも対話による解決が求められている筈なのに、何故か交渉が始まらない、対話が必要な場面で当事者の一方か、あるいは双方が話し合いの席に着こうとしないという状況を、私たちは今日、目にするのではないでしょうか。そういう状況を、仮に聖書の時代のギリシア人が知ったならば、「ダイモニオンが力を振るっている」と言うだろうと思います。人間を捕らえ、虜にして口を利けなくする悪霊は、今日も私たちの世界の至るところで暗躍し続けていることを、私たちは知らなくてはなりません。
不自由なことや、互いに上手く行かないような事柄について、私たちは、互いに言葉を交わし、思いや事情を伝え合うことで問題の解決へと導かれていくことができます。お互いが正直に本音を話し合い、何が問題で、それをどのようにしたら乗り越えて行けるかを考えて誠実に努力を続けるなら、不自由さや上手く行かない事柄に出口が与えられるかも知れないのです。そのために言葉は使われるべきであって、決して相手を騙したり欺いたりするために使われるべきではありません。ところが、なかなかそうならない現実を、私たちはしばしば経験することがあるのではないでしょうか。口先だけでものを言ったり、あるいは言った時には正しいと思っていても、人間の思いの方が心変わりしてしまって、語られた言葉を信じて真に受けた相手を傷つけるようなことが平気で行われたりすることはないでしょうか。大変雄弁なように見えながら、しかしその実、空虚なコミュニケーションに終始してしまうというような仕方でも、この「口を利けなくするダイモニオン」が動き回っている様子が観察される場合もあります。そのような空虚なコミュニケーションは、それを真に受けた人を激しく疲れさせ、悲しませ、絶望させて孤独にすらしてしまいかねません。主イエスはそのようなあり方とも戦われ、粘り強く、誠実に真実な交わりが生まれるように働いてくださるのです。
コミュニケーションが上手く行かず辛く孤独な状況に陥っている人と、主イエスが辛抱強く関わってくださった結果、その人を支配していた複雑な状況が解きほぐされ、互いに絡んでいた糸のもつれがほどけるように、その人の口のもつれもほどけて、今まで固く口を結んできた人が正直に、また率直にものを言うことができるように変えられました。そのことを知った群衆は大変に驚きました。そして、そこに神の力の導きを感じて感謝し、賛美することもできた筈なのですが、それとは違った行動を取る人たちのいたことが15節16節に語られています。「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」とあります。周りの人々の目に映ったのは、口の利けなかった筈の人がものを言い始めたという結果だけです。それまでの過程でどのような取り組みがなされたかということについては、人々は知らずにいます。そしてそのために色々なことを言う人がいました。
まずは、主イエスが魔術を行うように、より力ある悪霊の力を用いて、口の利けなかった人の癒しを行ったと考える人たちがいました。即ち、得体の知れない力に押さえつけられて口の利けなかった人の口が開かれたのは、更に恐ろしい、もっと強い不気味な力に脅されてそうなったのだと考えました。こういう考え方は、別の言い方をするならこうなります。即ち、この気の毒な人は、今までは闇の力に支配されて口が利けなかったけれども、今は更に大きな悪の力の支配を受けるようにされて、無理矢理喋らされるようになっている。仮にそう考えるとするなら、この人の外からの目に見える状態は、今までの口の利けなかった状態から口が利ける状態へと変化しているとしても、それは外から見える上辺だけのものであって、この人が依然として悪霊の支配、即ち、闇の世界に由来する罪と死の勢力の下に捕らわれている現実は何も変わっていないということになります。上辺の変化に拘らず、この人は依然として悪霊の支配下に置かれたままの気の毒な状態のまま、事情はむしろ一層深刻になっているのだと、物事を深刻に受け取めたがる人たちは考えました。
その一方で、物事をあまりに楽観的に受け取る人たちもいました。即ち、口の利けなかった人がものを言い始めたという結果だけを見て、このようなことは、何の努力をせずとも上手くやれば易々とできることではないかと考えました。そして、もし主イエスが本当に力ある方であるのならば、更に自分たちの驚くような他のしるしとなる出来事を引き起こしてほしいと、天からのしるしを求めたのです。確かに、信仰による奇跡の出来事がこのように何でもない当たり前のことのように見なされてしまうということは、大いにあり得ることです。キリスト者が神に祈りをささげ、神に信頼をもって信仰生活を生きる時には、その生活の中に日毎に神が慰めをくださり歩みを支えてくださることを経験します。多くのキリスト者たちはそういう経験が確かに与えられているので、家族や近しい友人たちが悩みを抱え苦しんで人生を生きていることに気がつくと、今自分に与えられている信仰の慰めや希望や励ましを是非とも分けてあげたいという気持ちになるのです。そして実際に、神や主イエスのことを言葉で伝えたり、教会に誘おうとしたりするのですが、それが上手くいくことは稀です。多くの場合は失敗します。上手くゆきません。それはどうしてでしょうか。信仰をまだ持っていない多くの人たちは、神の前に自分が罪人の人生を生きていることを知りません。そのために、人生への眼差しも楽観的になることが多いからです。
キリスト者が他の人々と同じように悩みや嘆きに出遭い、自分の無力さを思い知らされ、神に助けと救いを祈り求め、そして実際に神に支えられて生かされる生活、そこに信仰生活の喜びがあるのですが、そういう生活も信仰を持たない人の目から見たら、その人はたまたま幸運に持ち運ばれているので、自分ほどの深い悩みや嘆きの経験を持っていないだけだと見られてしまいがちなのです。「あなたがキリスト者であっても、わたしのように深い苦しみや辛さを経験したなら、たちまち悪の力に捕らえられて暗澹たる気持ちで生きていかざるを得なくなるだろう。あなたが希望とか慰めとか言っていられるのは、本当には辛い出来事に出遭っていないからだ」と考えるのです。そういうところでは、キリスト者が伝えようとする救いが本当のことであるのならば、「もっと大きなしるしを見せて欲しい」ということが求められるようになるのです。
このように考えますと、実は、人生を楽観的に考えて悪いことや辛いこともそれなりにやり過ごしていける、それが普通の人生だと思っている人も、最終的には人生に悲観的にならざるを得なくなるということが分かってくるのではないでしょうか。楽観的に人生を考える人たちは、人生は大抵は上手くいくものだと思っています。ただ、自分の人生の中には、例外的にままならないことや沢山の苦しみ、嘆きが起こると考えます。
人生の事柄を悲観的に受け取りたがる人たちは、たとえ一時上辺の見かけが好転したように見えても、それは一時だけのもので、実際は悪の勢力の支配の下に置かれ続けている、「人生の全体の支配者は悪霊に違いない」と考えます。一方、人生の事柄を楽観的に受け取りたがる人たちも、「人生は普通であれば上手くいくのが当然だけれども、自分の人生だけは違う。自分だけは他の人たちの知らない特別な苦しみと嘆きを宿して生きている。不可解な力が自分の上には重くのしかかっている」と考えるのです。それはどちらにせよ、不可解で不気味な闇の力、即ち悪霊が自分を捉えていると思っている点は変わりません。
主イエスは、人の心に兆すそういう思いを見抜かれます。そして、「ここで起こっていることは、あなたがたが思うような悪霊の支配が依然として続く中で、ただ上辺の見かけだけが変わったという出来事ではない。そうではなくて、神の指が働いて、この人は今、神さまの保護の下に置かれ守られているのだ」と、そうおっしゃいます。20節に「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。
「神の指で悪霊を追い出している」という、少し珍しい言い方がされています。神の力や神の御腕が働いて闇の勢力が追い払われ人間が救われるという言い方は聖書の中に多く出てきますが、「神の指」という言い方は多くはありません。旧約聖書の詩編の中では、夜空に輝く月や星の美しさや一つひとつの星の位置が精密に配置されている様子を言い表す際に、「神の指がその一つひとつを配置なさった」という言い方がされている箇所があります。しかし、「悪霊を追い出す」ということにより近いと感じる出来事は、出エジプトの時に、モーセがエジプトの魔術師たちと力比べをするように、ファラオの前で次々と災いを起こした場面に「神の指」という言い方が出てきます。即ち、モーセがファラオの前で最初にナイル川を血に変えるという血の災い、次にカエルの災いを行い、3つ目にブヨの災いを行った時に、最初と二番目の災いはエジプトの魔術師たちもそれを真似てやって見せたのですが、ブヨを発生させることはできず、彼らがファラオに「これは神の指の働きでございます」と語ったことが知られています。
神の指が働く時には、その背後に神御自身が立っておられます。悪霊を追い出し、人間を闇の力の支配から解き放つ場合には、神御自身の意志がそこに働いているのです。神の意志、神の御心は、人間たちがこの世の生活の中で様々な力に翻弄され孤独になり、闇の力に押しひしがれてしまうのではなくて、「神の慈しみに満ちた保護の下に置かれ、与えられている命の日々を感謝し喜んで生きるようになること」です。神の御言に慰められ勇気づけられ、力を与えられて生きるようになることを、神は私たち一人ひとりの上にも望んでおられます。暴力や憎しみや恐怖の支配の下に生きるのではなく、また、そのような利不尽で不可解な力に捕らえられてしまった結果、目の前の快楽だけを求めてしまい無責任で無軌道に生きてしまうことからも救い出されて、神の保護と導きの下、塩で味つけられた生活を生きるようになることを、神は喜んでくださるのです。それは別の言い方をすれば、私たちが「神の御国の民の一人となって生きる」ことなのです。
主イエスは、そのような神の御意志、御心に従い、仕える、最初の方として、今、エルサレムの十字架を目ざして道を進んでおられます。そしてその道中、悪霊に支配され口が利けなくされ、孤独の中に捕われて生きている人を憐れまれ、その人が率直に自分自身のことを言い表して生活することができるようにと、関わりを持ってくださったのです。
今日の箇所で、主イエスが追い出しておられたのは口を利けなくする悪霊でした。即ちコミュニケーションを阻害して人を孤独にしようとする力に対して主イエスは戦いを挑んでくださっていたのですが、コミュニケーションの阻害というのは、実は人間同志の間柄でだけ起こるのではありません。更に深刻であり、また人間同士のコミュニケーションが断絶してしまう原因ともなる最も根本的なコミュニケーションの阻害があります。それは神との交わりが切れている断絶です。
しかしこの断絶は、私たちが自分の能力や努力によって修復できるようなものではありません。私たちはどうしても、自分自身の中に神に対して背を向け、神抜きで生きる方向に向かってしまう、自分本位な思いというものを抜き難く宿しているからです。口を利けなくする悪霊は、まず私たち人間を神との交わりから切り離して一人にさせて、その上で人間同士のコミュニケーションも阻害するような働き方をするものなのです。神との交わりがはっきりと与えられている時には、悪霊は手出しができません。「神さまが憶えていてくださっている」ことを知る人は、たとえ嫌な目に遭ったとしても、それに動じないで落ち着いて対処することができるのではないでしょうか。
主イエスが今、エルサレムの十字架を目指して進んでおられるのは、まさに、人間を神から切り離してしまう罪をすべて御自身の側に引き受けて十字架に上り、その罰を受けられ、そして御自身が罰せらせられて死ぬことで、その罪がすべて処罰され清算されることのためです。そして、その道中で弟子たちに祈りを教え、私たちがささげる祈りはすべて主イエスが仲立ちとなってくださり、確かに神の前に届けられ聞き上げられることを教えてくださいました。
ところが今、まさに主イエスが祈ることを教え、神に向かって祈って良いことを知らされたた人々の上に、この世の不可解な勢力が働きかけ、その口から言葉を奪い、交わりを成り立たせないようにします。世の悪霊たちは、私たち人間のために主イエスが十字架に掛かって罪の清算をしてくださり、私たちが神との交わりを与えられ、祈りをささげることができるようにされているという話を主イエスが聞かせてくださり、私たち人間がその言葉に耳を傾けるというところに留まるのなら、何もしないのです。ところが、私たちが聞かされたことを信じて受け容れ、神に祈る生活を始めるや否や、その口を封じようと躍起になって、あの手この手で襲いかかってきます。「口を利けなくする霊」というのは、たまたまそのような類の霊がたくさんの悪霊の中にいるということではなくて、この霊がまさに、私たちに襲いかかってくる最も身近な悪霊であるということを表しています。
主イエスはそのような悪霊と戦ってくださり、神に祈ることができずにいる人の心にあるわだかまりやためらいを一つ一つ解きほぐして、神に祈ることができるようにしてくださり、また、神に結ばれ支えられている人として周りの人たちとの交わりにも、率直に、また前向きになることができるように変えてくださいます。
自分の力によって人生を生きようとしたり、自分の力で神につながろうとすると、私たちは絶えず不安になります。自分よりも強い誘惑や力に襲われて、すべてを失うのではないかという不安から、私たちは自由になることができません。私たちは決して、絶えず武装して自分の家を守っているような強い人にはなれないのです。私たち自身は弱い者にすぎないのですけれども、その私たちの中にやって来て、「一緒に住んであげよう。わたしに従ってきなさい」と親しく言葉をかけて、私たちと交わりを持とうとしてくださる方がおられます。この方を私たちの中にお迎えして、主となっていただき、この方に守っていただけるなら、私たちは本当に安心できるのです。
私たち自身の中には神に背を向けて交わりを自ら断ち切ってしまうような罪の思いがあり、また、私たちの心を惹きつけて神から逸らそうと外からやって来る誘惑もあります。そしてこのような誘惑に対して、私たちは無力でしかないことに間違いありません。自分の努力で正しくあろうとしても、そうはなれません。私たち自身の中には、そのように絶えず外からも内からも、無数のダイモニオンが迫って来るのです。
けれどもそういう時に大事なことは、わたしという家の主人はもはや自分ではなく、「あなたと共に生きよう」とおっしゃってくださる主イエスであることを知ることではないでしょうか。私たちは愚かな者でも、本当に力に満ちた主イエスが、私たち自身の主として私たちの中に住んでいてくださいます。そして、私たちの中に働く「口を利けなくする霊」と戦ってくださり、私たちを神に対しても隣人に対しても率直に語ることのできる人間、交わりの中に置かれ交わりに支えられて生きる者としてくださいます。
そのような、主の交わりの下を生きる生活を与えられていることを憶えたいと思います。そして、この生活を歩んでいけますように、神に祈り願いたいのです。お祈りをささげましょう。 |