聖書のみことば
2025年1月
  1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月26日主日礼拝音声

 十字架を負いて
2025年1月第4主日礼拝 1月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第9章28〜36節

<23節>それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<24節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。<25節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。<26節>わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。<27節>確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 ただ今、ルカによる福音書9章23節から27節までをご一緒にお聞きしました。23節に「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。大変印象的な言葉です。この主イエスの言葉は、一度耳にしたら忘れられなくなるのではないでしょうか。
 この時、主イエスはこの言葉を「皆に」言われたと記されています。この言葉は、12弟子に限らず、主イエスの言葉に耳を傾ける者たち皆に向かって語られています。ということは、二千年の時間を超えて、今日聖書を開いて御言を聞こうとしている私たちにも、この言葉が語りかけられているということになるのではないでしょうか。主イエスは、御自身について来ようと思う者たち、主イエスに従って生活することを望む人たちすべてに、その歩みは、「あなた自身を捨て、日毎にあなた自身の十字架を背負って、主イエスに従う生活である」ということを教えられるのです。キリスト者の歩みには、常にその人の負うべき十字架が伴うものだと、主イエスはおっしゃるのです。

 とても印象的な教えではあるのですが、しかしもしかすると、私たちはこの言葉をしばしば誤解して受け止めているようなことがあるかも知れません。「日々、自分の十字架を背って」とはどういうことなのでしょうか。このように聞きますと、これを厳しい修業を積みながら生きる仏教の僧侶のような生活を送ることだと思うかも知れません。自分が背負うべき十字架というのは、難行苦行の連続に耐えながら進む険しい道のりのことだと考えるかも知れません。仮に十字架を背負って生活するという事柄を、そんな風に苦しいことだと考えるならば、その時には、その前に主イエスが言っておられる「自分を捨てる」ということも、さまざまな欲求や希望をすべて断念して、まるで世捨て人にでもなったような気持ちになって生活することだと考えるかも知れません。
 けれども、今申し上げたようなことは、おそらくかなり多くの誤解に満ちた主イエスの言葉の受け止めであるように思います。何故なら、難行苦行の人生を歩むことを思う時には、私たちは自分自身の苦しさや大変さを思い浮かべているのであって、そこでは「主イエスが共に歩んでくださる」ということが、いつの間にか忘れられてしまっているからです。
 主イエスは今日のところで、自分を捨てることや十字架を背負うことに並んで、第3番目に「わたしに従いなさい」とおっしゃいます。この最後の招きの言葉こそ、忘れてはならないことです。私たちは、是非、最後に主イエスがおっしゃっておられる「わたしに従いなさい」という招きの言葉を記憶したいのです。私たちが難行苦行して主イエスの前に出るのではありません。私たちが歩んで行く先には、主イエスがおられるのです。私たちはどんな時にも、主イエスの背中を見ながら、後からついて行くようになるのです。「キリストに従う」ということは、キリストの後を歩くということです。誰も、キリスト抜きで十字架を背負うのではないのです。
 ここで主イエスが十字架という言葉を出した理由は、直前のところで、主イエスが御自身の受ける苦難について弟子たちに教えておられるからです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」、主イエスは御自身が排斥されて殺され、三日目に復活なさることを弟子たちに教えられました。ここでは「十字架」という言葉こそ出していませんが、おっしゃっているのは明らかに十字架の苦しみ、苦難です。主イエスは、当時の世の中でメシアと呼ばれている他のどんなメシアたちとも違って、まさに本当のただお独りだけの人、即ち「キリスト」としての働きを弟子たちに知らせるために、このことをおっしゃいました。当時の世の中の他のメシア、つまり油を注がれた者と呼ばれる人たちは、ある者は王になったり、大祭司になったり預言者になったりして、脚光を浴び晴れがましい扱いを受けました。けれども主イエスは言われました。「わたしがこれから果たすことになるメシアの務め、メシアの働きは、そういう他のどんなメシアとも違って、世から完全に捨てられ罪ある者と宣告され、苦しめられ排斥されて殺され、そして3日目に復活するという務めなのだ」と教えられました。そして、そういうメシアである主イエスに従う時には、「あなたたちも、自分自身の十字架を負って、わたしの後をついて来るようになる」と、今日のところで教えておられるのです。「先生であるわたしが十字架に向かって歩むのだから、弟子であるあなたがたも、わたしに従い、ついて来るのであれば、十字架の死に向かって生きることになる」と教えておられます。

 「自分の十字架を背負って主イエスに従う」と聞かされますと、自分が何か忌まわしいことを聞かされているように感じるかも知れません。十字架を背負わなければならないのなら、主イエスに従って生きることに躊躇を覚えるかも知れません。勿論、主イエスについて行こうとするのを止めにして、十字架を負わずに一生を生きるという可能性だって、私たちにはあるかも知れません。主イエスを抜きにして、神のことも関係のないことにして、自分の一生を自分の思いに任せて生きてしまうことも私たちにはできるかも知れないのです。ただその場合には、私たちは十字架と何の関わりもなく生き、死んでゆくことになります。主イエスの十字架による赦しに与って生きるという感謝も喜びもなく、また、神の保護の下に今日一日を与えられて生きるという平安も生活の張りもない、ただの死ぬまでの執行猶予の期間を過ごすだけになってしまいます。
 実は、自分の十字架を背負って生きることは忌わしいことではなくて、むしろ、願わしいことです。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスに呼びかけられ、生きることができるのは、大変光栄なことではないでしょうか。私たちは、十字架を背負わなくても最後には死にます。けれども私たちの死すべき命を、主イエスは「あなたの一生は、あなたの十字架を背負って、わたしと共に生きる道、わたしに従う道なのだ」と言ってくださるのです。

 その道がどんなに願わしい道であるかということを、主イエスは「命を失う」とか「救う」という言い方で教えられました。24節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とあります。少し不思議な言葉です。どうして命を救いたいと思う人がそれを失い、主イエスのために命を失う人が自分の命を救うことになるのでしょうか。
 初めに言われている、「命を救いたいと思う」あり方というのは、私たちのごく普通の物事の考え方だろうと思います。自分の命を救いたいし守りたい、そして自分の人生を豊かに満ち足らせたいと、普通に私たちは思います。しかし、思ったとおりに何でも実現できる訳ではありません。命を救いたいと思いながら思うようにゆかず、それを失うのは、私たちの日々経験するこの世の現実そのままでしょう。しかしそれならば、「命を救う」というのは、どういうことでしょうか。この言葉は、元々は主イエスに従う人たちがやがて迫害を受け、命を失うことを予告している言葉であったと言われています。けれども、厳しい迫害を受けても主から離れずに歩もうとする人は、どんな困難な状態に陥っても、主イエスと神から引き離されることなく、地上の人生の時間を終わりまで生きることができるし、主に伴われ生きる人は、地上の生活を終えた先にも復活の命の希望が与えられるのです。
 最初にはそう考えられていたようですが、今日は教会の歴史の最初の頃の人たちが直面したような激しい迫害や弾圧といった辛い経験を予想しなくても良いような時代です。そういう穏やかな時代を与えられて生きることができること自体には感謝するべきでしょうが、しかしだからと言って、私たちが死なない者となっている訳ではありません。迫害や戦いがたとえ無いとしても、私たちは最後には、一人で自分の人生の終わりに向かわなくてはなりません。しかしそのような時にも、十字架の主が共にいて、私たちの身代わりとなって十字架に掛かっていてくださり、私たちの罪を執りなしてくださっています。それによって、私たちは神の愛と慈しみの中に置かれるようにされています。私たちが自分の不束な歩みにもかかわらず、主による赦しのもとに置かれ、神が私たちを顧みて、どんな時にも生かしてくださる命の希望の中に置いてくださるのです。
 主イエスはかつて、ベタニヤのラザロが亡くなった時に、姉のマルタに向かって「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃって、命の希望があることを教えてくださいました。その同じ主が、今日のところでは、主のために命を失う人はそれを救うことになるのだとおっしゃって、たとえ私たちが死の道を歩む時にも、なおそこに神の命の道が備えられていることを信じるようにと、信仰を励ましてくださるのです。

 今日の記事の中心にある事柄は、御自身が十字架の上で私たちのために執り成しの御業をなさる救い主、キリストである主イエスが私たちと共にいてくださり、主に従って生きる生活は十字架を負って生きることなのだと教えてくださっている点にあると思うのですが、十字架を負って生きる生活というのは、実際のところは、私たちがしばしば思うような英雄的な生き方でも悲壮な生き方でもないかもしれません。自分を捨て、自分の十字架を背負い、主に従う生活というのは、実際のところはどのように生きることなのでしょうか。
 十字架を負わねばならないなどと言われると、私たちは沢山の苦労と重荷を背負わなければならないように思い込むかも知れません。自分の十字架というのは、私たちがそれぞれに背負っている生活の苦労や嘆き、悲しみのことだと思う方がいらっしゃるでしょうが、実はそれだけではありません。確かに私たちの人生には痛みや苦しみ、悲しみがあります。けれどもそうやって痛みや嘆きや悲しみを抱えて苦労している私たち自身が、神によって常に憶えられ、主イエスに執り成され、神の憐れみと慈しみを受けて生きて行くという現実もあるのです。十字架を背負わなければ、私たちにはそのことが分かりません。
 私たちが生活の苦労を十字架の光の下で眺める時には、実はその十字架に、主イエスが身代わりとして上っておられるのです。私たちは空虚な十字架を持っているのではありません。十字架を負うことは、生活の嘆き悲しみを私たちが一手に自分で引き受けるということではありません。そうではなくて、本当に頼りなく力のない私たちのために主イエスが十字架に掛かってくださって、主イエスが私たちに代わって苦しまれ死んでくださっていることによって、私たちは神の赦しのもとに置かれ、神から憐れみと慈しみを受けて生きる生活が与えられている、そのことを日々新たに示され、確認させられて生きてゆくことなのです。自分の十字架を背負って生きる時にこそ、私たちは、主イエスによる赦しの光の中に立たされ、ここからもう一度新しく生きて良いことを知るようにされます。
 そして実は、そのように主イエスによる罪の赦しを知らされて新しい者として生活するところでこそ、私たちが自分を捨てて生きるということも、本当に起こるのです。「あなたは自分を捨てなければならない。自分の欲望や欲求を断念しなければいけない」と言われる時に、それを私たちが自分の忍耐や努力によって主イエスに従って生きるのだと思う時には、私たちは決して自分の思いの力ですべてを断念することなどはできません。自分を捨てていると言いながら、それはすべてを捨てているのではなくて、常に中途半端な断念にしかならないでしょう。そして、そのことをごまかすために、私たちの生活態度が投げやりになったり、無責任になってしまうことだってあるかも知れません。自分は、本当は願っていない断念を無理やり自分自身に強いているのだと思う、自分自身を哀れむ思いや卑屈さが、つい顔を覗かせてしまうのです。しかし、それは本当には自分を捨てている姿ではありません。ポーズの上ではいかにも捨てているようでありながら、実際には全力をもって辛く哀れな自分自身であることを表現しているにすぎません。

 主イエスがおっしゃる「自分を捨てる」ということは、自分の努力で成し遂げるようなものではなくて、主イエスの十字架による赦しを確認させられ、そしてそれに圧倒されるところで起こることなのです。「こんなにも至らない、取るに足らない半分獣でしかないように思えるわたしのためにも主イエスが十字架に掛かってくださり、わたしの罪を清算して、神の御前でもう一度ここから歩んで行けるスタートラインを与えてくださった」ことを確認するならば、「さてわたしは、これからの人生をどう生きようか」という課題が生まれることになるはずです。そう考える時には、私たちは自分の思いを先立たせ、自分の行いを誇って生きてゆくことから解放されるようになります。「今わたしが新しいスタートを切れているのは、主イエス・キリストがいてくださるからだ。主イエスは『わたしに従って来なさい。わたしはあなたのために十字架にかかっているのだ』と言ってくださっている」、このことを深く受け止めるならば、私たちは主イエスに感謝して、主に従い、神に喜ばれる生き方をしてみようと志す新たな思いが生まれるでしょう。
 それでも、愚かであるが故に私たちは正しく神に喜ばれるような生き方を、日々必ずできるというふうではないかも知れません。依然として自分の中に残っている古い自分中心の思いや考え方がどこかで頭をもたげて、私たちを神に喜ばれる歩みから外れさせ、いつの間にか自分の思いで生きてしまうことがあるかも知れません。しかしそれでも私たちは、そういう弱さを持っているとしても、主イエスの十字架によって罪を赦され、罪の支配から自由にされた者となって、新しいスタートラインに日々立たされているのです。
 失敗や過ちは沢山犯すでしょうけれども、それでも私たちの本当の主人はもはや私たち自身ではなくて、私たちのために十字架に掛かり、そして復活して、今も日々共に歩んでくださる主であることを認める時に、私たちは何とかして主の僕にふさわしい歩みをしてみようとして生きるようになるでしょう。そしてその時にこそ、私たちは、いつの間にか自分自身を捨てているという姿になるのです。自分の努力で自分を捨てる、いろいろなことを断念するのではありません。こんなにも愚かで従えないわたしを、神は、それでも十字架の赦しの下に置いてくださり、ここからもう一度新しく歩むようにとおっしゃってくださるのです。

 私たちの地上の生活においては、主イエスによって罪を赦され救われた者に相応しい生き方をしようとする志は、常に頭をもたげがちな私たち自身の中にある古い自分の思いに邪魔されて、戦いが起こります。ある説教者は、世にあるキリスト者の姿を評して、「人間の中に一本の線が走っていて、その線を挟んで神に従おうとする志と、自分の気ままに生きようとする肉の思いがいつも陣取り合戦をしているようなものだ」と言いました。うまい言い方をするものだなと思いますが、地上の信仰生活には、そんな風に、神の招きと導きに自分を委ねることができたり、そのことに失敗したりする経験が繰り返されるようなところがあります。しかしまさに、それが私たちに救いが与えられている姿なのです。

 今日の箇所の中で、主イエスは、「あなたの十字架は日毎に負うものだ。日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言っておられます。そして今日の箇所の最後で、主イエスは、27節「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とおっしゃるのです。「確かに言っておく」とは、主イエスが大事なことを言われる時に使われる口癖です。主イエス・キリストの十字架によって私たちは神の保護の下に置かれ、そのことを信じて生きるようにされています。神の救いが主イエスによって今、この地上に引き起こされ行われ、進められていることを宣べ伝える教会の中に、私たちは身を置いて、私たちもまた毎週そのことに耳を傾けながら、主によって赦された新しい者としての生活を生きようと志しています。実はそういう仕方で、この地上には「神の国」がすでに始まっているのです。「神の国を見るまでは決して死なない者がいる」と言われますと、ずっと先まで生きなければならないと思いますが、そうではないのです。ここにいる私たち自身が、もうすでに神の国を知る者とされているのです。確かにわたしの上に神の御業が行われ、神の力ある保護の御手が私たちの上に置かれていることを知る者とされているのです。
 主イエスは、今私たちが生活しているこの教会生活を通して、ここにすでに神の御国が訪れていることを教え、その中であなたは生きるのだと言ってくださっています。

 私たちは、この教会の礼拝の中で、主イエスによる赦しに生きようとする新しい志を与えられ、神の御国の肢となって生きる思いを与えられたいと願います。お祈りをささげましょう。
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