ただ今、マタイによる福音書3章13節から17節までを、ご一緒にお聞きしました。13節と14節に「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」とあります。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった出来事は、これをもって主イエスが救い主としての活動にお入りになった始まりの記念すべき出来事として、新約聖書の4つの福音書すべてに取り上げられています。救い主キリストの活動への、いわばデビューの出来事として、この出来事はどの福音書でも大変重んじられているのです。
4つの福音書がそれぞれの仕方で主イエスが洗礼を受けられた出来事を大事に扱っているということまでは同じなのですが、このマタイによる福音書の記事には、他の福音書と読み比べてみた場合、際立った違いがあることが知られています。それは14節で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けようとしてお見えになった主イエスを思いとどまらせようとしたことが書き込まれている点です。他の福音書では、主イエスがヨハネの許においでになると、そのまますぐに洗礼をお受けになったと記されます。たとえばマルコによる福音書の1章9節から11節には「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。マルコによる福音書の記事では、ヨルダン川のヨハネの許にやって来た主イエスが、まことにスムーズな仕方で、遮られたり妨げられたりすることなく洗礼を受けておられます。この点は、ルカによる福音書に記されている主イエスの洗礼の記事でも、ほぼ同じです。
ところがマタイよる福音書の記事に限っては、ヨハネが主イエスに洗礼を施すことをためらい、思い留まるように説得したという出来事がさし挟まれているのです。他の福音書には記されないこの出来事は、一体何を私たちに語りかけているのでしょうか。
ヨハネは、主イエスの道備えとして現れた人物ですから、主イエスに反対し、洗礼を授けることを断ったというのではありません。むしろ、その逆です。14節でヨハネ自身が、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言っています。ヨハネはむしろ、自分のような者が主イエスに洗礼を施すことは畏れ多いことだと感じて、主に洗礼を施すことをはばかったのです。
今日の箇所の直前の3章11節12節には、ヨハネがヨルダン川でたくさんの人々に悔い改めを宣べ伝え、その呼びかけに応じて悔い改めようとした人に洗礼を施していた様子が述べられています。そこを読むと分かりますが、ヨハネは決してむやみに洗礼を施した訳ではなく、洗礼を受けにやって来た一人ひとりと対話をして、神に対する姿勢を見定めた上で洗礼を授けていました。ですから、洗礼を受けても受けなくても最初から自分たちはアブラハムの子孫であり神の子らだと思っているサドカイ派の人々や、割礼を受け律法の決めごとをそれらしく守っているから自分は神の前に立てるのだと考えていたファリサイ派の人々に対しては、大変に厳しい態度で臨む場合もあったことが、3章7節から12節に語られています。
そういうヨハネですから、主イエスがヨハネの許を訪れた時にも、いきなり洗礼を施したり、逆にそれを拒んだりするのではなくて、当然、最初に言葉を交わして、主イエスの性質や品性、また神に対する姿勢を見定めようとしたに違いありません。ところが主イエスと話している間に、ヨハネは主イエスの方があらゆる面で自分よりも勝っていると感じてしまい、むしろヨハネ自身が主イエスに向かって自分の罪と過ちを告白し、悔い改めの思いを表した上で、主イエスから洗礼を授けて頂きたいと心から願うようになったのでした。そうであるのに、主イエスの方がヨハネから洗礼を受けたいと申し出られたので、ヨハネはそれを思い留まらせようとしたのです。
このことは、別の言い方で言うなら、こんな風にも言えるでしょう。ヨハネが人々に教え、また施していたのは、今まで神を抜きにして生きてきた人が、今からは神に向かって神と共に生活してゆくという悔い改めであり、その悔い改めのしるしとしての洗礼でした。今まで神に背を向け神抜きで生きてきたけれども、これからは神に向かって生きるというのですから、そこでは人生の生き方の方向が180度転換することになります。ヨハネは一人ひとりについて、そういう思いを確認した上で洗礼を施していたのでした。ところが主イエスと言葉を交わした時、ヨハネは明らかに主イエスが他の人と違っていることに気づきました。主イエスは神抜きで生きている訳でも神に背を向けて生きている訳でもない、つまり主イエスは最初から神と共に生きていて、神の御心に従おうとする生き方をしているので、悔い改める必要がなかったのです。ヨハネは主イエスと話していて、そのことに気づきました。主イエスは元々、悔い改める必要がないのだから、悔い改めのしるしである洗礼を受ける必要もないことになります。むしろヨハネは話しているうちに、悔い改めを本当に必要としているのは自分の方だということに気がつきました。
クリーム色の紙は、黒い紙やこげ茶色の紙に対しては白く見えますけれども、真っ白い紙と比べると、まだ色があることが分かります。ヨハネは主イエスと出遭った時に、自分の方が悔い改めて神の方向に向きを変えて生きなくてはならないことに思い当たりました。14節のヨハネの言葉は、そのような彼の思いを素直に言い表した言葉なのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」、まさしくヨハネの言うとおりなのです。ここでは主イエスが罪深いヨハネの許を訪れてくださっています。
イエスには元々、何の罪もありません、従って、本来なら主イエスは悔い改める必要がありませんし、そのしるしである洗礼をお受けになる必要もありません。この点はヨハネの言う通りなのです。では何故、主イエスはヨハネの許に来られたのでしょうか。主イエスは「洗礼」を通して何をなさろうとしたのでしょうか。主イエスはためらうヨハネにお答えになります。15節です。「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」。お気づきになるでしょうか。ここでは、人を洗礼へと招きその洗礼を施す主体が入れ替わっています。これまでは、人間であるヨハネが人々に罪を悔い改めるように呼びかけて、その悔い改めの姿勢を確認して洗礼を施していました。ところがここでは、ヨハネは完全に一つの道具として機能しているだけです。ヨハネはもはや、主イエスが悔い改めた様を見て洗礼にふさわしいと思って洗礼を授けているのではありません。ただ主イエスから求められたので、それに従ったまでです。「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」と書かれています。ヨハネは、主イエスの御要望に答えて行動しているのです。確かに洗礼を授けるのはヨハネですが、それはヨハネの思いではなく、主イエスの思いに従って洗礼が授けられています。
主イエスは何故、ヨハネによって洗礼を受けようとなさったのでしょうか。主イエスの言葉に、その理由を知る手掛かり、鍵となる言葉が示されています。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と主はおっしゃいました。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」と主イエスがおっしゃり、それに応じるようにしてヨハネは洗礼を授けています。
この「正しいこと」とは何でしょうか。この言葉は、マタイによる福音書全体の中では、あと6回出てきます。そして他のところでは、「神の義」と言い表されています。たとえば5章にある山上の説教のところでは「義に飢え渇く人々は幸いである」とか「義のために迫害される人々は幸いです」というような言い方の「義」、あるいは「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」という言い方の「義」は、ここの「正しいこと」と訳されている言葉と同じなのです。
つまり、ここで主イエスがおっしゃっている「正しいこと」というのは、神の御旨に適う、本来あるべき行いや状態のことです。神が望んでくださっていることと言っても良いでしょう。そしてそれは、今のこの場面で考えるならば、「神の御子であり、救い主でもある主イエスが洗礼を受けて、悔い改めを必要としている私たち人間の列の中にへりくだってやって来てくださること、本当に清らかな方が私たち罪人の群れの中に共に立ってくださること」なのです。
私たちが毎週日曜日に教会にやって来て、皆が共々に礼拝に集い、このところに立つ時、招かれて来た私たち自身は、確かに一人ひとりが悔い改めを必要とする罪人なのですが、しかしここに立つのは私たち罪人だけではないのです。私たち罪人のただ中にただ一人、本当に清らかな主イエスが共に立っていてくださるのです。この方が私たち教会の群れの中にやって来て共にいてくださるということが、神の御要望に沿うことであり、主イエスのおっしゃる「正しいこと」なのです。そしてその実現のために、主イエスはヨハネのところに来て洗礼を受けてくださったのです。
「今は止めないでほしい」と主イエスはおっしゃいます。ヨハネの見るところ、主イエスは全く清らかであり、悔い改める必要はありません。けれども、もし、主イエスがへりくだり身を低くして、この罪人の群れの中に共に立ってくださるのでなければ、ヨハネの行っていた洗礼運動は、結局のところは、神の御前で自分は悔い改めた清らかな者となりたいという人間の願いと憧れを表すだけの行いで終わってしまいます。人間がどんなに憧れても、人の思いや願いだけでは、私たちは本当に清らかな者にはなれません。けれども、まさに、その集いのただ中に、本当に清らかな方がやって来て共に歩んでくださり、私たちに御言を語りかけてくださり、また聖霊を注いで御言に従う者へと招き導いて変えてくださるのです。
清い方と清くない者たちとは、本来は全く別々のものであり、交わることはあり得ません。本当に清らかな方が自らへりくだり身を低くして、清くない者たちのただ中へとやって来てくださるのでなければ、私たち人間は神の御前に自分から立つことすらできないのです。私たちは礼拝で、「神さまの前に立つ」と簡単に考えていますが、どっちを向いたら神がおられるのさえ分からない、それほどに罪深く神から隔たった者です。ところが、悔い改めが分からない者たちと共に主イエスが歩んでくださる、そこでは、その起こる筈のないことが実際に起こったのです。即ち、清らかな神の御子であられる方がヨハネの許にやって来てくださり、悔い改めを願い求める人々の群れのただ中に立ってくださり、その人々を御自身に結びつけてくださいました。主イエスとの交わりの中に置かれて生きることで、私たちの悔い改めも本当に清められる慰めと希望が与えられているのです。
今年は、クリスマス前のアドヴェントの季節からずっと続けてマタイによる福音書の記事を聞いてきました。今日でひとまず、マタイによる福音書から御言を聞くのは終わりとなりますけれども、マタイがこの福音書の中に心を込めて書き留め、宣べ伝えようとしていたのは、「インマヌエル」という事柄でした。神が主イエスをこの世に送ってくださり、主イエスを通して私たちに伴い、支え、導いてくださることが、「神、我らと共にいます」という「インマヌエル」なのです。そしてそれは何よりも、私たちが心の底から清らかな神に憧れ、悔い改めるということ、つまり神に向かって悔い改める群れのただ中に主イエスがやって来てくださり、聖霊の力で悔い改めたいと願う者たちを覆ってくださり、教会の頭である主に結びついた清らかな教会の肢々とされてゆくという仕方で実現されることを、マタイは私たちに伝えようとしてくれています。
洗礼をお受けになった主イエスの上に、天が開き、聖霊が鳩のような姿で降ってきたことと、主イエスが神の愛する独り子であり、また神の御旨にいつでも忠実に従う方であることが宣言されてゆきます。16節17節です。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。洗礼を受けた主イエスの上に天が開かれ、そこから神の霊、聖霊が降ってきます。この神の霊が、悔い改めようとする人間の思いを主イエスの方に向けさせ、新しい清らかな生き方をしようとする志を与えてくださるのです。
そして神が私たちに、主イエスがまことに清らかな御子であり、どこまでも従順に神に従って歩まれる方であることを宣言するのです。マタイの記事は、洗礼を受けた時、主イエスがそのように感じて決心したとか、御自分が神の子であると思うようになったとは語りません。主イエスは生まれながらに、母親の胎内におられた時から、神の独り子でいらっしゃいます。そしてそのことが、ここで確かな事柄として確認され宣言されるのです。他の福音書では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言い方がされ、洗礼を受けられた主イエスが「あなたは」と呼びかけられていますが、マタイによる福音書では、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とあり、主イエスに向かって語りかけられている言葉ではありません。むしろ、その場にいる人たちに向かって、「この者は」と言っている、そういう言葉ですから、これは、私たちに向かって語りかけられている言葉なのです。主イエスは神の愛する御子である、「わたしの心に適う僕なのだ」と宣言されます。教会の頭である方は、神の深い配慮に満ちた愛の内に匿われている御子であり、そしてこの方がどこまでも神の御心に従い通して生きてゆかれる、御心に適う僕でいらっしゃいます。
私たちは、清らかな者になりたいと悔い改め、洗礼を受けて自らの悔い改めを表して生きるようになる時、主イエス・キリストに伴われ、導かれ、教えられて生きる者に変えられていきます。そしてこの方は、「世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」と約束してくださるのです。「主イエスがいつも私たちと共にいてくださる」、そのことの目に見える始まりが、今日私たちが聴いている主イエスの洗礼の出来事です。
「今は止めないでほしい」と主イエスはおっしゃいます。身を低くしてへりくだり、どこまでも罪ある私たちと共に歩み、慰め、力と勇気を与えて生かそうとしてくださる御心が、力をもって私たちを導き覆ってくださることを、年の初めのこの時、改めて憶えたのです。
主イエスが身を低くして私たちそれぞれの許を訪れてくださり、「終わりまで、あなたと共に生きる」と言ってくださるのです。この方から慰めをいただき、力づけられ、勇気を与えられて、ここから一巡りの新たな歩みへと送り出されたいと願います。お祈りをささげましょう。 |