ただ今、ルカによる福音書9章18節から22節までをご一緒にお聞きしました。主イエスが御自身について人々がどのように噂しているかということを弟子たちにお尋ねになった後、「では、あなたがたはこのわたしについてどう思うのか」とお尋ねになっておられます。20節に「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです』」とあります。「神からのメシアです」とペトロが答えています。これは彼の考えというよりは、弟子たち全員の思いを代表して答えた言葉だと言って良いと思われます。主イエスが尋ねたのは、ペトロ一人に対してではなかったからです。主は弟子たちの群れ全体に対して「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とおっしゃっておられます。
このペトロに代表される弟子たちの答えと姿は、僅かなパンと魚で大勢の人々を養ったという奇跡の出来事を真ん中に置いて、もう一つその前に語られていたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの姿と対照的な姿として、ここに語られています。日本風に言えば、女性がお化粧の際に用いる鏡台の三面鏡の合わせ鏡の左右の鏡のように、領主ヘロデと弟子のペトロの姿は、お互いを映し出し合っています。その真ん中にあるのは、「ナザレのイエスと人々から呼ばれているこの人物は一体何者なのか」という問いです。この問いをめぐって、群衆の間には様々な意見があり、洗礼者ヨハネだという人も、最初の預言者エリヤだという人も、昔の預言者の再来だと考える人もいて、その噂は等しくヘロデの耳にもペトロの耳にも届いています。真ん中の鏡には、そのように主イエスをめぐっての問いとそれに対する様々な答え方をする群衆の姿が映っているのですが、左右の鏡の中にいるヘロデとペトロは全く違う答えを映し出しているのです。片方の鏡の中にいるヘロデは、この状況をまったく世俗的に受け止めて不思議がります。そしてヨハネを剣で斬り殺したように、いつかイエスにも出会ってその真の姿を見極め、自分にとって好ましくない人物だと分かったら、即座に切り捨ててしまおうと考えています。要するに、ナザレのイエスと呼ばれている人物を判断するのは領主である自分であって、自分が気に入らなければ直ちに相手の存在を抹殺できるかのように思っているのです。
これに対し、もう一方の鏡に映し出されているペトロと弟子たちは、この同じ事情を全く別な風に受け止めています。彼らは、この世のすべての事柄を世俗的にしか受け止められないヘロデとは違って、この世界を造り持ち運んでおられる神が、主イエスを通して今、自分たちの前に現れてくださり、「従って来るように」と招いてくださっていると考えます。要するに、これは本当にヘロデの姿と対照的ですが、主イエスが何者であるか、どなたであるかを知るのは自分自身の判断によるのではなくて、主イエス御自身が何者なのかを告げ知らせてくださる限りにおいて、この方のことを知ることができると思っています。そう思っていればこそ、主イエスの問いに対して、「神からのメシアです」と答えているのです。
鏡台の三面鏡を例にとってお話をしていますが、実は、この鏡台の前に座っているのは、他ならない、ここにいる私たち自身です。あのヘロデの記事と前回聞いた豊かな食事の奇跡の記事、そして今日のペトロの信仰告白の記事から聞こえてくるのは、「ナザレのイエスとは一体何者なのか」という問いであり、そして「あなたはどう思うのか」という問いも聞こえてくるのです。一方の鏡からは、ヘロデが「領主は自分だ。あくまでも自分の好みや判断ですべてを決める。人生の主人公は自分だ」と言い張っている言葉が響いてきます。もう一方の鏡からは、「主イエスを通して、今、神さまがあなたに出会い、従うようにと招いてくださっている。この方こそが神からのメシアなのだ」という声が聞こえてくるのです。そして、真ん中に映し出されているのは豊かな食卓です。ほんの貧しいものにしか思えないこの世の現実であっても、主イエスがそこに関わり、賛美し祈って祝福してくださるところでは、その場に居るすべての者が豊かに養われ、支えられて生きるようにされるのです。
今朝、礼拝に招かれ、神が豊かな祝福の中に置いてくださっている私たちとしては、ヘロデのわめき散らす声よりも、ペトロの証しする言葉に耳を澄ましたいと思わされるのではないでしょうか。そこでペトロが語った言葉に、もう少し聞き入りたいのです。
ペトロが語った「神からのメシアです」という答えは、ギリシア語で書かれている新約聖書の原文を読むと、「キリスト」という言葉が書いてあります。ペトロたちは主イエスに向かって「あなたは神からのキリストです」と言っている訳です。「キリスト」という言葉は、今日では、主イエスがどのような方でいらっしゃるかということを言い表す言葉として、半ば固有名詞のようになっています。聖書やキリスト教の教えに詳しくない人は、「イエス・キリスト」のお名前のイエスが名でキリストは姓だと思っている人もいる程、イエス・キリストという名前は有名になっています。キリストといえば、それは主イエスのことを指していると思う人は少なくありません。
けれども、元々の「キリスト」という言葉は、ヘブライ語の「メシア」という普通名詞を翻訳した言葉です。そして、ヘブライ語の「メシア」は「油を注がれた者」という意味の言葉なのです。神が御自身の御計画に従って、ある人に役割を与え、その務めのために清めの聖別をする時に、その人の頭に油を注ぐということが行われました。ですから、ペトロが答えた「神からのメシアです」という返事は、「主イエスは神さまから油を注がれて特別な役目を与えられている方です」と言っていることになります。ペトロは、主イエスのことを特別に神から役目を与えられて遣わされた方であると思っていました。それで、「あなたは神からのメシアです」と答えたのです。神からどのような役目を与えられて遣わされているのか、そのことは、ペトロには分かりません。ですから「油を注がれて遣わされた方です」という意味で、「メシアです」とペトロは語っているのです。
メシアと呼ばれ、油を注がれて神から遣わされた人々が、どんな役目に遣わされているかということは、旧約聖書の中では大まかに3つぐらいの役目が語られています。まずは、イスラエルの人々を神の方に正しく向かわせ、国全体を率いて導いてゆく役目を果たすべき「王」の頭に油が注がれました。その中で最も有名なのは、祭司サムエルがダビデの頭に油を注いだ出来事でしょう。サムエル記上16章13節に「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った」とあります。
イスラエルの王と並んで頭に油を注がれた2番目の役割は「祭司」です。アロンに始まるイスラエルとユダの祭司たち、後に大祭司と呼ばれるようになる人たちも、油を注がれてその役目に聖別されました。最初の祭司であるアロンがその務めに聖別された時のことは、出エジプト記29章7節に「次いで、聖別の油を取り、彼の頭に注ぎかけて、聖別する」と語られています。出来事ではなく手順として語られていますが、これはアロンだけでなく、彼の後を継ぐ大祭司たちにも受け継がれてゆきました。
そして、油を注がれて務めに立てられた3番目の人々は「預言者」です。最初の預言者とされたエリヤには油が注がれたはっきりとした記録はないのですが、エリヤが、当時道を失って沢山の偶像を抱え込んでいたアハブ王と王妃イゼベルとの激しい戦いをしてゆく中で、神から跡継ぎとして次の預言者エリシャを立てるように命じられた場面で、エリシャの頭に油を注いでいます。列王記上19章15節16節に「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ』」とあります。アハブ王との戦いの中で、神がアハブに代わる王を立て、また預言者エリヤに代わるエリシャにも油を注いで務めに立てるようにと命じられています。
今確認したように、旧約聖書の中では、王や祭司、預言者たちが頭に油を注がれてそれぞれの務めに立てられました。これらの務めには共通点があります。いずれも、神のみにお仕えして神の民イスラエルを神の者たちとして相応しく導き、人間を支配しようとする罪と戦うという役割を、王も祭司も預言者も、それぞれの立場で果たしました。働き方は同じではありませんが、神にお仕えするということにおいて、油を注がれた人たちは、最後まで忠実に仕えることを求められたのです。
ペトロは主イエスが王だとか祭司だとか預言者だとか、そういう具体的な役割を果たす者だという意味でメシアという言葉を口にした訳では、多分ありません。主イエスが具体的にどんな働きをなさる方であるのかは分からないながらも、とにかくこの方が神から特別な務めを与えられておいでになった方であるということは思っていたのでしょう。「主イエスは神さまによって遣わされた特別な方である。今、私たちは、この方を通して神との交わりを与えられ、生きている」とペトロたちは考えていました。これは、ヘロデ・アンティパスとはまったく違う主イエスの受け止めです。弟子たちはまさに神に従うつもりで、主イエスに従っていたのでした。愛弟子となって主イエスに従うよう招かれたことは大変光栄なことで、晴れがましいことだと思いながら、ペトロは主イエスのことを、「あなたは神からのメシアです」と告白したのでした。
ところがこの時、弟子たちは主イエスから意外な言葉を聞かされることになりました。主イエスは御自分がメシアであることを誰にも話さないようにと、弟子たちに厳しく戒められたのでした。主イエスがこの時こう命じられ、弟子たちもそれに従ったため、弟子たちはこの先、主イエスのことをメシアと呼ぶことはありませんでした。主イエスは本当にキリストであり、神からの特別な務めを与えられておいでになったメシアだったにも拘らず、どうしてそのことを黙っているように戒められたのでしょうか。それは、主イエスのなさるメシアとしての働き、救い主としての御業の果たし方が、王や祭司や預言者とは全く違う独特な働きだったからです。主イエスの救い主メシアとしての働きは、御自身が人間の罪をすべて引き受けられ、十字架にお掛かりになることによって果たされるものでした。どの王も、どの祭司もどの預言者も、人間全体の罪を背負って十字架に掛かるような働きはしません。
主イエスをメシアとして遣わしてくださった神は、人間が本当に罪深いあり方をしていること、神を離れて勝手に生き、争い、傷つけ合い傷んでいる、そういうありようを御覧になり、御心を痛められ、そして遂にその罪を御自身の側にすべて引き受け、引き取った上で、十字架上にその罪の裁きを行い、清算しようとしてくださいました。主イエスが果たされるメシアの務めは、そういう御業です。主イエスは、神の深い御心の内に秘められた御計画による一度限りの御業に仕えられる特別な救い主、メシアとしておいでになりました。この方が、他の油注がれた者たちとは決定的に違う一度限りの御業に用いられて神の御心を実現してくださったので、キリストという称号は、もはや普通に用いられる一般的な呼び名ではなくて、あたかもこの方だけに該当する特別な呼び名となり、固有名詞のようになったのです。
主イエスは今、御自身のことをメシアと呼んだ弟子たちに向かって、王や祭司や預言者たちと違う、主イエスのメシアとしての働きについて、弟子たちに教えられました。22節に「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」とあります。「多くの反対する者たちから苦しめられ、殺され、三日目に復活する。それがメシア・キリストであるわたしに与えられている務めだ」と、主イエスは今や、隠さずに弟子たちにお語りになります。神の御計画は、救い主であるメシアが十字架に挙げられ殺されることによって、実現してゆくのです。自ら十字架に向かって進んで行かれ死の中に赴いてくださるメシア。そして三日後にその死を打ち破って復活し、命の勝利と支配を告げ知らせてくださるメシア。しかし、当時の誰が、そのように苦しみと痛みを自身に負うメシアを考えることができたでしょうか。メシアというのは、普通は王や祭司や預言者たち、つまり人々を指導し人々の上に立つ晴れがましい立場の人だったのです。人々から捨てられて十字架に向かっていく、そして罪人として処刑されていく、それがメシアだと言われても、弟子たちは受け止めることはできませんでした。主イエスは思いもよらないメシアの務めに就かれるからこそ、弟子たちには、自分がメシアであることを黙っているように言われたのです。
今日は最初に、三面鏡の合わせ鏡のことを話しました。そして一方から聞こえてくる「神からのメシアです」という言葉に耳を傾け、少し丁寧に聞き入ったのですが、弟子たちの背後から「わたしをメシアと呼ぶのを止めよ」という主イエスの声が響き、この方が他のどのメシアとも違う、苦難の死と復活のメシアであることが聞こえてくる、それが今日の箇所に語られていることではないでしょうか。
主イエスは、御自身のメシアとしての働きが実現されるようにと、弟子たちのただ中で祈っておられます。今日の箇所の始まりのところに、主イエスの祈っておられる姿が示されていました。18節に「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」とあります。この主イエスの祈る姿をめぐって、少し不思議なことが述べられています。「主イエスはひとりで祈っておられた」というのです。ところがその時、「弟子たちは共にいた」とも言われています。弟子たちが共にいたのなら、主イエスはひとりではなかったということになるのではないでしょうか。どうして主イエスが「ひとりで祈っておられた」と言われるのでしょうか。
主イエスは御自身の果たすべき苦難と復活のメシアの務めを憶えて、神に祈っておられたに違いありません。しかし弟子たちは、そういう祈りが自分たちの傍で祈られていることに気がついていないのです。弟子たちは、主イエスのことを王や大祭司や預言者のような普通のメシアだと思っています。まさか苦しみと死に向かおうとしている、そういう務めに立とうとしている、それがメシアとして主イエスに与えられている役目だとは、弟子たちは思っていません。思っていなかったからこそ、主イエスからメシアとしての本当の務めを聞かされると恐れ、深く悲しみ、もうメシアという言葉を口にできなくなります。今日の箇所は初めて主イエスがメシアの務めを話された箇所ですが、2度目に主がメシアの働きを説明なさった時、弟子たちは主イエスのおっしゃる言葉の意味が分からなかったけれども、怖くてその言葉について尋ねられなかったと、9章45節に言われています。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」。弟子たちは、自分たちが主イエスについて「メシアだ」と語ることで、主を死に追いやっているのかも知れないと思って恐れたのでした。
しかし実際は違います。主イエスは弟子たちの言葉に追いやられて十字架に上げられてゆくのではありません。主イエスは御自身がキリスト救い主としての役目を果たそうとなさいます。役目を果たすために十字架に向かい進んで行かれるのです。ですから、恐れる弟子たちの姿というのは、救い主としての主イエスの働きについての無理解を表しています。弟子たちは、説明を聞いても理解しません。そういう中で主イエスは、ひとりで祈りをささげ、御自身の働きへと進んで行かれます。このルカによる福音書では大切な折々の場面に、主イエスの祈る姿が語られます。主イエスは祈って御旨を尋ね求めながら、キリスト、メシア、救い主としての御業に向かって歩んで行かれるのです。
弟子たちは、その主に招かれて光栄だと思いながら、自分たちが主イエスに従って歩んでいるつもりでいます。弟子たちは、自分が選んで主イエスに従っている、そのようにして主イエスと共にいるのだと思っています。
でも本当は、弟子たちが従っているから主イエスと共にいるということではないのです。主イエスの方が弟子たち一人ひとりを憶えて祈りをもって共に歩んでくださっているからこそ、何も分からない弟子たちの只中にいて弟子たちを憶えて祈り弟子たちや多くの人たちのための救いの御業に向かってくださるからこそ、弟子たちは、主と共にいることができるようにされています。そして、それが教会の姿でもあるのです。
ルカによる福音書は第2巻として使徒言行録が記されていますが、主イエスが祈っておられるように、使徒の教会も「祈りの群」として描かれます。教会の祈りの中心に、救い主イエス・キリストの祈りがあります。私たちの群れの中心に、私たちが救われ清らかに生きることができるようにと祈ってくださっている、主イエスの祈りがあるのです。私たちが自分のために祈る、あるいは他者のために執りなしを祈るとき、主イエスが私たちを憶えて祈ってくださっている、その祈りの土台の上で、私たちは祈っているのです。それが教会の姿です。
私たちは、こういう主イエスの祈りに包まれ、自分たちも祈りつつ、日々の業に遣わされてゆきます。主イエス・キリストが私たち一人ひとりを憶えて祈りをささげ、御自身の十字架の死と復活の命に私たちを結び合わせてくださっている、そのことを心に留め、ここからの新しい歩みへと遣わされてゆきたいと願います。お祈りをささげましょう。 |