ただ今、ルカによる福音書8章16節から18節までをご一緒にお聞きしました。僅か3節だけの短い箇所で、新共同訳聖書では、ここに「ともし火のたとえ」という小見出しがつけられて3節が一気に記されています。
ですがここは、元々はそれぞれ別々の機会に語られた主イエスの3つの言葉がお互いに緩やかなつながりを持つ言葉として纏められたものであるようです。と言いますのも、今日の箇所の言葉は、同じ言葉や似通った言い方が、この福音書の先の方に出てくるからです。
たとえば16節に、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない」と言われていますが、これは11章33節に非常に似た言い方が出てきます。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。特に「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」という言葉は16節とまったく同じです。また8章17節で「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と教えられている言葉は、12章2節で、ファリサイ派の教えに注意するようにと主イエスがおっしゃっておられる箇所によく似た言い方が出てきます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」とあります。そして今日の箇所の最後、18節の終わりに出てくる「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」という警告の言葉は、19章26節で、主イエスが「ムナのたとえ」と呼ばれる譬え話をなさった中でよく似た言葉が出てきます。「主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる』」とあります。
このように、今日の聖書の言葉は、元々は主イエスが別々の機会におっしゃった言葉を一つに纏めて記されているような箇所であることが分かります。主イエスが日頃、繰り返して弟子たちに教えられていた言葉が、互いに緩やかなつながりをもって書き連ねられています。ですから厳密なことを言えば、この3つの言葉をひとつながりにして「ともし火のたとえ」という標題でくくることは、やや強引であると言わなくてはなりません。確かに内容的にはつながりがあると言えるのですが、しかし、「ともし火のたとえ」と呼べるのは、正確には16節だけなのです。
その16節の言葉から、一つずつ、聴いていこうと思います。
まず16節に「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。「ともし火」とはランプのことですが、ランプを灯したならば、その光を器で隠したり寝台(ベッド)の下に置いたりはしないだろう、却って、外から室内に入ってくる人たちに光が見えるように燭台の上に置いて、辺りを明るく照らし出させるはずだと、主イエスはおっしゃいます。こういう譬え話を通して、主イエスがおっしゃろうとしている事柄は、一体、何でしょうか。
主イエスはこの直前のところで、種まきの譬えをなさっておられました。あの譬え話の中で主イエスがおっしゃろうとしていたのは、御言の種が蒔かれて、それが良い土地に上手く落ちると大きく育ち百倍もの実を結ぶのだという、神の御言に対する信頼であり、期待でした。今日のともし火の譬え話は、その話にすぐ続くようにして語られていますので、この譬え話のともし火とは、「御言の光」ということを表しています。神の御言が私たちの真実なあり方を明るみの下に照らし出し、神の御前にあって、私たち一人ひとりがどのような者であるのか、何を行い何を語り、また心の中で何を思って生きているのかということを、御言の光の下に明るく照らし出すのです。
しかしともし火は、私たち人間をいたずらに不安にさせたり恐れさせたりするためのものではありません。むしろその逆です。ともし火は夜の暗い時間にあって、人間を恐れや不安から解放します。また、当時のともし火は電気ではなくランプの火ですから、暗闇の中から荒い獣が現れる時には、ランプの火を松明に移して獣の前に突き出し、身を守る役にも立ちました。神の御言はそんな風に、私たち人間のありのままの姿を照らし明るみに出しますけれども、同時に、私たち一人ひとりを温め、落ち着かせ、また、闇の中から現れてくる様々な勢力と戦って人間を保護し、導くような役割を果たしたのでした。
ともし火とはそのようなものですから、ランプを点けたのに、わざわざ器やベッドで人々の目から隠すようなことがあるなら、それは大変残念なことですし、また、まことに愚かな振る舞いをしていることになります。
ところが、主イエスの生きられた時代には、そういう愚かな行いが大手を振って行われていました。主イエスは、そのような愚かな所業に対して非常に憤り、常に厳しい批判を加えておられました。それがファリサイ派や律法学者たちの、他者に見せるためだけの正しさ、偽善だったのです。
元々の神の御言は、当時は十戒を中心とする旧約聖書の律法ですが、それは本来は、「御言の光によって人間のあり方を照らし、誤った生活を悔い改めさせ、神に信頼して生活するあり方に立ち返らせる」ためのものでした。神の民とされている一人ひとりは繰り返し御言の光の下にある自分自身を顧みるようにされ、そして過ちを悔い改めて、新しく神の民としての相応しい生活に立ち返されて生きる者とされるのです。それが、御言が私たちに与えられている理由です。
ですから御言(聖書)は、本箱の中に立てておいたり、飾っておくためのものではありません。私たちが聖書を絶えず開き、繰り返し聞いて、その光に照らされて生きていくのです。私たちは絶えず御言の光の下に置かれ、それぞれに犯している罪と過ちに気付かされ、そして罪から離れた者としてもう一度歩み出すことで、清められ、新しい者とされて生きてゆくのです。そういう明るく暖かな輝きが、ともし火として神の民一人ひとりの上に与えられています。ですから、そういう御言の光を器で覆い隠すようなことは、普通なら起こる筈のない愚かなありようなのです。
ところが、ファリサイ派やそのグループの律法学者と呼ばれる人たちは、人々が直に御言に触れないようにしていました。旧約聖書の律法を丹念に調べ上げた結果、主イエスの時代には、律法が613の細かな規則、戒律から成るのだと主張しました。そして、その613の決まりを守りさえすれば、罪のない立派な人生を過ごすことができると人々に教え、自分たちも、そうすることで神の前に正しい人間として生活できていると主張したのです。神が明るく輝きに満ちた暖かな光で御自身の民を照らそうとしてくださっているのに、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、その輝かしい御言の前に、自分たちが考え出した613の掟を覆いのように置いて、そして「この戒律に従っていればよい。これを守るように」と人々に勧めました。ですから主イエスは、しばしば律法学者たちやファリサイ派の人々と衝突したのでした。
このともし火の譬え話は、元々は、主イエスが律法学者たちやファリサイ派の人たちのあり方について語った辛辣な批評の言葉でもあったのです。そういう性格の言葉ですので、このともし火の譬えが、次の「隠れているもので露わにならないものはない」という教えにつながってゆくようになります。17節です。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。この言葉が、少し用語は違っていますが12章2節に語られていると先程申し上げました。そこを読むと分かるのですが、この言葉は元々ファリサイ派の人たちが、本来の御言ではなくて、自分たちの作り出した掟を守っていれば正しいのだと教えていた偽善を非難する言葉として語られています。12章1節の途中から2節にかけて「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない』」とあります。ここで主イエスが考えておられるのは、神の御言に照らされ温められ清められて生きる幸いな生活の前に、ファリサイ派の人たちが自分たちの言い伝えや習慣である掟に縛られた生活を置いて、御言の光がどこからも射し出さないよう厳重に覆って、冷たい生活を人々に押しつけているという現実です。様々な言い伝えや掟は本来の御言ではないにも拘らず、絶対的な正しさだとファリサイ派の人たちが言い張るので、主イエスはそれを見せかけの正しさ、偽善にすぎないと言われます。
また、御言の光を遮って人間のルールを守らせようとする、そういうところでは、御言の光に照らされて平らになって悔い改めるということが起こらなくなります。神に清められて生きる代わりに、自分たちは神の前に正しい生活をできていると人間を高慢にさせ、高ぶらせてしまうので、パン種だと言われます。バン種は僅かな量の物をふくれ上がらせ、大きく見せるような働きをするのです。
主イエスはどこまでも、人間を本当に生かす御言に照らされ、その光に清められ、温められ、支えられて生きる、本来の神の民としての生活にこだわられます。御言に照らされ育てられ、養われて生きる以外には、本当の神の民の生きた生活は生まれないからです。ですから、御言をどう聞くか、あるいは、「あなたは何を本当に聞いているかが大事である」とおっしゃるのです。8章18節です。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。これは、「本当に神の御言を聞いているかどうか。人生のともし火であり、私たちをほっとさせ、生きる勇気と希望を与えてくださる神の御言の光に照らされているかどうか」、そのことが大事だとおっしゃるのです。
聖書の中に書いてある、あの言葉やこの言葉を取り上げ、それを数え上げ列挙すれば、聖書の中にある教えがすべて網羅できる訳ではないのです。ファリサイ派の人たちがしたことは、そういうことでした。けれどもそれでは、生きた聖書の言葉を聞くことにはなりません。私たちが今の時代を生きて感じる様々な問題や課題を聖書の記事に当てはめて、「聖書の時代にも今と同じ問題や課題があった。これは人が生きる限り直面する普遍的な課題であって、自分たちもそれに直面している」などと言って、自分自身のあり方を肯定するために、あるいは政治的な衝動に駆り立てるために、聖書の言葉を出汁に使うことも正しいあり方ではありません。
「あなたは、どう聞くかに注意しなさい」と主イエスはおっしゃいます。私たちが礼拝の度に耳にしている聖書の言葉、それは、言い古されてきた言葉に聞こえるかも知れませんが、一回ごとに神が私たちを照らし、本当に御前に清められている新しい者として生かすために語りかけられている神の御言なのです。種まきの譬えで言えば、神はたくさんの御言を私たちに語りかけてくださいます。それを、私たち人間は上手く受け取れずに道端や石地や藪の中に落ちてしまうこともあるし、自分の外側からの圧迫によって、あるいは内側からの欲求によって受け取れないこともあります。けれども、この御言の種が私たちの柔らかな場所に上手く落ちて育つならば百倍もの実りをつけ、また、私たち自身を内側から支え、その実りを周りの人たちにも分け与えて、尚、余りがある程の力に満ちた大木に育っていくのです。それが神の御言の種です。「そういう暖かな光が注がれている、あなたはそれをどう聞くのか、よく注意しなさい」と、主イエスはおっしゃるのです。
ともし火の譬えで言えば、私たちが神の前にあってどのような者とされているかが明るく照らし出され、私たち自身の犯してしまったどんなに深い失敗と罪の破れにも拘らず、神がそのような私たちの罪を御自身の側に引き取って、十字架の上でこれを処罰し、清算をつけてくださったことによって、「あなたは今日を生きて良いのだ」と告げる暖かな光が私たち一人ひとりの上に注がれているのです。
ですから私たちは、この光を覆ってしまってはならないのです。信仰は人間個人の心の内に秘めているような事柄ではありません。そうではなくて、私たちの生活の中に露わに示されるようになる事柄です。そして、その最も明瞭な現れ方は、教会の礼拝の時なのです。私たちは礼拝の中で御言を聞き、「神さまの赦しのもとに、神さまの暖かな光のもとに生きて良い」ことを知らされ、そのことを喜び感謝する、神のなさりようを賛美します。それが礼拝です。神に感謝し、祈り、賛美を歌う、そういう生活が礼拝の中から始まります。
今の時代に私たちはここで礼拝を捧げていますが、教会は私たちが満足するためにここにあるのではありません。代々の教会がそうであったように、私たちの後からこの場に入って来る人たちに、「私たちをまことに生かす命があり、私たちを温めてくれる力ある光がここにあり、私たちを本当に生かす知恵がここにあること」を、私たちは礼拝を捧げることによって表し続けていくのです。
ですから、私たちが毎週礼拝を捧げているのは、ここで私たち一人ひとりがともし火を掲げているということです。御言に温められ、力を与えられ勇気を与えられ、ここから新しい一週間へと歩み出していけることを確信して神を賛美する、そういう実際の生活が、御言を受け止めて生きているという姿なのです。
少し前の6章の終わりのところで、主イエスは、神の御言をどう聞くべきかを弟子たちに教えておられました。御言を聞いて、それを自分自身の生活の中に表しながら生きる人は、岩の上に土台を置いて生きる人なのだと教えられていました。私たち自身が岩だというのではありません。まことの岩であり、まことの主である方に、私たちが礼拝を捧げる生活をもって固く結びつく、そういうあり方こそが幸いなのです。そして、神に愛されていることを知れば、私たちも周りの人たちに「あなたも神さまに愛されています。神さまの暖かな光に照らされているのです」と伝える、伝えられなければ祈る、そのように生きていってよいのです。
私たちの信仰は、心の事柄ではありません。私たちが実際に生きていく生活の事柄です。信仰が心の事柄だと思う時には、私たちはしばしば自分の信仰というものが分からなくなります。それは当たり前です。人間の心は一定しないものだからです。ある時には強く思っていても、次の日には全然別の事を考えている、それが私たちの心です。そういう私たちが神の恵みに感謝し、それを表す生活の中に生きることができる、そういう群れの中に私たちは置かれているのです。
「どう聞くべきかに注意しなさい」と主はおっしゃいます。神の御声に照らされて、感謝と喜びの中に生きることこそが幸いなのです。主イエスがそのために、繰り返し私たちに礼拝の中で御言を語り続けてくださることを感謝し、この生活の中に留まり続けることができますように、礼拝から始まる生活へと送り出されますようにと、神に祈りをささげたいのです。お祈りを捧げましょう。 |