聖書のみことば
2024年9月
  9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月8日主日礼拝音声

 御言葉の種
2024年9月第2主日礼拝 9月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第8章1〜8節

<1節>すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。<2節>悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、<3節>ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。<4節>大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。<5節>「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。<6節>ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。<7節>ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。<8節>また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 ただ今、ルカによる福音書8章1節から8節までを、ご一緒にお聞きしました。
 1節に「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。ルカによる福音書とその第2巻である使徒言行録を読んでいますと、時折この1節の言葉のように、主イエスの一つ一つの出来事ではなくて、その働き全体を少し高い場所から眺めて、俯瞰しているような言葉に出会うことがあります。今まで聞いてきたところでは、たとえば4章42節から44節には、「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された」とあります。この福音書、そして使徒言行録には、時折このように、まとめのような言葉が挟まれます。これは、この福音書を著したルカが、「順序正しくこの福音書を書きます」と最初に言っていたことに関係するのですが、こういうまとめの言葉を書くことで、ルカは、この福音書の中に一つの区切りをつけています。一つの段階が済んで次の段階、あるいは次のステージに進むところでまとめの言葉を記す、そんなリスムがこの福音書にはあります。

 ですから、1節のようなまとめの言葉が記されているということは、この8章から今までと違う新しい展開が始まってゆくことになるのです。その新しい展開とは何でしょうか。7章では、主イエスは主にカファルナウムの町で働いておられました。先程聞きました4章42節で、カファルナウムの町の人々が主イエスの許にやって来て、自分たちから離れないで欲しいと願ったのに対して、主イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とおっしゃって、いずれカファルナウムを離れる時がやって来ることをほのめかしておられました。その主イエスの実際の行動が、今日の8章から少しずつ始まります。
 まだ少し先ですが、主イエスの旅はいくつかの段階を踏んで続き、最後にはエルサレムまで行って、そこで救い主としての御業を果たすために十字架にお掛かりになるということに向かってゆきます。そこまで一つずつ段階を踏むようなまとめの言葉を重ねながら話が進んでゆくという書き方を通して、ルカは、主イエスの十字架の出来事が「救い主としての御業」であり、主イエスは最初から、その御業を実現するために一歩一歩を進まれたことを伝えようとするのです。十字架は、決して、主イエスがこれを避けたいと思っていたけれども心ならずも最後に捕らえられ処刑されてしまったという出来事ではありません。最初から主イエスは、エルサレムの十字架に向かって歩んでおられたのでした。それが救い主としての主イエスの御計画でした。

 但し、その歩みは大急ぎで進められたのではありません。主イエスは、御自身が十字架にお掛かりになって救い主としての御業を実現なさるのと同時に、まさにそのことが神の御国をもたらす大きな業となることを人々に伝え、告げ知らせるということことも大事に考えながら、御自身の歩みを進めておられたのです。
 今日の1節では、主イエスが、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」旅をなさったのだと言われています。主イエスは、十字架の先にもたらされる「神の国」を宣べ伝えようとしておられます。「神の国を宣べ伝える」と言われますが、それは、「神さまがあなたと共にいてくださる。神さまがあなたの命の後ろ盾となってくださり、あなたの人生を力をもって支え、裏打ちをしてくださる」ということを宣言し、伝えるということです。そのために、主イエスは働いてくださるのです。
 そして、そういう主イエスの旅に12人の弟子たちも、また婦人の弟子たちも一緒であったと言われています。12人というのは12弟子のことですが、この12というのはイスラエルの12部族を表しています。主イエスの弟子たちが、古いイスラエルの12部族ではなく新しいイスラエルの12部族である、つまりこれは、教会のことを表しています。12弟子たちは皆男性でしたけれども、主に従う教会の中には女性の弟子たちもいて、男性も女性も、神が共にいて支えてくださることを告げ知らせる主の働きにお仕えして奉仕していたことが、ここに語られているのです。1節の最後に「十二人も一緒だった」と言われ、更に2節3節には「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と言われているとおりなのです。
 ここだけを読むと、女性の弟子たちだけが献げ物をしていたようにも聞こえますが、そうではありません。後に使徒言行録2章44節45節を見ますと、信者たちが皆一つになって持っている物を提供し、献げることで教会が成り立っていた様子が語られています。今日のところで特に婦人の弟子たちの献げ物や奉仕に光が当てられているのは、一世紀当時にはどこの団体でも宗教でも、女性が男性の弟子たちと行動を共にして活動するということが見られなかったからだと言われています。多くの宗教団体では女性は相手にされていませんでした。けれども主イエスの許では、女性の弟子たちも男性の弟子たちと同じように主の御言と御業に癒され、感謝して仕える様子が見られたのでした。そしてその点が、この時主イエスに従っていた弟子たちの群れの際立った特徴だったのです。神の御国の訪れを宣べ伝え、その福音を告げ知らせて歩んでおられる主イエスに従う群れには、男性も女性も招かれていました。そして皆で仕えながら歩んでいた、その様子が3節までに記されています。

 そして、そのような営みの中心にあり、群れ全体を成り立たせていたのは、主イエスがお語りになる御言でした。今日でも、教会の中で、御言を語る牧師の背後に主イエス・キリストが立っておられ、主イエスが語ってくださる御言によって、教会は福音に与ることが許されています。教会の福音というのは、人間が自分たちの都合で自分たち向きのあれやこれやの話をするというのではありません。私たちが毎週の礼拝に集まることをなぜ大切にするのかというと、それは、この場所で主イエスがお語りくださる御言に触れて生きて行くことができるからです。そして、このような経験は教会の外では決してできないことなのです。
 12人に代表される男性の弟子たちも、また女性の弟子たちも、自分たちに語りかけられる御言を「主イエスを通して語られる神の言葉」として受け止める、そのところで「福音に与る」ということが起こります。そして、神の御言が私たちに語られていることを信じるところで、キリスト者たちは力を与えられ生活を生きていくのです。

 けれどもこのようなことが起きるのは、決して当たり前のことではありません。主イエスもまた、神の国の福音を宣べ伝えて歩んでおられた生活の中で、御自身がお語りになった時に、それを聞いた人たちがその言葉を色々に受け取ったという経験をされました。願ったとおりに「語った言葉が神の御言として受け止められる」ということは、極めて稀であることを、主イエスも骨身に染みて感じておられました。そのことが、次に語られている種蒔きの譬え話に表されているのです。
 4節に「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った…』」とあります。「種を蒔く人が、種蒔きに出て行った」と、主イエスは語り始められます。この「種を蒔く人」とは、主イエス御自身のことであり、また、主イエスによって遣わされ福音を告げ知らせる宣教の業に仕える人たちでもあります。主イエスも主イエスによって遣わされる人たちも、御言の種を携えて行って、その種を蒔くのですが、しかしその蒔かれた種がすべて良い土地に落ちて豊かに実を結ぶようなことはあり得ません。主イエスはそのことを、この譬え話の中で伝えておられます。堅く踏み固められた道の上に落ちて踏みつけられたり鳥に食べられたり、あるいはせっかく芽生えても根を張ることができずに枯れてしまったり、茨の薮の中に落ちて押しかぶさられ窒息してしまう種が次々と登場します。これらの種の説明はこの先に出てくる譬えの説明のところで改めて考えることにして、今日はあまり深く踏み込みませんけれども、主イエスはこれらの「実を結ぶことのできなかった種の話」を通して、一体何を伝えようとしておられるのでしょうか。神の御国の訪れを伝えようとして御自身がお語りになった言葉がなかなか願ったようには受け止めてもらえなかった経験を、この譬え話を通しておっしゃっておられるのではないでしょうか。

 この譬えを思い違いしてはならないのですが、主イエスはこの譬え話を通して、理解の遅い人たちを非難しておられるのではありません。主イエスがおっしゃった言葉がすべて良い地に落ちなかったからといって、主の言葉を受け取り損ねた人たちを責めているのではありません。そうではなくて、主イエス御自身でさえも、神の御国の訪れを人々に語って聞かせた時に、なかなかそれを理解してもらえず、それを救い主の言葉、福音として受け止めてもらえたのは本当に僅かな場合だけであったという事実を伝えておられるのです。
 どうして主イエスがそのような話をなさったのかと言えば、12人の男性の弟子たちも多くの婦人の弟子たちも、神の国の福音を宣べ伝えて旅をする主イエスに同行して、主イエスがいてくださる許で、人々に「御国の訪れ」を告げ知らせる役目を負うようになる人たちだからです。主イエスに伴われて生活するキリスト者たちは、男性も女性も、その人生をキリスト者として生きることを通して、この世の他の人たちに対しては、神の御国がやって来ていることを伝えるような役目を負って生活してゆくようになるのです。
 これは、私たちも例外ではありません。たとえば、ここに幸いなことに信仰を共にする人生の伴侶が与えられ、信仰の家庭を形づくることを許された方々がおられるかもしれません。そういう方々は、自分たちと共に生きる隣人や家族たちに信仰を手渡したいと願うようなことがあると思います。あるいは、家庭の中で自分だけがキリスト者だけれども、近しい家族にも、人生を生きる上で本当の拠り所を与えてくれ、また生きてゆく人生の下支えとなり裏打ちとなってくださる方がいらっしゃることを是非知ってほしいと願う場面があるのではないでしょうか。独身の方でも同じだろうと思います。私たちはおそらく、自分を本当に支え導いてくださる神の恵みや慈しみ、温かな導きのあることを、近しい人たちに知って欲しいと願いながら生きるに違いないのです。
 けれども、そういう神がおられることや、この神を信じて生活することが幸いなことなのだと是非とも伝えたいと思っても、私たちがそこで語る言葉は、なかなか思うように伝わらないという経験をするのではないでしょうか。主イエスは御自身に連なる男女の弟子たちがそのようなもどかしい思いを経験させられることを御存知で、そして、決してすべての御言の種が良い地に落ちるとは限らず、むしろ割合から言えば願ったように好ましく芽吹いたり育ったりできずに終わってしまう種が多くあることを、この譬え話を通して弟子たちに教えておられるのです。

 それはどうしてかと言うと、ちょっと語って上手く行かないからといって、弟子たちが自分自身を責めたり、失望したり落胆したりしてしまわないためです。私たち人間は、元々、神の方を向いていません。多くの人は、自分の思いが実現すればそれが良いと思って生きているのです。そういう人たちに、「神の国がやって来ている。神さまがあなたと共にいてくださる」と伝えるというのは、上手くいかないことの方が多いのです。
 けれども、それで弟子たちが落胆することがないように、主イエスはここで、最後の種の譬えをお語りになります。主イエスは、「何十回、何百回と上手くいかないことを繰り返すとしても、最後には、御言の種は目ざす相手の心の深いところに落ちる。そしてその時には、その御言の種がその人のうちに芽吹いて大きな木となり、豊かな実をつける」ということを語ってくださり、弟子たちが力を落とさず、「神の憐れみと慈しみが私たちの上に注がれることを、語り続けて良いのだ」とおっしゃるのです。それが8節の言葉です。「『また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」。たとえ何度上手くいかなくても、もし一粒でも御言の種が人の心の内に届き実を結ぶなら、それは百倍にも実を結ぶのだと、主イエスはおっしゃいます。
 もちろん百倍というのは数学的なことではなくて、本当に豊かな実りとなってその人を養い、その人を内から支えるようになることを言い表しています。実際そのように、主イエスの御言が心の内に落ちて芽吹き、実り、自分を支えてくれているからこそ、弟子たちは今ここで、主イエスにつき従って一緒に旅を続けているのです。2節には、主イエスに従った婦人の弟子たちが主イエスによって悪霊を追い出していただいた人たちだと言われています。これは、この人たちが元々特に罪深い者たちだったと貶めるために語られているのではありません。主イエスの御言よって罪を赦されて、新しい清らかな生活を生きて良いことを知らされて、感謝し、喜んで従っていたことを言い表しています。そしてこの点は、今ここに集められている私たちもまた、同じだと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 私たちが今、キリスト者とされ、毎週礼拝に集うようにされているということを振り返って考える時、私たちが初めて教会に行った時、誰かから主イエス・キリストのことを聞かされた時、誰が最初から、「主イエスは救い主である」ことを理解できたでしょうか。ある人は道のような心を持って跳ねつけたかもしれませんし、別の人は石地の心で聞き流したかもしれません。また別の人は茨のような心を持って様々な誘惑に遭ったかもしれません。私たちは皆、良い地面の心を最初から持っていたから、教会に繋がっているということではないのです。この4つの地面の様子は、誰がどの地面だなどと言えないようなところがあります。私たちの心は皆、頑ななところもあれば素直なところもあるのです。主イエスが十字架に掛かってくださっていることを聞かされて、「本当だ」と思う時も、逆に疑ってしまう時もあるのです。それが私たちの実際の姿です。

 しかし、神の御言には力があり、私たちに命を与えてくださいます。私たちは、そのような神の温かな慈しみに支えられるということを経験したからこそ、御言に心を寄せ、何度でも聴きたいと願い、繰り返し繰り返し礼拝に足を運んでいるのではないでしょうか。礼拝の中で聖書の御言を聞いて、その種を自分の中に受け止め、その種が育つことを願い、期待しながら、毎週集っているのではないでしょうか。
 私たちはこのように、毎週礼拝の中で主イエスによる種蒔きを受け、私たちを温かく励まし支えてくださる主の体の肢として生きるように招かれていることを憶えたいと思います。
 主イエスが今日の最後のところで、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、繰り返し呼びかけてくださっている御言を聞き取って生きる、幸いな者とされたいと思います。そして、御言の種に養われ、豊かな実りに支えられて、それぞれに与えられている地上の生活を終わりまで精一杯に生きる者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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