聖書のみことば
2024年9月
  9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

9月1日主日礼拝音声

 赦しと愛
2024年9月第1主日礼拝 9月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第7章36〜50節

<36節>さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。<37節>この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、<38節>後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。<39節>イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。<40節>そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。<41節>イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。<42節>二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」<43節>シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。<44節>そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。<45節>あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。<46節>あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。<47節>だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」<48節>そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。<49節>同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。<50節>イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 ただ今、ルカによる福音書7章36節から7章の終わりまでを、ご一緒にお聞きしました。
 36節に「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」とあります。思いがけないことに、あるファリサイ派の人が主イエスと食事を共にしたいと申し入れています。これには何か悪意が働いているのでしょうか。どうもそうではないようです。後ろの方でシモンと名前が出てくるこの人は、何かの悪意をもって主イエスを食事に誘った訳ではなさそうです。ところが悪意こそないものの、この人は、主イエスのことを熱烈に歓迎したという訳でもなかったらしいことが、44節から46節の主イエスの言葉から伺い知れます。主イエスがシモンの家に客となって入った時、シモンは足を洗う水も用意せず、接吻の挨拶もせず、客人のために頭に塗るオリーブ油も用意しないまま主イエスを迎えていたことが、44節以下の主イエスの言葉から聞こえてくるのです。ただし主イエス御自身がその扱いに不満を抱いたり、腹を立てたりした訳ではなかったようです。
 悪意からでもなく、また歓迎したいという思いからでもなく主イエスを食事に招いたというのであれば、このシモンが主イエスを食卓の交わりに招いた動機は一体どこにあったのでしょうか。40節で、シモンは主イエスのことを「先生」と呼んでいます。この「先生」とはアラム語やヘブライ語では「ラビ」という言葉が用いられるのですが、律法の教師、旧約聖書の律法を教える先生がこう呼ばれました。そして、当時の物事の考え方として、ラビたち、即ち律法の教師たちを家に招いて食事を振る舞うというのは施しの一種であって、良い行いであると考えられていたのです。つまりシモンはこの時、主イエスを歓迎してもてなそうとしていたのではなくて、一人のラビを食事に招いている様子をこの食事に共に連なっていた他の人たちに見せようとして、主イエスを招いたのでした。

 従って、この日の食事の主たる客は主イエスではありません。他にシモンにとって、もっと大事に考えている客がいたに違いないのです。けれども、まさにそのところに、今日聞いている出来事の伏線がありました。シモンにとっては、まったく予想していない展開になっていきます。この食事の席に、一人の女性が入り込んで来るということが起こりました。しかもその女性は、この近所では悪い評判が立っている女性です。そもそもどうしてこの女性が食事の場に入ってくることができたのかは謎です。家の召使いたちに見咎められれば、この部屋に辿り着く前につまみ出されていても不思議ではありません。この日のことで、召使いたちは後で主人のシモンから、きつく叱られたかも知れません。しかしともかくも、この女性が食事の部屋に姿を現します。そして、下座の方で席に着き足を後ろに投げ出して食事をしている主イエスを見つけると、迷わずにその足許に座り、自分の涙でその足をぬらし、髪の毛で汚れを拭ったのでした。そして清めたその足に接吻し、香油を注ぎかけます。37節38節に「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあります。
 よく説明されることですが、当時の食事は、中央に円型のちゃぶ台ぐらいの高さのテーブルが置かれ、その前で人々は腹這いになって、のんびりと中央の食べ物に手を伸ばして食事をしたのでした。椅子に座って食事をしていたのではありません。来客の中で最上の客は、主人のすぐ右に腹ばいになりました。そうすると、主人はその客のために食事の最も美味しいところをサーブして取り分けてあげることができたのです。会食で一番の下座は、丸テーブルを挟んで主人の反対側の席でした。その席は主人から言うと最も遠く、手を伸ばしても食事を渡すことができません。代わりに、その席の客の足許に座ってこの女性が行ったことは、主人の席からよく見えることになります。
 女性の突発的な振る舞いに主イエスはどう反応するだろうかと、シモンが見ていると、主イエスはその行いを止めさせることもなく、なすがままに任せておられました。シモンはこの女性について囁かれている悪い噂を聞いて知っていましたから、もしこの若いラビが噂どおりの人物で道理の弁がある人であれば、直ちにこの女性の行いを厳しく咎め、部屋から追い出すに違いないと思っていました。ところがそのようなことは何も起こりません。それでシモンは、主イエスについても、ある思いを持つようになったのです。即ち、「ナザレのイエスと呼ばれるこのラビは、今自分に触れている女性がどんなに悪い噂を立てられ汚れの中に生きているかということを分からずにいる。従ってこのラビも、巷で噂されているような預言者などではない。断じて違う」という思いが、シモンの中に芽生えました。39節に、そんなシモンの心の動きが語られています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った」とあります。ファリサイ人シモンは、この女性を「罪深い女」と考えて蔑みます。同時に、この女性に触れられても怒りもしない主イエスのことも、「これは本物の預言者ではない」と考えて、心の中で蔑みます。

 ところで、実際はどうだったのでしょうか。主イエスは御自身に触れている女性が誰で何者であるかが分からなかったので、黙ってされるがままになさっておられたのでしょうか。そうではありません。主イエスは何もかもをよく御存知でした。シモンよりもよく御存知でした。主イエスは、この女性の罪と過ちの混乱をシモンよりもずっと深く洞察しておられ、そしてそのすべてを御存知だからこそ、足げにするのではなくて、彼女を助け、その罪をすっかり御自身の側に引き受けて、罪の赦しをお与えになるのです。そういう働きのために、主イエスはこの世においでになりました。彼女を滅びと死の牢獄から連れ出して、新しい命を生きるようにしてくださるのは、間違いなく主イエス・キリストその方なのです。主イエスがただ黙ってこの女性の奉仕に御自身を任せておられるのは、まさに主が、彼女の深い罪をすべて背負い、十字架の上でそれを滅ぼして、この女性に罪の赦しをもたらしてくださる方だからです。この女性を罪ある者として清い交わりから弾き出すのではなく、そうではなくて、罪を赦されている者として、再び御自身との交わりの内に置いて、新しい命を生きることができるようにしてくださるのです。主イエスがそういう方であるので、ここでシモンが予想したような行動はなさらないのです。まさにここにおられるのは、人間の罪を赦す方としておいでになった主イエスです。罪を赦す方が、他の人に混じって食事の席に寝そべっておられるのです。そして、主イエスによって赦され、清らかにされた者が感謝して主に行う奉仕を黙って受けてくださっているのです。実際に起こっているのは、そういうことです。

 ところが、そのようなことはファリサイ人シモンにはまったく思いが及びません。彼はただ、目の前にいる女性を罪の女だとしか見ることができません。人間の罪を大きく受け止めてしまい、そこに赦しがもたらされることを想像できずにいるのです。
 シモンが主イエスのことも女性のことも、汚れた愚かな者と思って深く物思いに沈んでいると、急にシモンの名が呼ばれます。40節に「そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われると、シモンは、『先生、おっしゃってください』と言った」とあります。主イエスはここで、一つの譬え話を始められます。1人の金貸しと2人のお金を借りた人の話です。最初のうち、この話は、食卓の場の空気を和ますための一種の謎かけのように聞こえたかも知れません。金貸しから借金をした2人の人がいて、一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンの負債を負っていました。ところがある日、思いがけないことに、その借金のすべてが帳消しとなり、負債のすべてが棒引きされたという話です。さて問題は、この2人のうち一体どちらの人が、貸し主に対してより深く感謝するだろうかというのです。主イエスは、「あなたならどちらだと思うか?」と尋ねます。これは誰にでも答えられそうなナゾナゾです。シモンも答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。もちろん、それが正解です。
 しかし、主イエスがシモンに伝えようとなさった本当のことは、このナゾナゾの答えの先にありました。主イエスが尋ねたような分かり易いナゾナゾであれば、シモンは正しく判断できるのです。けれども正しく判断するのであれば、その判断に従ってシモンは、自分自身の姿も顧みるべきなのです。ところがシモンはまだ、自分自身の姿や態度には気がついていません。
 そこで主イエスがそこから、この謎かけの種明かしをなさるのです。これは、シモンに対する不平や不満を述べるためではありません。この女性とシモンを比べるためでもありません。主イエスによる罪の赦しがこの女性にもシモンにも訪れることを、主イエスは伝えようとなさいます。即ち、2人の負債を負った人とは、実はこの女性とシモン自身のことなのだと、おっしゃいます。しかし、こういう場面で一体誰がこのような対比を思いつくでしょうか。食卓に招かれて食べさせてもらいながら、その食卓のホストであるシモンと、呼ばれてもいないのにこの場に現れた評判の悪い女性とを一緒に並べるなどという失礼なことを、誰が思いつくでしょうか。しかし、ためらわずに主イエスは話を続けられるのです。
 この女性は、確かにこのたとえ話の中で多額の借金を背負って行き悩んでいる負債の大きい者のようである。シモン以上に大きな罪を犯している。もちろんシモンも、まったく罪がなく潔白と言える訳ではないけれども、しかし彼女の罪とシモンの罪では500対50ぐらいに違いがあるだろう。しかし、そうではあるけれども、この女性については確かに言われなくてはならないことがある。それは、彼女の方がシモンよりもより多く主イエスを愛してくれたということだと、そうおっしゃって、主イエスは、客として迎えてもらった際のシモンの扱いと、この女性が主イエスに対して行った振る舞いを、一つ一つ対比してゆかれるのです。シモンは、主イエスを客に迎えた際に、主イエスに対しては、賓客に対して当然行うような最低の礼儀を省略していました。これは、シモンにとって主イエスがこの時の食事における最上の客ではなかったことを示しています。シモンはむしろ、より彼が大事に考えていた客の前で若いラビに食事を振るまい、良い行いをしていることを見せるために、主イエスを食事に招いたのでした。
 一方女性は、主イエスの足を涙で洗い清め、接吻し、香油を塗って、彼女にできる限りの愛を示しました。そして主イエスはこの行いを、より多くを赦された人が表わす深い感謝に満ちた愛の行いだとおっしゃるのです。自分はあまり罪を犯していないと思うシモンのような人は、ほとんど赦してもらう必要を感じないかも知れません。けれども、そういう人には愛も感謝も生まれないのです。47節に「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とあります。そして、このようにシモンにおっしゃった主イエスは、この女性にも、また居合わせたすべての人にも聞こえるように、はっきりとした罪の赦しを宣言なさいます。それが48節です。「そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた」。

 主イエスは、この食事に招かれた時、下座に通されました。主賓である人と共に食事に招待された、その他大勢の客の中の一人でした。ところが、主イエスはまさにこの食卓において、御自身が「主」として振る舞われました。御自身が人間の罪を赦す救い主であり、単なる預言者以上の者であることを、この食事の席において明らかになさったのでした。
 しかしどうして主イエスは、そのように、御自身が主であることを表されたのでしょうか。そのきっかけは、この食事の席に一人の女性が現れたからに他なりません。この女性がどうしてここまで入り込むことができたかは、謎です。しかしそれは、これが成功したということが謎なのであって、この女性自身にとっては非常に単純なことでした。「ここに主イエスがおられる」ことを知ったので、この女性は脇目もふらずにやって来たのです。もし他のことが気になっていたのであれば、この人は、この場に姿を現さなかったでしょう。一体誰が、自分のことを悪く言い、蔑み、敵意のこもった目で見るような場所に好んで自分の身を待ち運ぶでしょうか。それでもこの女性がこの場に現れた理由は、「主イエスであれば、いえ、主イエスその方だけが、わたしに本当の意味の罪の赦しと将来をもたらしてくださる」と思ったからなのです。それ以外のことは、どうでも良かったのです。「たとえどんなに悪く言われようとも仕方がない。わたしは言われるとおりの者だけれど、ただこの方だけがわたしに新しい命と新たな人生を与えてくださる」と思ったからこそ、この女性はこの食卓の場に現れました。
 そして主イエスは、まさにこの女性がそういう慰めを必要としていることを知っておられたからこそ、「命の主である方」として行動してくださり、彼女の思いを「信仰である」とおっしゃってくださったのです。50節に「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」とあります。
 食卓のホストであるシモンは、主イエスのことを救い主と認め、敬って食事に招いた訳ではありませんでした。ところが招かれた主イエスは、救いを必要とする一人の人との出会いを通じて、この席で、御自身が命の主であることを宣言してくださったのです。もちろん、主イエスの言葉を信じない人々も、この場にはいました。49節では、主イエスの言葉を信じないで、これを冒涜の言葉と受け取った人もいたことが語られます。「信じる、信じない」は聞く人によりますが、しかし主イエスは、ここで確かに、この女性に命を与える主として行動しておられるのです。

 7章は、7章全体が一つの話の単元になっていて、今日の話はこの単元の結びに置かれている話です。7章ではどんなことが語られていたかというと、まずは百人隊長の僕が死にそうになっていた話が語られていました。そこへ主イエスが出向いて行くと、百人隊長が「自分は異邦人なので、主イエスを家にはお迎えできない。ただお言葉をください」と願い、その主の言葉によって百人隊長の僕が癒されてゆきます。その次の話は、ナインのやもめの一人息子が生き返されるという出来事で、これは文字通り死と戦って人間を命にとり返してくださる主イエスの姿が語られていました。それから、獄中のヨハネが弟子を遣わして「来るべき方は、あなたなのですか」と問い合わせてきたのに答えて、主イエスが「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と、イザヤの預言の言葉を引用して返事しておられました。そして今日の記事なのです。
 今日の記事では、死んだ人も死にそうな人も出てきません。けれども、ここに出てくる女性は、生きていながらも毎日蔑まれ、悪口を言われて、実は死んだ者のように生活してきた人なのです。主イエスは命の主として、この女性の窮状を御覧になり、そこに罪の赦しを与え、この人が赦された清い者として、感謝して生きることができるようにしてくださっているのです。

 この7章全体を通して語られているメッセージは何でしょうか。それは、私たちに真の命を与えてくださる主が私たちの許に来てくださっているという福音ではないでしょうか。毎日どなりつけられ、辛い思いをしていても、酷い言葉で深く傷つけられることがあっても、あるいは、自分自身の健康状態が万全でなく自信を持てないとしても、主イエスがそういう一人ひとりのもとに来てくださって、「あなたの罪は赦されている。あなたは神さまの前に清い者とされている。あなたにはこれまで罪があったかもしれないけれど、しかしここからあなたは、清い者として歩むことができる」と言葉をかけていてくださいます。「今日ここから、新しく生きて良い」と、主イエスは言ってくださいます。
 そして主イエスは、そうおっしゃってくださるために、御自身が十字架に掛かって私たちの罪と過ちの肩代わりをしてくださり、そして、私たちに一息つかせ、ここから歩み出す将来を与えてくださっている、その幸いを憶えたいのです。
 私たちは、そのような主によって新しくされていることを知り、力を与えられて、ここからまた歩み出したいと願います。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ