2024年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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赦しと愛 | 2024年9月第1主日礼拝 9月1日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第7章36〜50節 |
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<36節>さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。<37節>この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、<38節>後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。<39節>イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。<40節>そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。<41節>イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。<42節>二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」<43節>シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。<44節>そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。<45節>あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。<46節>あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。<47節>だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」<48節>そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。<49節>同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。<50節>イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。 |
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ただ今、ルカによる福音書7章36節から7章の終わりまでを、ご一緒にお聞きしました。 従って、この日の食事の主たる客は主イエスではありません。他にシモンにとって、もっと大事に考えている客がいたに違いないのです。けれども、まさにそのところに、今日聞いている出来事の伏線がありました。シモンにとっては、まったく予想していない展開になっていきます。この食事の席に、一人の女性が入り込んで来るということが起こりました。しかもその女性は、この近所では悪い評判が立っている女性です。そもそもどうしてこの女性が食事の場に入ってくることができたのかは謎です。家の召使いたちに見咎められれば、この部屋に辿り着く前につまみ出されていても不思議ではありません。この日のことで、召使いたちは後で主人のシモンから、きつく叱られたかも知れません。しかしともかくも、この女性が食事の部屋に姿を現します。そして、下座の方で席に着き足を後ろに投げ出して食事をしている主イエスを見つけると、迷わずにその足許に座り、自分の涙でその足をぬらし、髪の毛で汚れを拭ったのでした。そして清めたその足に接吻し、香油を注ぎかけます。37節38節に「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあります。 ところで、実際はどうだったのでしょうか。主イエスは御自身に触れている女性が誰で何者であるかが分からなかったので、黙ってされるがままになさっておられたのでしょうか。そうではありません。主イエスは何もかもをよく御存知でした。シモンよりもよく御存知でした。主イエスは、この女性の罪と過ちの混乱をシモンよりもずっと深く洞察しておられ、そしてそのすべてを御存知だからこそ、足げにするのではなくて、彼女を助け、その罪をすっかり御自身の側に引き受けて、罪の赦しをお与えになるのです。そういう働きのために、主イエスはこの世においでになりました。彼女を滅びと死の牢獄から連れ出して、新しい命を生きるようにしてくださるのは、間違いなく主イエス・キリストその方なのです。主イエスがただ黙ってこの女性の奉仕に御自身を任せておられるのは、まさに主が、彼女の深い罪をすべて背負い、十字架の上でそれを滅ぼして、この女性に罪の赦しをもたらしてくださる方だからです。この女性を罪ある者として清い交わりから弾き出すのではなく、そうではなくて、罪を赦されている者として、再び御自身との交わりの内に置いて、新しい命を生きることができるようにしてくださるのです。主イエスがそういう方であるので、ここでシモンが予想したような行動はなさらないのです。まさにここにおられるのは、人間の罪を赦す方としておいでになった主イエスです。罪を赦す方が、他の人に混じって食事の席に寝そべっておられるのです。そして、主イエスによって赦され、清らかにされた者が感謝して主に行う奉仕を黙って受けてくださっているのです。実際に起こっているのは、そういうことです。 ところが、そのようなことはファリサイ人シモンにはまったく思いが及びません。彼はただ、目の前にいる女性を罪の女だとしか見ることができません。人間の罪を大きく受け止めてしまい、そこに赦しがもたらされることを想像できずにいるのです。 主イエスは、この食事に招かれた時、下座に通されました。主賓である人と共に食事に招待された、その他大勢の客の中の一人でした。ところが、主イエスはまさにこの食卓において、御自身が「主」として振る舞われました。御自身が人間の罪を赦す救い主であり、単なる預言者以上の者であることを、この食事の席において明らかになさったのでした。 7章は、7章全体が一つの話の単元になっていて、今日の話はこの単元の結びに置かれている話です。7章ではどんなことが語られていたかというと、まずは百人隊長の僕が死にそうになっていた話が語られていました。そこへ主イエスが出向いて行くと、百人隊長が「自分は異邦人なので、主イエスを家にはお迎えできない。ただお言葉をください」と願い、その主の言葉によって百人隊長の僕が癒されてゆきます。その次の話は、ナインのやもめの一人息子が生き返されるという出来事で、これは文字通り死と戦って人間を命にとり返してくださる主イエスの姿が語られていました。それから、獄中のヨハネが弟子を遣わして「来るべき方は、あなたなのですか」と問い合わせてきたのに答えて、主イエスが「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と、イザヤの預言の言葉を引用して返事しておられました。そして今日の記事なのです。 この7章全体を通して語られているメッセージは何でしょうか。それは、私たちに真の命を与えてくださる主が私たちの許に来てくださっているという福音ではないでしょうか。毎日どなりつけられ、辛い思いをしていても、酷い言葉で深く傷つけられることがあっても、あるいは、自分自身の健康状態が万全でなく自信を持てないとしても、主イエスがそういう一人ひとりのもとに来てくださって、「あなたの罪は赦されている。あなたは神さまの前に清い者とされている。あなたにはこれまで罪があったかもしれないけれど、しかしここからあなたは、清い者として歩むことができる」と言葉をかけていてくださいます。「今日ここから、新しく生きて良い」と、主イエスは言ってくださいます。 |
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