ただ今、ルカによる福音書8章9節から15節までを、ご一緒にお聞きしました。この記事はしばしば、直前に記されている4節から8節の譬え話と結びつけて受け取られることの多い箇所です。即ち、4節から8節で主イエスがまず種まきの譬え話を人々にしてくださり、そして、その譬え話の種明かしとなる説明を11節から15節でしてくださっている。そしてその間に、9節10節の「譬え話とは何なのか」ということをめぐっての主イエスと弟子たちとの対話が挟まれている。そのように受け取られることが多いのです。皆さんの中にも、この箇所をそのように受け止めてお聞きになった方がきっといらっしゃるだろうと思います。
けれどもこの箇所をそのように受け取りますと、どうも、真ん中に置かれている「譬え話をめぐっての弟子たちと主イエスの対話」の箇所がよく分からなくなってしまうのではないでしょうか。種まきの譬え話とその説明はよく分かるように感じられるのですが、その中間にある弟子たちと主イエスとのやり取りが、どうも奇妙に感じられてしまうのです。いっそのこと10節を全部削ってしまって、9節から11節に一足跳びにつながってくれたら、どんなにか分かり易くなるだろうと思う方もいらっしゃるかも知れません。確かに10節を省いて読んでしまえば、この話自体は、大変つながり良く聞こえるだろうと思います。
ですが、私たちにとってつながり良く聞くことができるように感じられるとしても、それがルカの本当に伝えたい事柄であるのかということは、少し慎重に聞く必要があるかも知れません。というのは、10節の言葉を省いてしまえばずっと話の通りが良くなるだろうということを、おそらくルカ自身もよく分かっていたに違いないからです。よく分かっていて、それでも9節10節の言葉を敢えてここに記したのだとすれば、そこには当然、これを記すだけの何らかの理由や意味がある筈です。その理由とは一体何でしょうか。今日はそのことを考えながら、弟子たちと主イエスとの対話、そして、その後に出てくる種まきの譬えの説明の言葉を聞き取ってみたいのです。
改めて、9節に「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた」とあります。主イエスがなさった種まきの譬え話の意味を知りたいと、弟子たちが願い出ています。「このたとえはどんな意味か」と弟子たちが尋ねたというのであれば、この時、弟子たちには、種まきの譬え話の意味が理解できなかったということになります。何故主イエスがこのような譬え話をおっしゃるのか、その意味が分からなかったというのです。
けれども、こういう弟子たちの質問を聞いていて、逆に私たちは、何故弟子たちがこんなにも明瞭に思える譬え話の意味が分からないのだろうかと不思議に感じるかも知れません。農夫が種をまきに出てゆく。でもそこで蒔かれた種には様々な境遇が待ち受けている。道端に落ちて見向きもされず踏みつけにされた挙句、鳥に食べられて失われる種もあれば、石の上に落ちて根を張ることができず枯れる種もある。薮の中で育たない種もある。けれども、もしその種が上手く人の心の柔らかな場所に落ちて根づくことができたら、百倍にも実を結ぶことになるという譬えです。
主イエスがおっしゃる種とは御言の種のことで、何でこんなにも明らかな譬え話なのに、弟子たちはその意味を知りたいと言うのだろうかと、不思議に思う方がいらっしゃるかも知れません。弟子たちだって、この話の筋道が分からないというのではないのです。ですが弟子たちにとって分からないのは、どうして主イエスがこのような話をなさるのだろうかということ、その点なのです。弟子たちにとってどうにも分からないのは、何故主イエスが上手く実を結ばない種の話をなさるのかという、そのところなのです。
弟子たちが主イエスのなさることを見る限りにおいては、主イエスは何だっておできになるような方に思えるのです。シモン・ペトロのしゅうとめが高い熱を出して苦しんでいるのを御覧になると、熱を叱りつけて病気を癒してくださいます。カファルナウムの会堂で汚れた霊に取りつかれた男が主イエスに抵抗しようとすると、その悪霊を黙らせ、その人から出てゆくようにお命じになります。すると、悪霊といえども主イエスの御命令に逆らえず、その人に何の傷も負わせずに出て行ったのでした。ガリラヤ湖ではペトロに網を降ろして漁をするようにおっしゃいましたけれども、ペトロが主イエスの言葉通りに網を降ろしてみると、全く予想もしていなかった魚の大群が網に入って、岸にいた仲間の船の手を借りてようやく荷物を陸上げできた程の大漁をもたらしてくださいました。また重い皮膚病の人や中風を患って麻痺していた男の人の病気を癒してくださったり、ナインの町では、死んでしまった一人息子を生き返らせて、やもめであった母親の許に戻してくださるという奇跡もなさったのでした。
つまり、弟子たちが主イエスにつき従っていて、そのなさることを見ていると、主イエスは何でもおできになるように思えたのです。ところが、その主イエスが種まきの譬え話をなさった時に、そこでは、せっかく種を蒔いたのに願ったような収穫に結びつかない種の方が多いということをおっしゃったので、弟子たちは却って戸惑いを感じたのでした。主イエスがなさることであれば、御言の種は百発百中で良い地に落ちて、豊かな実を結ぶという話でも良さそうに思えるのです。実際、弟子たちがこれまで見聞きしてきた主イエスの御業、そのなさったことの中では、上手く行かなかったということが無いと言える程、主イエスは神の御力に溢れ、権威をお持ちの方であることを表してこられました。
それなのに何故、主イエスは、この種まきの譬え話の中で、願ったような実を結ぶことに至らない沢山の種の話をなさるのだろうと、弟子たちにしてみれば、まさにその点が腑に落ちなかったのです。それで、この譬えはどんな意味なのかと尋ねたのでした。
そして、この弟子たちの疑問に対する主イエスのお答えが2つ並べられているというのが、この福音書を著したルカがこの箇所で行っていることなのです。一つは10節、そしてもう一つは11節から15節にかけての主イエスの答えです。ルカはこういう書き方で、彼なりに順序正しく主イエスの救いの事柄を書き記しています。そして今日聞いているこの箇所でルカ福音書が私たちに語っている事柄というのは、意外にお感じになるかもしれませんが、主イエスが御言の種まきをなさり弟子たちに分からせようとしておられた事柄について、弟子たちがどんなに分かりが悪く理解が遅かったかということなのです。10節、そして11節から15節にかけての言葉は、いずれも主イエスが弟子たちを教えてお語りになったという体裁で、少なくとも形の上では、これは主イエスが弟子たちを教えてこうおっしゃったのだという書き方になっています。けれども、この2つの言葉は互いに違ったことを言っています。そしてそれは、主イエスが種まきの譬えに対する種明かしをなさったのではなくて、弟子たち自身が種まきの譬え話の中に隠れている謎について「主イエスならきっとこうおっしゃるだろう」と考えたことを書いているからなのです。
有り体に、実際に主イエスがおっしゃった言葉は何だったかと言えば、それは4節から8節までの、最初に記されている種まきの譬えまでです。そして主イエスは「聞く耳のある人は聞きなさい」とおっしゃって、「御言の種まきは幾度となく繰り返される。そうやって蒔かれた種の中には、人々から顧みてもらえない場合もあるし、上手く心の中に落ちたようでもその聞いた人が外部から圧迫されたり、あるいはその人自身の中に別な思いが生い育ち繁ってしまって、御言の種が根を降ろすのを邪魔することもある。数の上では、むしろそんな風に上手く行かないように感じられることの方がずっと多いように思えるかもしれない。けれども、もし御言の種が良い地に落ちたならば、それは百倍にも実を結ぶ大きな木に育って、その人を内側から支えてくれるようになる」とおっしゃったのでした。
主イエスがこうおっしゃったのは、この不思議な力に溢れた御言の種まきの業に、まもなく弟子たち自身が関わるようになるからです。12弟子だけではありません。私たちもキリスト者と呼ばれることがありますけれども、キリスト者である人たちは全員が例外なく、御言の種を主イエスによって蒔かれていて、その木を一人ひとりの内側に育てています。そして、その実りに自分自身が与り支えられながら、その人もまた周囲の人々に、その生活を通して御言の種まきをして生きてゆくようにされているのです。
私たち自身、自分の家族や愛する人々、また親しい人たちに、主イエスが共にいてくださり支えられて生きてゆくことができる事を伝えたいと願うことがあるのではないでしょうか。しかしそのように願っても、いつも御言の種まきが上手く行くとは限りません。元々の主イエスの譬え話は、そのように、たとえ上手く行かないように感じられることがあったとしても、気落ちしたり、がっかりして、自分の無力さを嘆いたりしないために語られているのです。
主イエスの救いの出来事を上手く伝えることができない最大の理由は、その救いが主イエスの十字架という躓きをはらんでいるためです。そしてルカは、どんなに私たち人間が、この十字架という躓きに躓き易いかということを、ここから先のところで丹念に語ってゆくような書き方をします。
ここまで行われた主イエスの御業には失敗や上手く行かなかったことが一回もなかったにも拘らず、種まきの譬えで幾つもの実を結ばない種の話がされるのは、実は、主イエスが人々の上に蒔かれる御言の種に十字架という躓きの要素が含まれているからです。その意味で、この種まきの譬え話は、この福音書の中で主イエスが最初に、「神が知らせてくださる御言の福音の中に十字架という躓きがある」ことを伝えてくださっている箇所なのです。
ところが弟子たちは、最初この話を聞いた時に、主イエスがもたらしてくださる救いの中に十字架の躓きがあることを分からなかったのです。それで、何故主イエスが実を結ばない数多くの種の話をなさるのかが分からなかったのでした。
そんな弟子たちが、彼らなりに真剣に考えて辿りついた結論が、今日の箇所に2つに記されているのです。まず一つ目は、旧約聖書イザヤ書の中に、神がイザヤを預言者にお立てになってイスラエルの人々に向かって語るようにお命じになった時に、イザヤが語ってもその言葉は同胞である人々には理解されないだろうと言われていた言葉があったのを思い出して、主イエスが実を結ばない御言のことをおっしゃるのは、あのイザヤ書のようなことなのだと理解したことが表されています。それが10節の言葉です。「イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためである』」とあります。この元々の言葉はイザヤ書6章9節の言葉です。「主は言われた。『行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と』」。神が預言者イザヤを遣わすにあたって、「あなたが『言葉をよく聞け』と語っても理解されないだろうし、『よく見ろ』と語っても、人々は今起きていること、起ころうとしていることを悟ることがないだろう」とおっしゃいました。これは、神がイスラエルの人たちの上に裁きを臨ませようとしていて、そのことの予告をイザヤを通してお語りになるのですけれども、その裁かれる人はイザヤの言葉を聞いてもその業を目にしても、悔い改めに導かれるようにはならないことを、神がイザヤに予め教えられた御言です。この世に対して神が裁きをなさる時には、その予告を聞いても、悔い改めて神に立ち返ろうとする人はいないというのがイザヤ書の言葉なのですが、主イエスのおっしゃる種まきの譬え話は、これとはまるっきり違います。何よりも神は人々を裁こうとして御言を聞かせるのではなくて、救おうとして御言の種まきをしてくださるからです。実を結ばない種というのは、種を蒔かれた人たちが神の怒りの下にあるのではありません。そうではなくて、むしろその人たちが神を信じて立ち返るために、種は蒔かれているのです。
もう一つ、弟子たちが考えついたのは、実を結ばない種というのは、私たち人間に対する警告であって、実を結ぶ良い地面になるようにという招きがあるのではないかということです。こちらの方は11節から15節にかけて語られるのですが、元々は御言の種の方に本当に大きな力があるのだと言われていたはずの譬え話が、いつの間にか4つの種が蒔かれる地面の方に焦点が当てられるように変わってしまっていて、要するに良い地面、良い心を持つことが大切だという風に、譬え話の強調点が移ってしまっています。新共同訳聖書の小見出しには、「『種を蒔く人』のたとえの説明」と書かれていますが、実際には元々の譬え話の説明ではなくて、4つの地面の話になってしまっているのです。
弟子たちは、御言を上の空で聞いたり御言を聞く際に居眠りをして、せっかく蒔かれた御言が失われるのは大変残念なことだと考えて、そういうあり方を主イエスが道端という譬えでおっしゃったのだと考えました。また、せっかく御言を自分の中に受け止めることができても迫害や誘惑が外からやってきて、自分の中に御言が根を伸ばせずに枯れてしまう場合のあることを、石地に落ちた種と考えました。更に、外からの迫害や誘惑ではなくて、他ならない自分自身の中からも、御言に聴き従うことよりも他の思いが生い育って、たとえば自分の思い通りに生きたいという欲求の方が大きくなって御言を覆い塞いでしまう場合のあることを思って、それが薮の中に落ちた種だと理解したのです。
そのように、せっかく御言の種を頂いてもなかなか上手く育たないことも多いのだから、自分としては注意深く、立派な善い心で御言を聞き、これをよく守り、忍耐することが大切だと考えて、15節のように表したのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。
教会の歴史の中では、この15節の言葉を建徳的な言葉、即ち徳を建てるような言葉であると考えて、このような立派なキリスト者となるように勧める説教がこれまで幾度も語られてきました。もちろん、そのような姿勢自体は大変真面目なあり方です。
けれども、この立派なあり方を人間の努力によってもたらそうとすると、そこには決してそうなることのできない自分自身がいるということに、また出遭わざるを得ないことになります。主イエス御自身の譬えは、決して人間の努力で立派な者となることを教えるものでも、またそうなることを求めるものでもありません。
ここに述べられているのは、弟子たちが、彼ら自身としては真剣に主の御言に向き合い、考えたけれども、十字架による救いをまだ知らなかったために、主イエスの譬え話を理解できなかったという記録なのです。このように、主イエスの十字架が分からないために、現実に救い主と共に旅をしていながら、その救いに目が開かれなかったという記事は、この福音書では、この先に何回も出てくることになります。
けれども、主イエスはそんな弟子たちに確かに伴ってくださり、辛抱強く御言を語って、弟子たちの中に百倍の実りを待ち望んでくださるのです。
私たちも今日、そんな主イエスに伴って頂いて御言の種まきに与っていることを感謝して良いのではないでしょうか。そして、主が共に歩んでくださることを信じて、私たちも自分に許されている程度に従って、御言の種まきをしながら生活する、主の僕としてのあり方を強められたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。 |