聖書のみことば
2024年8月
  8月4日 8月11日 8月18日 8月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月25日主日礼拝音声

 今の時代の人々
2024年8月第4主日礼拝 8月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第7章29〜35節

<29節>民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。<30節>しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。<31節>「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。<32節>広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』<33節>洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、<34節>人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。<35節>しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

 ただ今、ルカによる福音書7章29節から35節までをご一緒にお聞きしました。
 29節30節に「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」とあります。洗礼者ヨハネが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と、弟子を送って主イエスに問い合わせたことがきっかけとなって始まった一連の出来事を、3回に分けて聞いています。最初の週は、問い合わせに対して主イエスがヨハネにお与えになった返事の言葉を聞きました。先週はヨハネの弟子たちが立ち去った後で、主イエスが「ヨハネとはどんな立場と務めを与えられた人物だったのか」を集まってきた群衆に紹介しておられる言葉を聞きました。主イエスから御覧になると、ヨハネは主イエスの道備えの者であって神の御前を生きるように真剣に人々を励ました非常にすぐれた預言者でした。けれどもヨハネは、主の十字架と復活の出来事を知って、主への信仰に支えられて生きるようになる時代が来る前に地上の歩みを終えた人物だったのでした。ヨハネは大変立派な良い働きをした人物でしたが、実際に主イエスに伴われて神の国の民として生活することは、ヨハネには与えられなかったのでした。
 そういうことから考えますと、ヨハネが指し示した「主イエス・キリストが来られた」ということは、大きな時代の転換点でした。主イエスの訪れによって神の知恵がはっきりと知られるようになる新しい時代がやって来たと考えるならば、ヨハネは古い時代の最後のところに立つ預言者で、自分よりも優れた方が後からおいでになると言って、人々を主イエスの許に導こうとして働いた人物だったのです。

 ところで、ヨハネがそのように紹介をした主イエスがおいでになって、実際に主イエスの許で生活を始めた人たちは皆、洗礼を受けて、新しい時代に属する者となっていることを身をもって表したのですが、まさにそのところで人々が二つのグループに分かれてしまうということが起こりました。それが今日のところで語られている事柄です。29節30節には、そのことが語られていました。ヨハネから教えられて主イエスと共に生きるようにされている人々は、徴税人に至るまで「洗礼を受け、神の正しさを認めた」と言われています。「神の正しさを認めた」という言葉に注目したいのです。これは元の言葉の通りに訳すと「神を義とした」と書いてあります。しかし普通に考えれば、神が私たち人間を義と認めてくださるのであって人間が神を義とするのではないのですから、それで「神の正しさを認めた」となだらかな言葉に訳してあるのです。ここに言われていることは、神との関係において、この人たちは本来のあるべき正しいあり方をしたということを言っているのだろうと思います。
 洗礼者ヨハネが現れるまでの人々は、どのようにして神と繋がっていたのでしょうか。彼らは、十戒を初めとするたくさんの掟、律法を守ってさえいれば、何となく神の民なのだと、漫然と思っていました。ファリサイ派の人々は、十戒から始まって旧約聖書には613もの掟があると教えていました。けれども、本当に自分がその掟を完全に守れているかということは、実は誰にも分かりません。それでユダヤの一般の人たちは、大雑把な理解で、男子であればまず割礼を受けているか、そして安息日毎に礼拝に出かけているかというぐらいのことを思って、それが満たされていれば、「まぁ、自分たちは何といってもアブラハムの血筋にある民なのだから、神の民の端くれぐらいには数えられているだろう」と考えていたのでした。
 ところがヨハネが現れて、「そんなあやふやなことで良いのか」と人々に迫りました。「斧はもう既に木の根元に置かれていて、実を結ばない木を切り倒す準備は整えられている。後はあなたがたが神さまの前に本当に実を結ぶ良い木であるかを確かめるだけである。あなたがたは今までの自分の姿を一向に顧みず、ただアブラハムの血筋に属する者だから神の民だろうと思ってきたけれども、これからは本当に神の民として相応しい生活をしなさい。悔い改めて、洗礼を受けなさい」と勧めました。その呼びかけを聞いて、神の御前で生活しようと決心した人たちが洗礼を受けて、神を畏れ、御言に励まされて生きる新しい生活に入ったのでした。「神の正しさを認めた」と言われているのは、そういう、神の前に平らな者となって、神に従って生活するようになった人々の姿を言い表しています。

 ところが、洗礼者ヨハネの勧めを聞いた時に、素直にヨハネの言葉を聞き容れたのではなくて、却ってヨハネに反発して、ヨハネの勧めを退けた人々もいました。それが30節に言われている人たちです。「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」と言われています。「神の御心を拒んだ」と言われていますが、これは原文を読むと、「退ける」という文字が書いてあります。つまり、こちら側の人々は、ヨハネの勧めの言葉に聞き従うのを良しとせず、そのために洗礼も受けなかったのですが、そうやって神のせっかくの招きを退けてしまったのでした。
 この人たちは、特にファリサイ派や律法の専門家たちであったと名指しされています。先程話しましたように、ユダヤの律法は大元の十戒から始まって細分化され613もの戒律になっていたのですが、この人たちはその掟を守って生活することにこだわって生きていた人たちとして知られています。彼らは、一般のユダヤ人たちからは、神の事柄について真面目に考えて生きようとする人たちだと受け止められて賞賛されることが多かったのですが、福音書を読んでいると、主イエスに対して激しい敵対心を持っていて、最後には祭司長たちと手を組んで主イエスを十字架に磔にした人たちであることが分かります。
 この人たちは、洗礼者ヨハネを通して神が差し伸べてくださった御手を振り払うようにして神の御心を拒み、退けたのでした。つまり、今日の箇所に述べられている事柄というのは、ヨハネが道備えとなって自分の後からおいでになる来たるべき方の訪れを指し示し、そしてそのヨハネの預言どおりに主イエスがおいでになった時、その出来事の前で、人間が2つのグループに分かれたということなのです。ヨハネの勧めを聞いて素直にそれを受け入れ、自分は神の前に生きなくてはならないと考えて洗礼を受けた人たちは、その後も主イエスによって御言に聴く生活に招き入れられました。しかしヨハネの招きを聞こうとせず、自分とは関わりないこととして、神の招きを退けた人たちもいたのです。

 ところが、そのように神の招きに耳を貸さず、従って悔い改めることもない人々が、社会的には賞賛され尊敬されている、当時はそういう状況でした。主イエスが今日の箇所で感想を語っておられるのは、そういう世の中についてです。31節32節に「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった』」とあります。
 主イエスは、今の時代、つまり当時の人々を、広場で遊んでいる子どもたちの姿にたとえられます。「今の時代の人たち」と言っても、この時代のすべての人たちというわけではなく、ヨハネの言葉を聞いて反発し受け入れない人、あるいは、そういうファリサイ派や律法学者たちを賞賛している人たちのことを言っています。
 ここで「広場」と言われるのは、空き地ということではなくて、町や村の広場のことです。そこには平素より多くの人や物が行き交っていて、大人たちが物々交換をしたり裁判が開かれたりして、喧騒を極めていました。大人たちはそれぞれに生きてゆく生活に手一杯で忙しくしているのですが、その広場には子どもたちもいて、大人たちの気を引いて自分たちの遊びに加わってもらおうとしているというのが、このたとえです。
 子どもは、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と不平を言い、駄々をこねています。「笛を吹く」というのは、葬儀や悲しい場面ではなくて、結婚式などの嬉しい場面です。つまり子どもは、広場で忙しくしている大人たちに向かって、結婚式ごっこに参加してもらおうと思って笛を吹いたのですが、せっかく笛を吹いたのに誰も踊ってくれないと言って駄々をこねているのです。もう一つの「葬式の歌」というのは、文字通り葬式ごっこです。今度は、大勢の大人たちを葬儀の会葬者に見立てて、広場で葬式の歌を歌ったのに、大人たちは自分の生活に忙しくて誰も泣いてくれないと言って、駄々をこねます。主イエスはこのことで何を語っておられるのでしょうか。
 主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちの見せかけだけの正しさの追求を、このような子どもたちの姿に重ねて皮肉をおっしゃいました。この福音書の少し先の11章46節では、もう少しはっきりとした言葉で彼らを批判しておられます。「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ』」とあります。つまりファリサイ派や律法学者たちの見せかけの正しさは、実際から言えば、世の中で重い責任を負い忙しく黙々と働く人々に向かって自分たちの正しさに付き合わせようとしているだけのことで、もし人々が実際にファリサイ派や律法学者たちの言うことに従って歩もうとする際には、その大変さを助けるために指一本だって働かせることはないと、おっしゃっているのです

 そしてそれは、洗礼者ヨハネがやって来た時に、ファリサイ派や律法の専門家たちがヨハネについて何を言ったか、また人の子、つまり主イエス御自身がやって来た時に、今度は主イエスについて何を言ったかということによく表れているとおっしゃいます。33節34節に「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とあります。洗礼者ヨハネの姿や生活については、ルカによる福音書はあまり細かく語らず、むしろ、ヨハネの教えの方に重きを置いて語っているのですが、ヨハネの姿や生活については、ルカ以前の他の福音書の中に語られていて、広く伝えられ知られていたのでしょう。ヨハネはラクダの毛で編んだ衣を着て、腰には革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らしていたことがマルコによる福音書1章に述べられています。ラクダの毛で編んだ衣というのは、今日ではかなり高級なファッションですが、当時にあっては、志を立てたナジル人と呼ばれる人々がしていた格好だと言われています。ヨハネがそのような姿をしていたということは、ヨハネが一つの請願を立てて、実現するまでそのままでいるという姿です。まさにそれが、ヨハネが神から遣わされた預言者としての姿でした。ヨハネがそういう格好をしていたということは、自分自身が神から遣わされた預言者であり、伝えるべきことを伝えるまでここを動かないという志を姿で表していたのでした。
 しかしその姿は、ヨハネのことを信じようとしない人にとっては、奇妙なものに見えます。ヨハネは預言者を自称しているだけの者であり、また荒れ野に留まってその場所で手に入る物で飢えをしのんで生活している姿も、悪霊に唆かされて常軌を逸した姿だということにしたのです。荒野に留まってひたすらに神の助けを願い求めて生きたヨハネの姿というのは、ある面では大変禁欲的な生活だったのですが、それは当時の人々の多くの姿と違っていたので、悪霊が憑いた結果とされてしまいました。けれども、そんなヨハネを慕って荒れ野に赴いた人々の数も決して少なくはなかったのです。
 さてその一方で、主イエスはそんな禁欲的な生活は送らず、カファルナウムを初めとした町や村にお暮らしになり、求められればどこへでも赴いて食卓を囲み、ワインも飲まれました。するとファリサイ派や律法学者たちは、そういう主イエスについては、「大食漢で大酒飲み」であり、「徴税人や罪人たちの仲間」であるというレッテル貼りがされたのです。
 このようにヨハネの禁欲的な生活を腐し、また主イエスのあり方を腐したのは、ヨハネの許に赴いて洗礼を受けた人たちではありません。ヨハネと主イエスを腐しているのはファリサイ派の人たちであり、律法の専門家を自認している人たちです。しかもそういう人たちを世の中の人は、大変立派な志を持った人として賞賛しているのです。主イエスは、そういう人々の神に対する真剣さや情熱は、結局、ファッションやごっこ遊びのような域を出ないことで、忙しく生活している他の人々に向かって、あなたがたも自分たちと同じようにしてほしいと駄々をこねている子どもじみたあり方でしかないとおっしゃって、ファリサイ主義の正体を見抜いておられたのでした。

 主イエスはおっしゃいます。「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」、この言葉はとても大切な言葉です。なぜなら、原文を読むと、「知恵は義とされている。彼女の子らすべてによって」、ここでは「知恵」という言葉がいわば擬人化されて、人間のように語られているのですが、この知恵が何を指すのかと言うと、洗礼者ヨハネが指し示した、「後から来られる方、その当事者である主イエスによってもたらされている知恵」のことです。縮めて言ってしまえば、「神さまが御自身に属する一人ひとりを愛してくださっている」ということです。ただ、神が御自身の民をどう扱われるかについては、ヨハネは、それは神による裁きだと考えて、神への恐れを教え、神を畏れて新しい生活に入るように悔い改めることを勧め、洗礼を授けました。
 主イエスは実際、ヨハネが預言した通りの裁きをなさる方であるのですが、しかしその裁きというのは、ヨハネの予想を超えたものでした。人間一人ひとりの罪を、確かに主イエスは問題になさいます。けれども主イエスのなさり方は、その罪をその人に負わせて滅ぼすというのではなくて、一人一人の罪をすべて御自身の側に引き受けてくださり、神の怒りを一身に受けて十字架上で苦しまれ、遂に亡くなるという仕方で罪の清算をしてくださったのです。そして、自分の罪が主イエスによって肩代わりされ十字架の上で清算されたことを信じる人たちには、「確かに自分は過去に罪を抱えていたし、今でもそうだけれども、しかしその罪に清算がつけられて、もう一度、罪を離れた新しい生活を生きて良いのだ」という神の知恵がもたらされているのです。この知恵に生きる人は、神が愛してくださっていることを信じて生きることができるのです。
 キリスト者が神の愛のもとにあるというのは、神が私たちに何か特別な取り柄を見出してくださって愛してくださるということではありません。そうではなくて、私たち一人ひとりをキリストの赦しの下にある者として見てくださり、支えてくださるということです。私たち自身は、自分を見れば惨めな弱い者だと感じると思いますが、けれども、そういう私たちが主イエスの赦しによって、「神さまのものとして生きて良い」と言われているのです。キリスト者は、そう言われていることを信じて、一人一人が理解できる範囲でそのことを感謝し生きる生活が与えられているのです。
 しかもそのような生活は、お仕着せのように、皆が同じように行動するということではありません。一人ひとりがその人らしく神の愛に出会い、神に愛され支えられて生きるようになる新しい生活が始まるのです。

 私たちを愛し支えてくださる神は、ただお一人です。そしてその神は、主イエスを私たちのために送ってくださり、主イエスが十字架の上で私たちの罪を滅ぼし清算をつけてくださった、その出来事も一度限りです。この知恵は神の知恵であって、人間が好き勝手に変えられるようなものではありません。けれども、主イエスの十字架によって罪を赦され、新しい者とされたことを知らされ、新しい生活の中に招かれた人は、それぞれにその人らしく伸びやかに生きることができるようにされています。どんなに私たちの人生に重苦しい影が満ちているとしても、私たちがどんなに弱ってしまうとしても、その時その状況のもとで、神が「あなたはわたしのものだ」と語りかけてくださるのです。人生の最大の問題には、神が既に決着をつけていてくださっています。そして、今日与えられているそれぞれの命を、私たちが尚、生きて良いことを知らせてくださっている、そういう知恵が与えられていることを憶えたいのです。

 主イエスが言われた「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」という言葉は、私たちの人生の中で、神が確かに力をもって私たちを歩ませてくださるということを語っている言葉です。この知恵に伴われ、導かれ支えられて、ここから新しく歩みたいと願います。お祈りを捧げましょう。
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