ただ今、ルカによる福音書7章24節から28節までを、ご一緒にお聞きしました。
24節から26節に「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。『あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である」とあります。主イエスがヨハネについて人々に話しておられます。ここに言われているヨハネは主イエスの弟子のヨハネではなくて、洗礼者ヨハネと呼ばれて、主イエスの道備えの役目を果たした人物ですが、そのヨハネが何者だったのかということを、主はおっしゃろうとしているのです。
主イエスはここで、ヨハネがどういう人物だったかを教える前に、集まっている群衆に、矢継ぎ早に3つの問いかけをしておられます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」とまず問いかけた後で、「風にそよぐ葦を見に行ったのか」、それとも「しなやかな服を着た人を見に行ったのか」、それとも「預言者を見に行ったのか」と、三重の問いかけをなさるのです。
最初に言われている「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」という問いは、まだヨハネが領主ヘロデに捕らえられる前に、ヨルダン川沿いの荒れ野に現れて、大勢の人々に対して、「悔い改めて神さまの御前を生きてゆくように」と勧め、その悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていた時、大勢の人たちがそのヨハネの許を訪れていたことを言っています。おそらく、その時に洗礼者ヨハネの許に出かけて行ってヨハネから洗礼を授けてもらった人たちの中のある程度の人々が、ヨハネが指し示した「来たるべき方」である主イエスの許にも、今、やって来ているに違いありません。
もっとも、ヨハネから洗礼を受けた人たちの全員がそっくりそのまま主イエスを信じて従うようになった訳ではありません。この福音書の3章15節を読みますと、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と言われています。ヨハネ自身は、そういう人々の期待を打ち消して「わたしではなくて、わたしよりも優れた方がまもなく現れる。その方こそが来たるべき方なのだ」と教えたのですけれども、それでも洗礼者ヨハネこそが本当の指導者にふさわしいと思う人は大勢いました。
ヨハネに対する期待や信頼は非常に大きく、ヨハネ自身はまもなく牢の中でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスに首を斬られて亡くなってしまうのですけれども、その影響はそこで終えた訳ではありませんでした。ヨハネが亡くなっても、尚、「あのヨハネ先生こそが神から送られたメシアだ」と信じる人たちが残り続けていました。ルカによる福音書に続く第2巻に当たる使徒言行録を読んでみますと、例えば18章25節には、アポロという大変雄弁な人がいて、主イエスのこともある程度知っていて話の中に出てくるけれども、しかしアポロ自身はヨハネの洗礼しか知らなかったという記事が出てきます。あるいは19章1節から7節にも、ヨハネの洗礼しか知らなかった人々がパウロに出会って主イエスのことを知らせてもらい、改めて主イエスの名による洗礼を受けて教会の肢となったという記事が出てきます。そのようにヨハネの影響はずっと後まで残っていたので、「洗礼者ヨハネは何者だったのか。ヨハネは主イエスの道備えだったのか、それともヨハネ自身がメシアだったのか」という問いは、かなり長い間、教会の人々にとっても頭を悩ますような問いになったのでした。
今日の箇所というのは、主イエス御自身が、この洗礼者ヨハネについて、どんな役目や立場に立つ人物だったのかということを人々に教えておられる箇所です。
主イエスはヨハネのことを教えるために、まず人々に問いかけられるのです。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」、つまり、荒れ野でヨハネが人々に悔い改めを勧め、洗礼を施していた時、「あなたは一体そこで何を見ようとしていたのか。ヨルダン川沿いに沢山生えて風にそよいでいる葦を見に行ったのか」とお尋ねになります。もちろん人々は、そんな草を見るためにヨルダン川のヨハネの許に行った訳ではないのです。
では、「しなやかな服を着た人たちを見に行ったのか」、つまり、この世的に裕福であり、いかにも成功を収めている人、華やかできらびやかに着飾った人に憧れて、自分も是非そうなりたいと願ってヨハネの許を訪れたのかとお尋ねになります。仮に、そのようなこの世的成功に憧れてヨハネの許に行ったのなら、それはそもそもが行く先を間違えていると主イエスはおっしゃいます。「そういう豪華な暮らしをする人に会いたければ、荒れ野ではなくて宮殿に行った方がよろしかろう。ヨハネの許を訪れた人たちは、そういうこの世の繁栄を求めて行った筈はないだろう」とおっしゃるのです。
「では、何を見たいと思って荒れ野に行ったのか」と3度目にお尋ねになり、「預言者か」と尋ねられ、そして、「まさにその通りだ」とおっしゃるのです。「そうだ。確かにヨハネは、神があなたがたに送られた預言者だった。しかも単なる預言者ではない。預言者以上の者と言えるような人物だった」とおっしゃいます。26節27節に「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」とあります。「預言者か」と問うて「そうだ」と御自身が答えておられる言葉と、「だが言っておく、預言者以上の者である」という言い方は、字面の上では矛盾しているようにも思われます。けれども主イエスは、「ヨハネという人物は確かに預言者である。その点は間違いないけれども、彼は普通の預言者ではなくて、いわゆる預言者という範疇を越えている者なのだ」ということを言おうとしておられるのです。
主イエスが27節で引用しておられるのは、旧約聖書の一番終わりの書物であるマラキ書3章1節の言葉です。そこには「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と記されています。主イエスは、「ヨハネはまさしくこのマラキ書に書かれている人物なのだ」とおっしゃいました。旧約聖書に登場する多くの預言者たちは、それぞれに神からの御言をお預りして、その言葉を自分と同時代の人々に告げ知らせるという役目を果たした人たちです。神から言葉をお預りしてそれを語るので、旧約聖書の預言者たちは「預る言葉の者」と記されます。洗礼者ヨハネも、神から預った「悔い改めるように」という言葉を人々に宣べ伝えたのですが、そのヨハネの活動は、それ自体もこのマラキ書の中に預言されている点が他の預言者たちと際立って違っている点なのです。
今日のところで主イエスは、マラキ書3章1節の初めのところ、「使者を送る。『あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と、はっきりとしたポイントとなる言葉だけを抜き出しておっしゃるのですが、このマラキ書を先まで読みますと、3章1節以外にも、洗礼者ヨハネの活動をありありと思い起こさせるような言葉に出会うことになります。たとえばマラキ書3章7節には、ヨハネが告げ知らせた悔い改めへの招きとそっくりな言葉が出てきます。3章7節に「あなたたちは先祖の時代から わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると 万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う どのように立ち帰ればよいのか、と」とあります。あるいは同じ3章19節には、ヨハネが脱穀場の麦をすべて箕によって拾い集め、収穫物となる麦は倉に入れ、役に立たない殻や藁は火に投げ入れてしまう方がおいでになると人々に警告したのと、よく似たことが教えられます。19節20節に「見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る」とあります。これはまさしく、ヨハネが宣べ伝えた「来たるべき方」の姿とそっくりです。ヨハネは、「高慢な者たち、悪を行う者たちは、炉にくべられ焼き尽くされてしまう」と警告して、そのような決定的な御業をなさる裁き主が現れる前に悔い改めるようにと人々に勧めたのでした。まさにヨハネは、こういう最後の方がやがてやって来ることを告げ知らせた、そういう意味で、来たるべき方の道を備えた特別な預言者でした。
従って主イエスは、ヨハネのことを「およそ女から生まれた者のうち最も偉大な働きをした者だ」と高く評価なさいました。28節に「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とあります。ヨハネは、マラキ書に語られていたその日と言われる日が、今実際にやって来ようとしている、自分の後から真の主がおいでになるのだから、「あなたたちは、神さまの前を生きる者として、生き方の向きを変え悔い改めるように」と呼びかけました。「あなたたちはもはや、自分の願いや欲求ばかりを追い求め、自己実現を追究して生きるようなあり方をしている場合ではない。自分の思いや願いを人生の目的にするのではなくて、あなたに命を与え、あなたの命を持ち運んでくださる神さまの御心を尋ね求め、神さまに喜ばれる生き方をする者になりなさい」と宣べ伝えました。そういうヨハネの働きが地上の他のどんな人の働きよりもまさって偉大な働きであったと、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と、主イエスはおっしゃるのです。
しかし主イエスは、そこに更に一言を付け加えられます。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。ここに言われている「神の国に生きる者」とは、一体誰のことを指すのでしょうか。神の国ですから天使たちでしょうか。そうではありません。主イエスの訪れによって、まさにヨハネが宣べ伝えた神の御支配がここに始まっているのだということを聞かされ、そのことを信じて生きる人々、主イエスに伴われ、支えられながら、それぞれの命を生きてゆく人々が、ここに言われている「神の国に生きる者」です。それは、キリストの教会に招かれて、礼拝の中で「主が共に生きてくださる」ことを聞かされ、信じて生きる人たちのことです。そういう人たちのことを、主イエスは最後のところでおっしゃっているのです。
ですから、今日もし私たちが聖書の言葉を聞いて、「主イエスが確かにわたしと共に生きてくださる」と信じて生きようとするならば、ここにいる私たちもまた、「神の国に生きる者たち」です。主イエスの弟子たちも、また、今の時代に教会に連なる私たちも、「神の国に生きる者」に含まれています。「今、神の憐れみと恵み、慈しみが私たちの上に注がれている。神の愛に支えられて今日を生きる者とされている」と信じて生きる生活は、洗礼者ヨハネが来たるべき救い主を宣べ伝えて生きた生涯にまさって大きなものであり、また神に喜ばれるものなのです。
しかし、どうしてでしょうか。「あなたの人生は、洗礼者ヨハネの生涯にまさって偉大なものだ」などと聞かされてしまうと、戸惑いを憶える方もおられるでしょう。「悩みがあり、困難に直面し、限界を感じ、時に悲しい思いをする、そんなわたしの人生が、どうしてヨハネの全生涯よりもまさって偉大だと言えるのだろうか」と不思議に思うでしょう。けれども、主イエスがこのようにおっしゃることには、あるはっきりした理由があるのです。それはどういうことかと言うと、洗礼者ヨハネが心の底から見たいと思っていた一つの事柄、あるいは見ることができなくても、せめてその知らせを聞いて信じたいと願っていたけれどもとうとう聞くことができなかった一つの事柄について、私たちは見聞きすることを許され、信じることができるようにされているという、その一点で、私たちの人生は、ヨハネの生涯にまさって幸いなものとされているのです。
ヨハネが心の底から願っても見聞きすることのできなかった一つの出来事というのは、「真の救い主である方が十字架に掛かって死なれ、復活した」という出来事です。ヨハネは主イエスよりも先に首をはねられて亡くなりましたから、遂に主イエスの十字架と復活について知ることはできませんでした。ですからヨハネは、あくまでも自分自身のあり方がとても大事だと考えました。ヨハネは、「わたしの後からおいでになる来たるべき方が、この世界の歴史をすべて完成させる終わりの時には、私たちの今のあり方では決して神の前に通用しない。だから心を入れ替え、神さまに信頼して、正しい行いをしなさい」と教えました。「もしそういうあり方が出来なかったら、神の御前に通用しない者として永久に追放され、炉の火で焼かれて灰になってしまう」という将来を教え、「悔い改めるように」と勧めました。それは、ヨハネ自身が神の前に真剣に生きようとするあり方、人間のあり方としては最上のものでしたけれども、しかし、神の憐れみと慈しみの御心、そのなさりようについては、尚、ヨハネは知ることができず、理解が及ばなかったのです。
確かに主イエスはヨハネの後から来られ、ヨハネが人々に教えたように「人間の罪と過ちの違反に終わりをもたらす方」です。ところがそのなさり方は、ヨハネの想像をはるかに超えるものでした。即ち、一人ひとりの罪を厳しく問いただしてその罪を本人に負わせ処するのではなくて、むしろすべての人間の罪を御自身の側にそっくり引き受けておしまいになり、人間のすべての罪の報いとして御自身が十字架の上で苦しみ亡くなる、そういう仕方で、人間の罪を十字架の上で滅ぼしてくださったのです。主イエスが十字架に掛かってくださったことで、私たち自身の罪の過ちには清算がつけられているのです。
そして主イエスは、その贖いの御業をくり返し指し示しながら、「あなたの罪は十字架の上で赦されている。あなたはここからもう一度、罪を赦された者として、清らかな者として生き直すことができる。神さまの憐れみと慈しみを受けて生きることができる」と招いてくださるのです。復活の主イエスが絶えず伴い、十字架の出来事を示してくださるのです。「どんなにあなたが弱く愚かであっても、それでもあなたはここからもう一度、生きることができる。清い者とされているのだから、それにふさわしく生きるように」と、慰めと生きる力とを与えてくださるのです。そのような主イエスの御業を聞かされて信じ、生きる人は、その人自身が、「主イエスが確かに復活して、私たちに御言をかけてくださっている。わたしはもう一度ここから生きることができる」ということの証人として、生きる者とされるのです。
主イエスは、そういう不思議な神のなさりようを指差しながら、「あなたがたは、洗礼者ヨハネよりも偉大だ」とおっしゃいます。ヨハネは極めて真剣に、神の前に生活することを考えて生きましたけれども、遂に主の復活の証人になることはできませんでした。一方、私たちは、どんなにふつつかで頼りなく、また間違ったことを行ったり言ったり、思ったりすることがあるとしても、そういう私たちがよみがえりの主に伴われ、「あなたのために十字架の出来事はある」ことを聞かされ、今の時を生きるのです。「わたしは生きている。だから、あなたがたも生きることになるのだ」と繰り返し復活の主イエスから呼びかけられ、勇気を与えられて生きる人生は、どんなに輝かしく多くのことを成し遂げたように見える人生よりも、はるかにまさって偉大なのです。
私たちは、そのような十字架と復活の主イエスが共に歩んでくださるのだということを、是非とも心に留めて生きる者とされたいと思います。
もっとも、「死んだ人が生き返る」ということ、「主イエスの復活」ということは、分からないと思う方もいらっしゃるでしょう。そのような場合には、洗礼者ヨハネが主イエスに向かって、「来るべき方は、あなたでしょうか」と真剣に尋ねていた姿を憶えることが良いでしょう。そして、復活のことは分からないというしこりがあるとしても、「主イエスはわたしのために十字架に掛かってくださり、よみがえられた。その主イエスがわたしと共に歩んでくださっている」と、幸いにも信じることができた人たちがどんな生活を送っているか、教会の中で信仰に支えられて生きている人たちの間でどんなに麗しいことが信仰の実りとして生じているかということも、一つ一つ心に留めることが願わしいことでしょう。
主イエスは、ヨハネのあり方、神の前に誠実に生きようとした姿をも麗しいものだと言って受け容れてくださっています。ですから、主イエスの復活がたとえ完全には分からなくても、主はそういう人とも共に歩んでくださり、「あなたも今日を生きて良いのだ」とおっしゃってくださっている言葉に耳を傾けたいのです。また、「どうして主イエスが復活したと言えるのか。主イエスは来るべき方なのか」という問いを持ちながら生きることも、願わしいことなのです。
私たち自身の理解の度合いや情熱の強さが私たちを救うのではありません。そうではなく、事実として、私たちのために十字架に掛かり復活された主イエスが、昨日も今日も、私たちに伴い歩んでくださるのです。主イエスが御言をかけ、私たちが生きることを応援し、慰め、力をくださいます。それこそが、私たちを生かす救いです。
十字架と復活の主イエスが常に共に歩んでくださることを賛美して、生きる者とされたいのです。お祈りを捧げましょう。 |