2024年8月 |
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8月4日 | 8月11日 | 8月18日 | 8月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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来たるべき方は? | 2024年8月第2主日礼拝 8月11日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第7章18〜23節 |
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<18節>ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、<19節>主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」<20節>二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」<21節>そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の目の不自由な人を見えるようにしておられた。<22節>それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。<23節>わたしにつまずかない人は幸いである。」 |
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ただ今、ルカによる福音書7章18節から23節までをご一緒にお聞きしました。 ヨハネは2人の弟子を呼び、主イエスへの使者として送り、尋ねさせました。19節「主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。この時、ヨハネが2人の弟子を通して主イエスに尋ねさせた言葉は、後に大変有名な言葉となりました。けれども、新約聖書学者の中には、これはヨハネが質問をした言葉ではなくて、むしろヨハネが主イエスへの信仰を言い表している信仰告白の言葉として聞くべきだと主張する人々もいるようです。即ち、「来るべき方は、あなたでしょうか」と問い合わせているのではなくて、「来るべき方は、あなたです」と、主イエスがまさしく「救い主、主である」と言い表しているのが、このヨハネの言葉だと説明される場合があるのです。どうしてそういうことが起こるのかというと、元々のギリシア語の聖書を読みますと、最も古い時代の写本は句読点や疑問符のような補助の記号が一切つけられていない、文字だけの文章で記されているからです。今日の説教題には、わざと、「来たるべき方は」の後ろにクエスチョンマークを入れて、問いの形の題にしました。けれども、この最後のクエスチョンマークをもし取り除いてしまえば、少し説教題の印象が変わるかも知れません。このヨハネの言葉を、疑問ではなくて主イエスへの信仰告白だと考えるならば、ヨハネはこの時、主イエスに質問をしたのではなくて、牢の中から主イエスの活動を応援していて、「あなたこそ、来るべき方だ。他の人物を待ったり、捜したりするだろうか」と弟子に言って、主イエスの活動を励まそうと激励の言葉を寄せたことになります。 ところで、ヨハネの2人の弟子たちが主イエスの許にやってきて、先生であるヨハネから言いつけられた言葉をオウム返しに主イエスに語ったとき、主イエス御自身は、神から遣わされた方としての御業に従事しておれたことが述べられています。21節に「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の目の不自由な人を見えるようにしておられた」とあります。このような御業を続けておられる中で、主イエスはヨハネの弟子たちにお会いになります。そして、ヨハネからの言葉を聞いて、お答えになります。その答えというのは、何かの事情を説明するとか、あるいは様々な証拠を挙げてくどくどと一つひとつを語るというのではありません。主イエスのお答えはまことに率直でした。まるで、職人が自分の作った製品を示しながら、「この品質の確かさは、あなたが自分で確かめたら良ろしかろう」と言っているような答え方をなさいます。即ち、主イエスが神から遣わされた方としての御業を行っている、その事実を、ヨハネの弟子たちがここで見たり聞いたりする経験を、そのままヨハネに伝えるのが良いだろうとお答えになりました。22、23節に「それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」とあります。 このことはヨハネの側から考えるならば、主イエスの許に送った2人の弟子たちが帰ってきて、主の許で起こっている出来事を聞かされたならば、後はヨハネ自身が聖書の中に語られている事柄を思い起こしながら自分で確かめるのが良いと言われているようなことです。そして主イエスは、御自身がなさっていることを聖書に照らし合わせて考えるなら、きっとヨハネはきちんとした結論を得ることができるだろうと、そのことを少しも疑ってはおられません。こと、救いに関する限り、聖書以外にはどんな物差しも無いと、主イエスは考えておられます。たとえ洗礼者ヨハネであっても、主イエスが父なる神から遣わされた救い主であるかどうか、神による救いへの時が始まっているのかどうか、そのことを知る手掛りは聖書を置いて他にはどこにも与えられていないと、主イエスは思っておられます。 ところで、ヨハネが弟子を送って主イエスに尋ねさせた言葉は、最初に申し上げたように、大変有名な言葉となりました。「来るべき方は、あなたでしょうか」という言葉です。この言葉は、ヨハネ自身の問いか、信仰告白か、はたまた弟子教育のために語らせたのかは、様々に考える人がいて色々に取り沙汰されます。けれども、この言葉がこんなにも多くの人たちによって問題にされ、深く考えられていることは、ここにある問いが決してヨハネ一人だけの疑問ではないということを表しているのではないでしょうか。「主イエスとは一体何者なのか。この方は本当にヨハネが言ったとおり、ヨハネの後からやってこられる『来るべき方』、即ち、神さまと私たちの間に一本の橋をかけ、神さまと私たちの間柄を一つに結びつけてくださる救い主なのか。それとも単なる一人の人間に過ぎない方で、私たちはこの方以外にも神さまの助けがもたらされることを心を尽くして待ち望まなくてはならないのか」という問いは、主イエスへの信仰の事柄をいつも真険に問い続ける信仰者であれば、きっと多くの方が直面する問いなのではないでしょうか。 ルカによる福音書の始まりのところで、まだヨハネが逮捕される前、盛んに「神の国の訪れ」について人々に伝えていた頃に、ヨハネが来るべき方について思っていたことは、3章16、17節に「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」と記されています。ヨハネにとっての来るべき方は、この言葉を聞く限り「裁きの主」でした。手に持っている箕というのは柄のないちりとりで、脱穀場の床に散らばっている麦と麦殻をすべてすくい取る道具です。これは例えで、その箕によってすべての人を最後の一人まですくい上げ、そしてその一人ひとりを収穫物として倉に入れるのか、それとも役に立たない殻として火にくべるのかを決定する方、それが、ヨハネが理解していた「来るべき方」でした。従ってヨハネは、自分の後から来られる方を「来るべき方」と呼ぶよりなく、救い主であるとは言いませんでした。ヨハネの理解では「来るべき方」は恐るべき裁きの主であって、ヨハネ自身はその裁きに備えてイスラエルの人々に警鐘を鳴らし、「あなたがたは罪を離れなければならない」と言って、悔い改めを決心させることが自分の務めだと思っていたのです。 私たちが今生活している現実は、主イエスが既に十字架による救いを確かにもたらしてくださっているにもかかわらず、私たちはそのことをしばしば忘れて、まるで、今自分が直面している苦しみや嘆きや痛みが決して無くならない第一の事柄であるかのように思うことの多い生活なのです。ですから主イエスは最後に、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいます。人間につまずくという言い方は、教会の中でしか聞かない独特な言い方ですけれども、「つまずく」とは、主イエスが救い主でいてくださることを忘れて他の事柄の方がより重く、重大に感じられてしまうことを表しています。 まだ一切が完成され神の御国だけが地上にあるのではなくて、それ以外の人間の思い煩いや心の惑わしが多くあるために、私たちの地上の信仰生活は、時には微かになってしまったり、寄る辺のない不安なものになってしまう場合がありますが、しかし私たちがどんなに動揺するとしても、主イエスが確かに十字架に掛かってくださったという事実は消えることがありません。主イエスの十字架の赦しによって清められた新しい命の営みは、確かにこの地上に始められています。私たちが不安を覚える時にも、なお地上の教会はこの世界の中に存在し続けていて、私たちが主イエス・キリストを思い起こすようにと、私たちを招いてくれるのです。私たちは、そういう主イエスの御業の上に立てられた新しい命を与えられ、生かされているということを憶えたいと思います。 人間の罪による過ちや破れがいかに多く、その度に嘆くことや悲しむことがあるとしても、私たちには御復活の主が共に歩んでくださるのです。主イエスが私たち一人ひとりに「あなたは、わたしによって赦された新しい命に生きて良いのだ」と呼びかけてくださっています。その神の言葉を耳にしながら、信仰を励まされ、感謝と賛美と希望に生きる、幸いな者たちとされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |
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