ただ今、ルカによる福音書7章11節から17節までを、ご一緒にお聞きしました。
この箇所は、宗教改革者のマルチン・ルターが大変愛していて、その生涯において何度もくり返して教えた箇所として知られています。ある時には、連日この説教をした中で、「この記事は、毎日説教されても良いくらいだ。もしこの説教を繰り返し聞いて聞き飽きる人がいるなら、その人はここに語られている事柄をまだ理解できていないに違いない。ここには、たとえ私たちが今日死ぬ者だとしても、ここにおられる方が死からの救い主としておられるということが記されている。私たちは皆、例外なく、やがて訪れる死に向かう道を歩んでいるけれども、そんな私たちをすっかり取り囲むように、私たちの前にもすぐ後ろにも、また傍にも、ぴったりとこの方が寄り添ってくださっているお姿がここにある。私たちすべての者と共に、死への道を歩んでくださる方がこの記事の中に立っておられる。そのことをしっかりと聞き取ることがとても大切なのだ」と語ったのだそうです。そのように聞かされてこの記事を読むと、確かにルターの言ったことも頷けるように思います。ここには確かに、死の現実に立ち向かい、そして一人の若者の命を取り返して、やもめであった母にお返しになった主イエスがおれるのです。
ルカによる福音書を読んできまして、今日の箇所は、初めて主イエスが「主」と呼ばれて行動をしておられるところです。13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い」と言われていますが、まさにこのところで、主イエスが初めて「主」と名指しされているのです。主イエスは死に立ち向かい、人間を死の手から取り返して生きる者としてくださる主なのだということが、ここで最初に物語られます。
11節と12節に「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」とあります。ナインという町は、ガリラヤのナザレから南の方に9キロ程入った山里であるようですが、主イエスがその町にお入りになろうとした時、町の門が開いて、一つの葬列、お弔いの行列が出てきました。あるやもめであった婦人の一人息子が亡くなったと記されています。どうしてこんな気の毒なことが起こったのかと思いながら、町の人たちが大勢、このやもめに付き添っています。しかし彼らには、何をしてあげることもできません。重苦しく、悲しく、慰めを見出せないまま、人々は亡くなった息子を土に埋めるため、山麓の道を進んでゆきます。
一方、町に向かって進んでいる主イエスの側も、一つの行列になっています。主イエスを先頭に、こちらは弟子たちや群衆たちが従っています。こちらは「命の主」を先頭に頂く行列です。こちらも山麓の道を進んでいます。ですから、やがてこの2つの行列が行き遭うことになります。そこでは果たして何が起こるのでしょうか。それとも何も起こらず、ただすれ違うのでしょうか。
ごく普通に考えるならば、この2つの行列は互いにすれ違うことになりそうです。即ち、一方の行列が他方の行列のために、しばらくの間、道を譲って脇に寄り、相手の行列をやりすごしてから、また道を進むということになるでしょう。そして、どちらが道を譲るかと言えば、それは当然、主イエスの側の行列が脇によって、葬りの列を先に通すことになるでしょう。今日でもそうですが、御遺体を乗せた霊柩車は後戻りしません。死は一方通行の出来事だからです。棺を担いだ葬列はそのまま道を進んでゆきます。そこに遭遇した人々は、死に対しては道を譲り、帽子を脱いで頭を垂れ、手を合わせ、やり過します。
ごく当たり前にそうなるだろうと予想して先を読むと、このナインの町の門の前で生じた出来事が、どんなに想定外の驚くべきことだったかが分かるのではないでしょうか。棺を担いでいる行列に対して、主イエスは道を譲ろうとなさいません。却って、その行く手に立ち塞がります。死の行列に対して、死の勢力に対して、弔意を表すことをしないのです。おそらく付き添いの人たちは、何と無礼な立ち振る舞いかと思い、主イエスに対して眉をひそめ、険しい目を向けたのではないでしょうか。しかし、主イエスは死の現実が当たり前のように人間生活を支配するようになることを決してお認めになりません。ここには、死が人間の主人となることを決してお受け入れにならない、そういう方がいらっしゃいます。
主イエスは更にはっきりとした行動に出ます。13節14節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」とあります。主イエスが葬列の前に立ち塞がり、棺に触れられます。まるで当たり前のことのように、手を伸ばして棺に触れられるのです。担いでいる人々が立ち止まり、悲しみの重荷を主イエスの足下に置くと、そこで誰も予想しなかったことが起こります。息詰まるような静けさの中で、二度、主イエスの命令の言葉が発せられます。
初めは「もう泣かなくともよい」と語りかけられます。このように語りかけられているのは、一体誰でしょうか。やもめである母親でしょうか。それとも、やもめの周りで盛んに泣いてみせている泣き女たちに対してでしょうか。いずれにしても「もう泣かなくともよい」と、主イエスは御言を掛けられます。悲しみと嘆きで最大限に表現することでしか慰めを得られないと思い込んでいる悲嘆への対処の道が遮られて、そこに主イエスによる新しい光が射し込むのです。
主イエスは幾分声を励まして、次の言葉をおっしゃいます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。ここに記録されている2つの言葉は、まるで当たり前のことのように記されていますが、しかし、いずれも共に世をひっくり返すような言葉です。「もう泣かなくともよい、泣き止みなさい」という主イエスの命令は、普段私たちが、深い嘆きの底に沈んでいる人の心など考えず、思わず掛けてしまいがちな上辺だけの心ない慰めの言葉ではありません。この言葉の根源に、まさに主イエスが立っておられます。主イエスがこの言葉を語っておられるということが、とても大切なことです。この時点ではまだ誰も知る由もありませんでしたが、やがて、主イエス御自身が人間の罪を全て背負い、身代わりとなって十字架にお掛かりになり、そして復活して人々を新しい命に招いてゆかれます。そういう主がここに来て、立っておられるのです。
主イエスはまさに主であるお方として、この現場に臨んでおられます。死が最終的な勝利者であり、すべてを従わせる支配者であるという悲しい現実に、主は敢然と立ち向かわれるのです。母親も、また周りの人々も、今や死の傍らに立つのではない。そうではなくて、主イエスによってもたらされる命の傍らに立つようにされるのだという意味合いを込めて語りかけられます。復活の主の御言を信じて生きる人は、その御言によって、涙から解放され、どんな状況にあっても生きる者とされるのです。キリスト者には主イエスが、「もう泣かなくともよい」と御言を掛けてくださるのです。
そして、もう一言、主イエスがおっしゃった言葉にも注目させられます。いかにも当たり前のことをおっしゃるかのように、主イエスは一人息子に言葉をかけられます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。まるで軍隊の上官が、部下の兵士に命令を下すかのような調子で、主イエスは亡くなっている人にお命じになります。「あなたに言う、起きなさい」と。
すると、思いがけないことが起こりました。15節です。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。ここに起こっていることは、決してあり得ないような思いがけないことです。ですがここには、淡々と出来事だけが記されてゆきます。ここでは、死と命がせめぎ合うような、ドラマチックな激しい争いは何も記されていません。まるで、主イエスがおっしゃったことは当然その通りに起こるというような調子で、一切のことが語られています。というのも、聖書がここで語ろうとしていることは、生と死のドラマのようなことではないからです。
今日の箇所では、死と命が、あるいは死の勢力と命の源である神がせめぎ合い、互いにぶつかり合っているのではありません。手に汗を握るような戦いがあって、その行く末をはらはらしながら見守り、どちらが勝利するかというようなことが、この箇所に語られている訳ではないのです。勝利者ということであれば、それはすでに最初から決まっています。同じような力を持つ二つの勢力が競いあっているのではないのです。ヨハネによる福音書1章の言葉を借りて言うなら、「光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」と言われているように、勝負は最初から決まっています。まことに大きな憐れみに満ちた明るい光が、この記事には満ちています。そして、その明るさに気づいたからこそ、マルチン・ルターは、この箇所が何度説教されても良いと言ったのです。
今日の記事で、中心となっている大きな事柄は何でしょうか。死んだ若者が生き返らされて母親の許に返されたことでしょうか。確かに、そのことを見て大勢の人々が畏れの思いを抱き、神を賛美したことが、ここに記されています。出来事の上辺を見るならば、このようないわゆる奇跡が大いなる出来事なのだと考える人もいるかも知れません。
けれども、この記事の本当の中心は、おそらく13節の最初に語られていることではないでしょうか。「主はこの母親を見て、憐れに思い」と記されています。この箇所が説教される時には大抵触れられることですので、御存知の方も多いと思いますが、この「憐れむ」という言葉は、主イエスがたとえ話の登場人物についておっしゃる以外では、新約聖書全体の中で、主イエス御自身にだけに用いられる特別な言葉です。「憐れに思った」と訳されていますが、元々の言葉は、「内臓をむしられる」とか「はらわたを食べられてしまう」という文字が書いてあります。主イエスがここで「憐れまれた」というのは、一寸やそっとの思いではなく、七転八倒してもおかしくないような激しい感情の動きを伴う痛みなのです。そういう深い痛みを、主イエスはこの出来事を通して感じられたのでした。
主イエスがこの葬列の前に立ちはだかったのも、そんな激しい思いに衝き動かされたからなのですが、ここに述べられていることの中心は、神も主イエスも、そういう激しい思いをもって、私たち人間の死の現実を御覧になっておられるということなのです。
新約聖書は全体がギリシャ語で書かれていますが、ギリシア人たちは誰も、神がそんなに激しい思いをもって私たち人間の生活を御覧になっているとは思っていませんでした。ギリシアの神々は、自分たちだけの神々の世界に暮らしていて、時おり面白半分に人間の世界に下りてきてはちょっかいを出したり、美女を誘惑したりするものの、人間の運命や境遇などには無関心です。自分たちの生活に忙しく人間のことなど心に掛けていない、それがギリシア神話の世界です。ですからギリシアの人々にとって、神々が人間の悲しみや苦しみの現実を見て、自分も深く悲しんだり嘆いたり、苦しんだりすることなどは考えられないことでした。私たちはギリシア人ではありませんが、日本人にもギリシア人と似たところがあるのではないでしょうか。私たちもまた、普段の生活の中では、神が私たちの命と人生に深く関わっておられることを忘れ、自分たちだけで一切が完結しているような思いを抱きながら、神抜きで当たり前に生活しているようなところがあるのです。
ところが今日の箇所は、そんな生活をしている私たちに語りかけられているのです。「主はその母親を見て憐れに思った」、この母親の嘆きと悲しみを、まるで御自身の事のように感じ、痛み、そして死に対決して、息子も母も、命の喜びへと取り戻して下さる、そういう方が「主」としておられることを、今日の箇所は語っています。
主イエスがこの日、母親と周りにいた人々に語りかけられた「もう泣かなくともよい」という御言、そして死んでいた息子に語りかけられた「あなたに言う。起きなさい」という2つの御言は、共に決して大音量で叫ばれたのではありません。一人ひとりに向かって語りかけられた静かな声でしたが、しかしこれは間違いなく、死の支配から人間を解き放つ救いの言葉でした。そしてそれは、「一体誰が、私たちの地上の人生の本当の主人であるのか。私たちの人生と命の本当の主人はどなたであるのか」ということを教える言葉でもあったのです。今日の出来事は、主イエスこそが真に私たち人間の命の主であるのだということを示すために起こった、しるしの出来事です。
そして私たちは、この箇所を聞いて、主イエスこそが私たちのために「はらわたをむしられている」ように痛み、御心にかけてくださる、私たちのまことの主であり、私たちの人生に強い関心と思いを向け伴っていてくださることを信じるように招かれているのです。
しるしの出来事とは、主イエスが私たちにも伴ってくださることを知らせるための出来事なので、このようなことは、この後、沢山起こるということにはなりません。ナインのやもめも息子も、この後亡くなったことは間違いありませんし、その後も幾千万の棺がストップをかけられることなく墓地に埋葬されてゆきます。
しかし、たとえ私たちの傍らに死の出来事が起こる時でも、尚、私たちは、今日の記事から、「本当の命の主がどなたであるか」を知る者とされているのです。たとえ死に取り囲まれても、尚、そのところで私たちの命を励まし、そしてそこを生きることができるように導いてくださる永遠の方がおられる、この方が私たちと一緒に死の只中を歩んでくださり、そして甦って「あなたはわたしのものだ。わたしがあなたと共に生きるのだから、あなたは今日を生きる者となる」と呼びかけてくださっていることを覚えて、主の御名を崇める幸いな者たちとされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |