聖書のみことば
2024年6月
  6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月30日主日礼拝音声

 師と弟子
2024年6月第5主日礼拝 6月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第26章37〜42節

<37節>「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。<38節>与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」<39節>イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。<40節>弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。<41節>あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。<42節>自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 ただ今、ルカによる福音書6章37節から42節までを、ご一緒にお聞きしました。37節と38節の初めに「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とあります。
 ここに教えられている事柄は何でしょうか。ちょっと聞くと、この世を生きてゆく上でどんなことに心掛けたら良いかという、いわゆる処世術のようなことが述べられているように感じられます。けれども、処世術の勧めだと思ってこの言葉を聞こうとすると、「はて、本当にそうだろうか」と、つい言いたくなるような事柄が並んでいることに気づくのではないでしょうか。「他人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」、本当にそうでしょうか。ここに書かれている「裁く」という言葉は、英語のクリティサイズ(criticize)、「批判をする、非難をする」という言葉の語源になった文字です。裁くなというのは、他人を批判したり非難したりするなということであるようです。それをするなという教えはある程度分かる気もしますが、しかし、自分の方から他人を批判しないように心掛けていれば自分も非難されることがないというのは、果たしてそうでしょうか。
 同じことは、次の「他人を罪人だと決めるな」ということにも感じさせられます。これは誰かに有罪判決を下すという、裁判の用語が書いてあります。他人を批評するだけではなくて、はっきりその人を悪人だと決めつけてしまうということです。これも、他人のことを決めつけないように心掛けることは良いとしても、そう心掛けさえすれば自分は誰からも悪く思われないかと言えば、本当にそうだろうかという気がします。自分を誤解されるという辛い経験は、どなたもお持ちではないでしょうか。誤解され、怪しからん人間だと思われ、挙句の果てに絶交されるようなことは決して稀なことではありません。自分の側が相手を決めつけなくても、相手から決めつけられて悲しい思いをさせられることは、あり得るのではないでしょうか。
 3番目の「赦し」もまた同じです。人を赦せば自分も赦されると決まっている訳ではないことを、私たちは経験上、よく知っているでしょう。そして、最後の「与えなさい」という勧めも、本当にこんなことをしてしまったら、それこそ私たちの生活は、すぐに立ち行かなくなるのではないでしょうか。
 これらの言葉を、この世を生きる上での処世術と考えて受け取るならば、この世をうまく渡れるどころか、うんと損をして大変な思いをするに違いないと感じるのです。

 では、ここに教えられている事柄は一体何でしょうか。これは主イエスによってもたらされた新しい生活、即ち、神の御国の民となって生きる信仰生活の手ほどきなのです。これは、地上の生活の処世術ではなくて、神が私たちをどのように扱い、持ち運ぼうとしておられるかを土台に据えた上での信仰生活のあり方です。私たちは主イエスが十字架に掛かってくださって、私たちの身代わりとなり、罪を贖って頂いた者として赦しの下に置かれています。ですから、他人を裁いたり罪に定めたりせず、赦すようにと教えられるのです。実際に私たちが赦しの下に今を生きているからです。また私たちキリスト者は、そういう生活のすべてを主イエスの執り成しによって与えられているのです。ですから、与えるようにと勧められます。ここに教えられている4つの事柄は、いずれも、信仰を持って生活する時に、その人が地上の生活でどのような姿をとるようになっていくかを教えているのです。

 ところで、主イエスはこの時、信仰による生活のあり方を教えた後で、印象に残るたとえ話を2つなさいました。道案内に立とうとする目の不自由な人のたとえと、目の中に丸太のある人のたとえ話です。この2つのたとえ話は、いずれも「見ること」に関係しています。もちろん、肉眼で見る話ではありません。信仰の目、あるいは信仰の視力、即ち、理解力のことが考えられています。39節に「イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか』」とあります。このたとえ話は、16世紀にネーデルランドで活動したペーター・ブリューゲルが絵に描いたことで知られています。その絵には画面の左上から右下に向かって一本の道が描かれていて、その道の上を、5、6人ほどの目の不自由な人々が、お互いの杖の端を持ってつながりながら歩いています。この人々は左上から右下に向かって歩いているのですが、画面の一番右下のところに大きな穴が描かれていて、先頭を歩いていた人はその穴の中にもんどり打って落ちてゆく光景が描かれています。この絵の中では左右が時間を表しています。杖につかまりながら歩く人々の行列は左から右に進んでいます。ですので、この絵では左が過去であり、右が将来を表しています。信仰の目が不自由で神の保護と導きの土台があることを分からない人は、時の流れの中で左上から右下へ、即ち、神から次第に遠ざかるように歩いて行き、遂に深い穴に落ち込んでしまうことになります。ブリューゲルの描いたこの絵は、神の事柄を理解せず、確かな杖を持たないまま人生を進もうとする人々への一種の警告を表していると言えます。
 主イエスはこのたとえを話された直後に、40節のようにおっしゃっています。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。ちょっと聞くと、穴に落ち込んでしまう人々の行列のたとえ話と主イエスの言葉がどのように関わるのか、戸惑いを覚える言葉であるようにも感じられます。それにそもそも、主がおっしゃるとおり、「弟子は師にまさるものではない」と決まっているのだとしたら、人間の歴史には進歩などあり得ないことになってしまうでしょう。新しい時代に生きる人々、それは元々弟子だった人々ですが、彼らがその先生たちを追い越してずっと先に進んで行くからこそ、人類の歴史は進歩することができます。もしも弟子が決して師よりも上には行くことができず、弟子が師と並ぶ程度にしかなれないのだとしたら、人間の歴史は絶え間ない退歩の連続であって、やがていつか滅んでしまうことになるでしょう。そんな風にこの言葉を受け取ると、主イエスがここでどうしてこんなことをおっしゃるのか、訳が分からなくなってしまうに違いありません。
 主イエスがここで「師」とおっしゃっているのは、実は主イエス御自身のことです。そして「弟子たち」と言われているのは、この場面では直に主イエスの話を聞いている弟子たちですけれども、しかし主イエスはもっと広く、主イエスを信じて生きてゆく弟子たち全体、即ち、歴史の中に現れる教会の群全体を念頭に置きながら話しておられます。40節の言葉は、主御自身と教会との関係を表しているのです。40節、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。この言葉は、地上の教会の群れが身をもって主イエスを証しする証し人の群れになるのだ、ということを告げています。
 直前に語られているたとえ話とこの言葉は一体、どういう関わりがあるのでしょうか。直前に言われていたことは、次第に神から遠ざかり、遂には穴の中に落ち込んでしまう人間の行列の姿でした。どうしてそんなことになってしまうのかと言うと、先頭に立つ人が確かな視力を持たないのに、後に続く人たちを導いているからです。それで先を行く人たちから順々に穴に落ちていくのです。これが信仰の事柄だと気づいて読むと、どうでしょうか。先頭に立つ人が神の保護や導きや神のなさりようといった神の事柄について、何も見えず分からないくせに、まるで分かっている者のような振りをして、自分の杖を差し出し、続く人に握らせて歩んでいたため、危険な穴に気づかず転落してしまったのです。教会の群れは、師である主イエスにきちんとつながっていれば、どんなに険しい道のりであっても、危険を乗り越え、あるいはくぐって先に進んでゆくことができます。先頭を歩んでくださるのが主イエスであれば、私たちは安心して道を進んで行って良いのです。

 しかしそうであれば、主イエスにしっかりつながるというのはどういうことなのでしょうか。ここには「十分に修行を積めば、その師のようになれる」と語られています。どんな修行なのでしょうか。
 このルカによる福音書は、第2巻として使徒言行録を持っているということが他の福音書と大きく違っている点ですが、その使徒言行録をみますと、教会に連なる弟子たちの姿が、時に主イエスとそっくりな姿に描かれている場面に出会うことがあります。そしてその始まりは、主イエス御自身の約束の御言です。使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。聖霊が降って弟子たちの上に働きかけてくださると、弟子たちの群れである教会は、ただ単に主イエスについての昔話をして過去を懐しんで生きるのではなくて、主イエスが今、ここに共に居てくださることを身をもって証しするような群れに変えられる、きっとそうなるのだと、主イエス御自身が弟子たちに語っておられるのです。ユダヤやサマリアという、主イエスが地上の御生涯の間に赴いて歩かれた土地だけではなくて、「地の果てに至るまで、あなたがたはわたしの証人として生きることになる」とおっしゃいます。
 従って主の証し人とされた教会は、絶えずくり返して「復活の主がここに、私たちのただ中に立っていてくださる」ことを証言し続けることになります。教会の2000年の歴史の間、教会はずっとそのようにして世界の歴史の上に立ち続けています。このことは、既にペンテコステ直後にエルサレムに誕生した教会において、そんな様子でした。使徒言行録2章36節に「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とあります。ユダヤ人たちが十字架にはりつけにして殺した主イエスを、神は主、またメシアとして復活させられたと、ペトロは語っています。このようにペトロが語る時、ペトロの前には一本の杖が差し出されています。それは御復活の主イエスが「わたしはここにいる。わたしの弟子として、わたしと共に生きるのだ」と言って差し出してくださっている杖です。その杖にしっかりつかまって、「主イエスの復活を世に伝えるように」とペトロは示され、その通りに行動しているのです。
 あるいは、それに続く使徒言行録3章の初めには、エルサレム神殿の美しい門と呼ばれる門の前に置かれて物乞いをしていた人がペトロとヨハネとの出会いを通じて癒されたという奇跡の記事が出てきます。この時ペトロは、主イエスの証し人として行動するのです。3章6節に「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」とあります。この男の人は、足やくるぶしがしっかりして立ち上がることができるようにされてゆきます。主イエスはこの時、少なくとも肉体を持った姿ではここにいらっしゃいません。それにも拘らず、ペトロは、まるで主イエスがその場にいてこの人を癒してくださるかのように、癒しの出来事を行うのです。それは、ペトロが完全に主イエスの証し人となっているからです。
 ペトロだけではありません。ステファノという弟子は、ユダヤ人たちの迫害に遭って石を投げつけられ死んで行った時に、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言いながら息を引きとりました。これは、主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお致しください、自分が何をしているのか知らないのです」と祈られ、また「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とおっしゃって息を引きとったのとそっくりです。あるいはフィリポという弟子がガザへと下る寂しい道でエチオピア人の宦官に行き遭い、主イエスの十字架と復活の福音を伝えてこの宦官に洗礼を授けましたが、水から上がった時、主の霊がフィリポを連れ去り姿が見えなくなったという不思議なことが記されています。しかしそれは丁度、イースターの晩に、エマオに向かっていたクレオパともう一人の弟子に復活の主イエスが現れて、御言を説き明かして復活のことを伝え、分からせてくださり、2人が心を燃やされ新しい希望を与えられた時に、主の姿が見えなくなったのに似ています。
 そのように地上の教会は、驚くべきことですが、ペンテコステの日から今日に至るまでずっと、主イエスの証人として、主の働きを地上にあって継続しているのです。主イエスの復活の証人として立てられ、用いられればこそ、教会の中では今日も尚、人間の罪が本当に赦され、清められた者として大勢の人々が新しい歩みに向かって持ち運ばれ、進んでゆくようにされています。教会は地の果てに至るまで、主イエス・キリストの復活の証人として立ち続けています。今も主イエスが私たちに伴ってくださり、様々な問題を抱えて傷んでいる私たちを癒し、導き、持ち運んでくださることを、教会の群れ、キリスト者の一人ひとりは、自分の身の上に経験して、「主イエスが確かに、弟子としてわたしを導いてくださっている」という証しをしながら、地上を歩んでいくのです。

 教会に求められている修行の一つは、「御復活の主イエスが確かに私たちと共にいてくださる」ということをくり返し聴き続け、それが確かであると憶えることでしょう。しかしそれ以外に教会に期待されている修業はあるのでしょうか。特にこのルカによる福音書から聞こえてくるのは、折々に祈っておられた主イエスの姿です。先程も触れましたが、主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお致しください、自分が何をしているのか知らないのです」と執り成しを祈っておられました。12使徒をお選びになった時も、祈って夜を明かされ、それから12人お選びになりました。十字架にお掛かりになる前の晩、シモン・ペトロが愚かにも自分はどこまでも主イエスに従うつもりだと言った時にも、主イエスはペトロにそれができないことを御存知の上で、弟子たち一人ひとりを慈しまれながら、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃいます。主イエスは弟子たち一人ひとりを憶えて、絶えず執り成しを祈っておられました。立派な弟子たちではなく、自分では従えないにも拘らず従えると思い込んでいる、従って行きたいと思っても実際の生活ではしばしば主イエスを忘れてしまう、そういう弱い一人ひとりを憶えて、主イエスが祈ってくださっています。ペトロの前に差し出された杖も、ペトロは自分でその杖を掴めると思っていましたが、実際にはそうではありませんでした。そして私たちも同じです。主イエスが救い主だと聞かされても、従って行くことは簡単なことではありません。私たちは主イエスの杖を掴んでいるつもりでいながらも、移り気で、ぱっと手を離してしまうのです。主イエスから離れて穴に落ち込むような道を歩んでしまいがちな哀れな者です。そうであるからこそ、主イエスは一人ひとりを憶えて祈ってくださるのです。
 そして、主イエスがそのように祈ってくださるのですから、私たちも祈ります。自分の救いを喜ぶだけではなく、更に大勢の人々を憶えて、執り成しを祈るのです。この世界に様々な問題があり、苦しみ傷む人々が大勢いることに心痛める時に、「どうか神さま、この世界に清らかな新しいものを作ってください。御心でしたらわたしをそのために用いてください」と執り成しを祈るのです。そのように祈る生活の中でこそ、弟子たちは、自分たちが決して裁かれず、罪に定められず、赦しの下に置かれていて、また一切が豊かに与えられていることを知る者へと育てられてゆくのです。

 そしてもう一つ、御言に聞き、執り成しを祈る生活の中で深く知らされることがあります。それは、私たちの信仰の目が、まるで目の中に丸太が入っているように曇っていて何も分かっていないことを、しみじみと悟るようになるということです。丸太が入っているために信仰の目には不自由さがあるのですが、この丸太は、私たちそれぞれのエゴではないでしょうか。私たちは、自分自身がどのように生きたいかという自分の思いに支配されがちです。なりたい自分を目指して生きていれば良いと気軽に考える人は大勢います。けれども私たちは、「自分の目の中にある丸太を取り除いてください」と祈り願いながら歩んでいくことが大切ではないでしょうか。私たちの目の前に差し出されている主イエスの杖をしっかり掴み、それにより縋り従ってゆけるように、祈りをもって生活する者たちとされたいと願います。
 師である主イエス・キリストが、御自身をささげて私たちにすべてを与えてくださっていることを憶えながら、私たちも、自分自身を主にささげて生きる、新しい生活へと送り出されたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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