聖書のみことば
2024年6月
  6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月23日主日礼拝音声

 父の憐れみ深さ
2024年6月第4主日礼拝 6月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第6章27〜36節

<27節>「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。<28節>悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。<29節>あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。<30節>求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。<31節>人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。<32節>自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。<33節>また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。<34節>返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。<35節>しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。<36節>あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 ただ今、ルカによる福音書6章27節から36節までを御一緒にお聞きしました。27節28節に「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とあります。ここに、大変有名なキリストの教えである「汝の敵を愛せよ」という言葉が出てきます。この言葉は、キリスト者でない日本人の間でも、ある程度の教養を持っている人であれば聞いたことがあると思う言葉でしょう。今日のところにはもうひとつ、31節に、黄金律「Golden Rule」と呼ばれる言葉も出てきます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉です。「敵を愛しなさい」という言葉、そして「あなたがして欲しいことを隣人にしてあげなさい」という言葉、これらの有名な2つの教えが今日の箇所には並んで出てきます。
そしてこれらは、キリスト教の持つ高い道徳性を表していると言われたりすることもある言葉なのです。

 ところで、この2つの言葉のうち、まずは先に言われている「敵を愛せよ」という言葉を考えたいのですが、ここには、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と、4つのことが語られています。これは4つの戒めなのでしょうか。それとも直前の20節から26節で、主イエスによってもたらされている御国に生きる者とされた人たちの幸いと不幸がそれぞれ4通りに言い表されていても、事柄とすれば主の弟子となって生きる真の自由というただ一つの事柄を表していたように、ここも4つの言葉で一つのあり方を教えているのでしょうか。
 注意して27節28節を聞いてみると、「敵を愛する」ということがまず述べられた後、その敵の姿、あるいはその様子が次々と言い換えられていることに気づかされます。まず、「あなたがたを憎む者」、これは憎しみを抱くということですから、心の中の状態です。次に「悪口を言う者」というのは、口に出して攻撃を仕掛けてくる人たちです。そして最後に「あなたがたを侮辱する者」と言われます。これは心に憎しみを抱くとか、言葉で攻撃するということを越えて、実際の行動によって相手を傷つけ、貶めようとすることです。そう考えますと、敵の様子がだんだんエスカレートしていることが分かります。敵というだけでは莫然としてしまいますが、その敵は心の中で憎しみを募らせるだけでなく、言葉や行動によっても攻撃を仕掛けてくる場合があり得るのです。そしてその時に、「わたしの言葉を聞いているあなたがた」、即ち、「主イエスの御言を聞いて支えられて生きるキリスト者」は、「敵を愛し、その相手に親切にし、祝福して、相手のことを思って祈るように」と、主は求めておられるのです。
 そしてここの言い方を注意して聞きますと、「愛する。親切にする。祝福する。祈る」という4つの動詞は、いずれも命令形で記されています。ですから、主イエスがきわめて真剣に、「敵を愛する」というあり方を弟子たちに求めておられることが分かるのです。

 敵に対してのあり方は、更に29節30節にも続けて述べられます。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。ここでまず気がつくことは、27節28節では主イエスが「あなたがた」とおっしゃって、複数の人たちを相手にして語っておられたのが、29節30節では「あなたの頬を打つ者」、「あなたの衣服を奪い取る者」、「あなたの持ち物を奪う者」という風に、「あなた」という一人に向かって語っておられる、つまり、語り口が変わっていることです。これは、大勢集まっていた弟子たちの中にいる誰か一人に向かって突然話しかけたということではありません。主イエスの平地の説教は、この時一息に語られたものではなくて、折々に主イエスが弟子たちを教えられたその教えを一つにまとめて、言ってみれば編集をしてここに一つながりに記されています。ですから、「敵を愛しなさい」という事柄は、主イエスがこの時、一回限りおっしゃった印象的な教えだというのではなくて、折々に弟子たちに教えておられたということが分かるのです。
 こういうところからも、主イエスが「敵を愛する」ということを、どんなに大事に思っておられたかということが窺い知れるのです。

 ところで、「汝の敵を愛せよ、あなたの敵を愛しなさい」という言葉は、確かに倫理性の高い道徳的な美しい言葉であるに違いないのですが、これを真剣に受け取り行おうとすると、私たちは、たちまち行き詰まってしまうのではないでしょうか。この言葉を額縁に入れて絵画のように飾って見せることはできても、実際にこれを行って生活してゆくことが、果たして私たちにできるのでしょうか。即ち、頬を打たれたら、もう一方の頬も打ち易いように向けてやるとか、上着を奪われた時、下着までも与えるようなことを、私たちは実際にできるでしょうか。そんなことをしてしまえば、この世界は、たちまち不法を行う者たちの世界になってしまうのではないでしょうか。本当にそう思うのです。
 たとえば、ある人はこの箇所について、「主イエスはここで、上着を奪い取る相手に対して下着をも与えるようにと求めておられる。しかし仮に文字通りにこれを行ったら、主イエスの弟子たちは裸で暮らさなくてはならなくなる。しかし歴史上どこに、そんなキリスト者の群れ、そんな教会が存在しただろうか。そんなことは実際には不可能なのだから、ここに教えられているのは文字通りの要求ではなくて、いわばあるべき精神を教えているのだ」と、そのように説明しています。そんな説明をされますと、率直に言って、私たちは少しホッとするところがあるのです。確かに裸で生活しなければならないことを想像したとすると、どなたであっても、そんなことは受け容れ難いとお感じになるのではないでしょうか。ここに教えられているのは文字通りの要求ではなくて、「一つの生き方、考え方の方向性」であって、即ち、「敵と思う相手をひたすら対立して攻撃するのではなくて、できれば和解することを模索して手をさしのべようと考えてみることが大切である。相手が間違いに気がついて謝ってくるのであれば許してやってもよいと、どこかで思うことが大事だ」と、ここにはそんなことが言われているのではないかと、私たちは主イエスの言葉を受け取りやすいように少しだけ角を丸めて受け取るようなことをやりがちかもしれません。
 そしてもちろん、そういうあり方には、意味はあるのです。それどころか、どんなあり方であれ、主イエスの言葉を聞いて、真剣にその言葉を受け止め行おうとすることは、とても大切な、また、神に喜ばれるあり方であるに違いありません。
 私たちが「敵を愛しなさい」という言葉につまずきを覚えるのは、この言葉を聞き流して終わりにするのではなくて、少なくとも、言葉どおりのあり方してみようと思うからです。「敵を愛する」ということをやってみようと考えて、さて、自分にそれができるだろうかと考えてみると、途方もないことが要求されていることに気がついて、少しその要求のハードルを下げて自分にもできる事柄にして、この主イエスの言葉を受け取ろうとするのです。そういう受け止め方は、十分ではないにしても、主イエスのおっしゃった言葉に対する真剣な受け止め方の一つなのですから、決して悪いことでも無意味なことでもありません。

 けれども、その上でなお一つのことを考えてみることは、私たちにとって意味があることだろうと思います。主イエスのおっしゃることに従って行おうとしてみて、そこで従い切ることのできない自分を発見するということも、大事なことではないでしょうか。
 実は、今日のところに述べられている「敵を愛すること、人にして欲しいことを人にしてあげること」を本当に実現できるのは、主イエスお一人だけだと、私は思っています。頬を打つ者にもう一方の類を向け、裸にされるまで上着も下着も持てる物の一切を取り上げられても従順だったのは、十字架に向かって進まれ、実際に十字架に磔られ亡くなった主イエス・キリストなのです。すなわちここに言われている姿は、主イエス・キリストのお姿です。
 主イエスが十字架にお掛かりになった時には三本の十字架が立ちましたけれど、脇の方の十字架からは、自分の歩んだ人生の失敗、過ち、その罪を直視できずに「救い主は無力だ」と罵る、そういう哀れな罪人の声が聞こえてきました。もう一方の十字架からは、主イエスに救いを願う罪人の声が聞こえてきました。主イエスはその時に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃって、救いを必要とする憐れな人間への救いを語り、祝福をお与えになりました。上着も下着も、それ以外の一切も取り上げられ、十字架の上で、なおも人間の罪の大きさと深さを思ってとりなしの祈りをささげられ、救いを求める人には祝福をお語りになり、主イエスを憎み、嘲り、侮辱する敵のために、主イエスは十字架の上に赴かれました。
 神の御国は、そういう主イエスのとりなしの御業によって地上にもたらされています。従って主イエスは、「敵の罪を許し、愛すること」を弟子たちに教えられます。

 今日の箇所は、人間の倫理道徳の最高地点を示しているのではなくて、主イエスによって私たちの間にもたらされた御国の姿を教えているのです。
 主イエスがここで教えておられる「敵を愛する」というのは、人間にそれができるかできないか、私たち一人ひとりにできるかできないかということではありません。36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。敵を愛し、敵を許すことの唯一の根拠、よりどころは、父の憐れみです。神が憐れみ深い方として、この世界とそこに生きている人間一人ひとりに向かっていてくださいます。主イエスは、その父の憐みを御存知であればこそ、御自身を完全に人間のためにささげてくださいました。すべてを取り上げられ、十字架にお掛かりになってなお、私たち一人ひとりを憶え、とりなしの祈りをささげ続けられ、そして最後に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とおっしゃって息を引き取られました。
 私たちが、もし本当に敵を愛し、許すことができるとすれば、それは私たち自身の寛容さに由来するのではありません。父なる神がそういう幸いなあり方を与えてくださって初めて、私たちは、敵を愛することができるようになります。その意味では、敵を愛するということは、神の恵みによる奇跡の出来事なのです。

 35節の最後に、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と述べられています。「恩を知らない者」と訳されていますが、原文では「恵みに逆らう者」という文字が書いてあります。神の恵みは、喜んでそれを受け取る者だけではなく、逆らう者、恩を知らない者にも注がれます。神の慈しみは、恵みに寄り頼むことができる立派な人だけに与えられているのではありません。キリストによる恵みを知らされても、それに逆らってしまう罪深い者にも、なお神の憐れみは注がれています。
 思えばこれは私たちの姿だと気づくのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架の恵み、主が私たちのために命を捨ててくださったことを知らされていながら、それでもなお私たちは、「神さまはそうおっしゃるけれど、わたしにはわたしの生活があります」と、恵みに逆らうようなあり方をしてしまうことがあるのではないでしょうか。そういう私たちに、主イエスは「敵を愛しなさい」とおっしゃいます。それは私たち人間の度量が広く寛容だからではなく、父が憐れみ深い方だからです。父なる神が罪ある人間を赦し、受け入れ、なお生かそうとしてくださっているので、その神を知っているあなたは、「新しいあり方をしなさい」と教えられています。

 主イエスは弟子たちに、「あなたは憐れみ深い者になれるか」とお尋ねになったのではありません。「父が憐れみ深いように、あなたも憐れみ深い者となりなさい」とおっしゃいます。
 そうであるならば、私たちが実際に「敵を愛する」ということは、私たちのために十字架に掛かってくださった主の十字架の御業に目を上げ、神の憐れみと慈しみに信頼し、そして、今ある隔ての間垣を、ここで自分が壊してみるということになるのではないでしょうか。それは、「自分にはできそうにない」と感じる場合であっても、「どうか、神さまに信頼して、神さまの慈しみに身を委ねることができますように、どうかその力をわたしにお与えください」と祈るべきではないでしょうか。

 「敵を愛する」ことは、単に美しい言葉なのではなくて、神に信頼し、従って生きる人が、それを歩むことのできる信仰の奇跡です。そのようにして、神の慈しみと憐れみに圧倒されて歩む、そのような幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。
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