聖書のみことば
2024年6月
  6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月2日主日礼拝音声

 召命と派遣
2024年6月第1主日礼拝 6月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第6章12〜16節

<12節>そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。<13節>朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。<14節>それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、<15節>マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、<16節>ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

 ただ今、ルカによる福音書 6章12節から16節までをご一緒にお聞きしました。12節に「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。
 「主イエスが祈られた」と記されています。祈る主イエスの姿が大映しに描き出されています。ルカによる福音書では、ことあるごとに、とりわけ人生の節目と呼ばれるような大切な時に祈っておられる主イエスの姿にスポットライトが当たるような描かれ方がされることがあります。最初は主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時です。ルカによる福音書3章21節に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け(た)」とあります。主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことは、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されていますが、ルカによる福音書には更に加えて、「洗礼を受けて祈っておられた」と、主イエスの祈る姿が記されています。
 洗礼の時だけではありません。主の祈りを弟子たちに教えて「あなたがたは祈るときにはこう言いなさい」とおっしゃった時も、その直前のところで主イエスは祈っておられたことが一言語られています。あるいはまた、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて高い山にのぼり、そこでひと時、御自身の本来の姿である栄光の姿になられたのも、神に祈って、旧約聖書の御言を深く思いめぐらしておられた時でした。そして更に、主イエスが祈りをささげておられる姿ということを思う時、決して忘れられないのが十字架にお掛かりになる前の晩、オリーブ山で血の滴るような大汗をかきながら激しい祈りをささげられた、あの晩の姿です。更に、十字架に掛けられて主イエスが息を引き取られた時、その一番終わりのところで、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とおっしゃって亡くなられます。神に向かう、この最期の言葉もやはり祈りの言葉なのです。
 このように、この福音書を書き著したルカは、主イエスの御生涯の折々に、それも重大な局面にさしかかるところでは必ずと言ってよい程、主イエスが祈っておられたことを、注意深く書き記します。主イエスが祈りの生活の中で常に神の御心を尋ね求め、また神の仰せに聞き従って歩もうとする、祈りの方であったことを、この福音書は私たちに伝えてくれるのです。

 今日の箇所には、主イエスが「祈るために山に行かれた」こと、また「一晩中、祈りを絶やさずに夜を明かされた」ということが語られています。祈るために山に行かれたのは、日頃、主イエスの行かれる先々に群衆が現れて、癒しを願ったり、御言の説き明かしを求め、主イエスから時間を奪うということがあったためと思われます。山に登り、人のいない寂しいところで、主イエスはようやく御自身の時間を確保して神に祈り、対話する時をお持ちになったのです。ですから、「祈るために」山に行かれたと言われています。
 聖書に示されている、このように祈りに専念する主イエスの姿を聞きますと、私たちは教えられるのではないでしょうか。神の御前に静まり神に祈りをささげる、そういう生活の時間を持つことで、私たちは、神のものとしての自分、キリスト者としてのあり方を強められ、勇気を与えられるように思います。私たちも日々を忙しく過ごしています。主イエスとは違いますが、私たちも朝から晩まで、いつも用事や仕事で自分の生活に忙殺されるようなところがあります。けれども、そのように忙しく過ごす人でも、朝目覚めた時や夜床に入ってから眠りにつくまでの間、あるいは食事をとる前などには、短時間でも自分の自由になる時間が生まれるのではないでしょうか。そしてそんな時に、僅かでも神に向かい、神の御心を尋ね求め、神の御前に自分の思いを注ぎ出す機会を持つことのできる人は、きっと神から離れてしまうことなく、神のものとされて、与えられている人生を生きてゆくことができるようにされるでしょう。朝に、「どうかこの日を神さまのものとして歩ませてください」と祈って歩み出すならば、私たちは、祈らずに生活するのとは少し違った思いを与えられて、その一日を歩むだろうと思います。主イエス御自身でさえも、神に向かう祈りの時をしばしば持っておられ、祈りの時を必要としておられたことが、今日の箇所からまず最初に聞こえてくる事柄ではないでしょうか。

 ところで、この晩の主イエスの祈りは、なかなか終わりませんでした。「神に祈って夜を明かされた」と言われていますので、主イエスの祈りが夜通しの祈りであったことが分かります。「夜通しの祈り」などと聞かされますと非常にびっくりしますし、また一体何をそんなに祈っておられたのだろうと不思議にも思います。
 ですが、この文の言い方に注目したいのです。新共同訳聖書では、「神に祈って夜を明かされた」という翻訳になっています。この訳文は立て板に水を流しているような、なかなか名調子の翻訳ですが、元々のギリシア語の聖書には、「主イエスは夜の時を過ごしていた、神への祈りの内に」と書かれています。原文では、まず言われていることは、「夜の暗い時の間を、どのように主イエスはお過ごしになったのか」ということです。そしてそれは「神への祈りをもってお過ごしになったのだ」と言われています。その両方を一息に繋いで訳してしまうと、「神に祈って夜を明かされた」という翻訳になります。流暢な日本語にするために元々の文章の前半と後半を入れ替えて訳されているのですが、原文通りの順序で言うなら、ここはまず、暗い夜の時、闇の中を過ごしておられる主イエスがいらっしゃるのです。その夜の暗い時をどのようにしてお過ごしになったかというと、神に祈りをささげることで、祈りによってこの闇の時を過ごされたと述べられています。
 主イエスがこのように暗い闇の時間を祈りに支えられながら過ごされたことが聖書を通して聞こえてくることは、私たちにとっては、まことに幸いなことではないでしょうか。言ってみれば、主イエスはこの晩、本当に暗い夜をお過ごしになりました。主イエスだけではなく、主イエスの弟子たちがこの先直面するに違いない厳しい生活が予想されることを、弟子たちはまだ知りませんが、主イエスはこの時すでに予想しておられます。そしてその一つ一つの事柄を思いながら、この時をお過ごしになりました。主イエスの弟子に招かれ、主のものとされて生きる者たちが主の弟子として経験することになるすべての困難と苦労、嘆きや痛み苦しみを、主イエスは夜通し思い巡らし経験してくださいました。神に祈る、祈りの生活をもって、主イエスは弟子たち一人ひとりの苦悩、痛みと苦しみ嘆き、不安、恐れといった一切の経験を御自身の身に引き受けてくださったのでした。そのため、この晩の主イエスの祈りはなかなか終わらず、遂に夜通しの祈りとなってしまったのです。

 日頃私たちは、この晩に主イエスが弟子たちのためにおささげくださった夜通し祈りを、とても軽くしか受け止めていないのではないかと思います。即ちこの祈りを、主イエスが大勢いる弟子たちのうち一体誰を12弟子に選ぼうかと思いながらささげられたのだろうと、受け取ってしまいがちです。確かに、この徹夜の祈りの果てに夜が明けて朝になった時、主イエスは12弟子を選び出して使徒と名づけ、御側に招いてくださっています。ですから、この晩の祈りが12人に誰を選ぶかという思いの中で祈られた祈りであったことは、実際その通りであったろうと思います。しかし主イエスは、この12人を人気投票のように軽い気持ちで選ばれたのではありません。そうではなくて、この12人がこの先、主イエスと共に歩んで一体何を経験することになるか、どのように感じ行動するか、一人ひとりについて深く思い巡らして祈ってくださっているのです。主イエスはこれからエルサレムの十字架に向かって進んで行かれます。その主の御受難を12弟子の一人ひとりがその人らしい関わりにおいて経験し、やがて主のよみがえりの朝にも、やはり一人ひとり、その人らしい導かれ方で、主の復活の証人とされてゆくようにされます。そのことを主イエスは、お考えになっておられます。
 主イエスは、弟子たち一人ひとりの性格、弱さ、頑なさ、貧しさを御覧になりながら、そのすべてに執り成しの祈りをささげられ、御自身が痛みを負うのだという思いを深くされました。執り成しの祈りとは、ただ言葉だけの祈りではなく、もしそこに弱さがあるなら、祈る人はその弱さを受け止めながら祈ります。主イエスは弟子たち一人ひとりの内面を御存知であるだけに、その一人ひとりを憶えて祈ってくださっています。ですからこの晩の祈りには、祈りによって格闘しておられる主イエスの姿があると言ってもよいのです。やがてオリーブ山で十字架の前の晩にささげられるゲツセマネの激しい祈りとはやや趣が違いますが、しかし、この晩に弟子たちを思いながら祈られた祈りも大変激しいものでした。

 そのような祈りの時が終わり、朝が訪れます。主イエスは弟子の全員を集められ、その中から12人をお選びになり、彼らに大変重い「使徒」という名前をお与えになりました。13節に「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。使徒という言葉は、「遣わす」という言葉から派生しています。文字通りに訳すなら「遣わされた者」が「使徒」なのですが、当時の社会において、たとえば家の主人が家で働く雇い人や僕をお使いに出すような場合には、「使徒」という言葉ではなくて別の言葉が使われていました。聖書の中では「天使」、「御使い」と訳されたりする言葉が、普通のお使いに出された人について使われていたのです。私たちは「天使」や「御使い」という言葉を聞くと、何か人間以上の特別な存在であると直観してしまうのですが、文字通りのことを言えば、天使や御使いたちは「神から人間の許に送られた使いの者たち」ということになります。そしてその呼び名が、人間が人間に出すお使いの使者たちにも用いられていたのでした。
 「使徒」というのは、そういう日常的な意味でのお使いではなくて、特別な呼び名でした。日常的に使われた言葉ではなく、非常に特別な晴れがましい呼び名でした。それは、どこかの国の元首や君主たちが他の国に遣わす外交使節団の団長を表す呼び名でした。全権大使と言ってもよいような立場です。使徒の言葉や振るまいは、その使徒を遣わした主君自身の言葉であり振るまいであると受け取られたのです。ですから、12人の使徒たちの言動は、そのまま12人をお遣わしになった主イエス御自身の言動ということになります。これは12人からしてみれば何と畏れ多い、また何と光栄な立場を与えられたのか、という思いになったでしょう。本当に不思議なことだと言わざるを得ません。12人の使徒たちがその使徒を遣わした主人を表す代表なのだとしたら、どんなにか行動力にすぐれ、学識も豊かで賢く、また人格も円満な者たちが選ばれたに違いないと、普通なら考えるところなのです。
 ところが、実際の使徒たちは決してそうではありませんでした。14節から16節にかけて使徒とされた人々の名前がリストアップされています。この名前を見ながら最初に思うことは、一体この中に主イエスの名代が務まるような優れた人がいたのだろうかということです。たとえどんなに優れた人を連れて来たとしても、誰一人として、主イエスその方を指し示すことができる人間などいないのではないでしょうか。14節から16節に「それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」とあります。
 12人の先頭にシモン・ペトロの名が出てきます。元々の名前はシモンで、ペトロは主イエスの名付けたニックネームだったことが分かります。このペトロはギリシア語で、アラム語になるとケファとなりますが、大きな堅い砦を表します。ペトロはまっすぐな性格でしたが、融通が利かないところがあり、柔軟性に欠けたので、ペトロというあだ名を主イエスからつけられました。このぺトロから始まって、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はいずれもガリラヤ湖で魚を獲っていた漁師たちです。この時代の漁師は、文字が書けたかどうかも分かりません。次のフィリポはベトサイダの港町の出身ですので、彼も漁師だったかもしれません。バルトロマイは、トロマイの子という意味の名前ですが、素性は知られていません。マタイは徴税人で、12人の中ではイスカリオテのユダと並んで読み書きと計算に堪能でした。ただし元々が徴税人でしたから、ユダヤ人たちに主イエスの福音を伝えようとしても話など聞いてもらえず、門前払いを喰わされてしまう恐れがありました。次のトマスは疑ぐり深く、それでいて一本気なところもありました。アルファイの子ヤコブは、詳しいことが分かりません。熱心党のシモンは、過激なユダヤ主義を奉じて暗殺をくり返していた熱心党に属していた人物です。ヤコブの子ユダは、おそらく他の福音書ではタダイと呼ばれている弟子と同一人物ですが、詳しいことは知られていません。そして最後が、主イエスを後に裏切ったイスカリオテのユダです。この12人が本当に使徒で良いのだろうかという思いを持ちます。一人ひとりを取り上げてみると、思慮に欠ける者、融通の利かない者、短気な者、猜疑心の強い者がいたり、まことに地味な者がいたり過激な者がいたり、最後に裏切り者がいたりします。一人ひとりを抜き出して考えると、とても主イエスの名代が務まると思えないような人たちです。
 では何故、主イエスはこういう人々を使徒として選ばれたのでしょうか。選ばれた者たちが12人だった、という点に秘密があります。12人の使徒たちは、神の民であるイスラエルの12部族を指し示しているのです。イスラエルの12部族は古い時代に神に背を向けて彷徨い出してしまい、その結果、10の部族ははるか昔に失われてしまいました。ユダ族とベニヤミン族の子孫だけが辛うじて残っています。しかし神は、彷徨い出して失われた者たちも含めて、御自身の民を決して見捨てられないのです。「12部族は皆、わたしのものだ」とおっしゃってくださるのです。そしてそのことを表すかのように、12人の弟子をお選びになり、12使徒と呼んでくださるのです。神は御子である主イエス・キリストを救い主としてこの世界に送ってくださり、めん鳥がその翼の下に集めるように、主イエスの許に一人ひとりを呼び集めて、神のものとしてくださいます。12使徒は、12部族皆が神に憶えられ主イエスの許に招かれているということを表しています。ですから、一人ひとりの資質ではなく、この数字に意味があります。神がこういう仕方で、一人ひとりの資質にかかわらず、御自分のものとして呼び集めてくださっていることを表しています。12使徒はその最初の者たちであり、いわば初穂に当たる人々なのです。

 12人は「使徒」と呼ばれています。お使いである以上、遣わされているのですが、一体何を伝えるための使徒なのでしょうか。この先の9章では、まさしく12人が使徒として遣わされてゆく場面が出てきます。そこでは、神の国の訪れを宣べ伝え、病気を癒す力と権威が与えられて遣わされています。「神の国の訪れ」を告げ、そしてそのことが確かであることを表すために、「癒し」を行えるように権威を与えられています。
 「神の国の訪れ」とは場所を示すのではなく、主イエス・キリストがこの世においでくださったことによって、神の御許から私たちの住むこの世界にまで長い橋がかけられているようなことなのです。主イエスがこの世界に来てくださり人々を招いてくださる、そして主イエスが共にいてくださるところに、神の国が生まれていきます。主イエス御自身が仲立ちの橋となって、神とこの世界とを結びつけてくださるのです。使徒たちは、そういう知らせをこの世にもたらす者たちです。言葉と行動によって、そのことを表していくのです。

 しかし、この使徒たちを通して語りかけられた最初の呼びかけがなされた時、世界の人々は、その呼びかけに耳を貸しませんでした。むしろ、せっかくやって来た救い主を捕らえて十字架の上に追い上げ、殺してしまいます。せっかく来られた救い主は、むざむざと死んでいくことになるのです。
 しかし、それで終わりではありません。殺された主は神によって復活させられ、神の憐れみと慈しみは、それでもなお人間の上に大きいことが語られます。主イエスの十字架の死は、私たち人間が神に背を向け神から離れている罪をすべて御自身の側に引き取って、私たちの身代わりに処罰を受けてくださったことで私たちの罪が清算され、もう一度神のものとして生きるようにと招いてくださる出来事です。主イエスが十字架に掛かってくださり、私たち人間と神を隔てている罪を清算してくださる、それが「橋が架けられている」ということです。十字架に掛かってくださるお方だからこそ、橋が私たちのもとまで伸びてくるのです。私たちは、既に罪を赦され神との交わりに生きることを許されていることを信じるならば、そのように生きることができると、主イエス・キリストを通して語りかけられています。12使徒は、そういう主イエスの招きの一番先頭に立つ者とされています。
 ですからこの使徒たちは、使徒言行録1章22節では、主イエスの復活の証人になると言われています。どうやって復活の証人になるのかと思いますが、言葉で説明するということではありません。よみがえられた救い主が出会ってくださり、「あなたの罪は、わたしの十字架で清算されている。あなたはそれを信じてよい」と聞かされ、「わたしは信じて生きています」と告白して生きる姿を通して、主イエスへの感謝と喜びをもって生きることを通して、12使徒はこの世界に遣わされていくのです。主イエス・キリストが確かにこの世界のために御業を行ってくださり、神と私たちの間を結んでくださっていることを伝える、復活の証人として、12使徒は遣わされていきます。

 しかし思えば、このように12使徒が立てられ、その先にも大勢の人が同じように招かれ、神の民とされています。地上の教会に集う私たち一人ひとりもまた、同じではないでしょうか。私たちも12使徒と同じように、一人ひとりそれぞれに弱さや欠点を抱えている弱い者たちですが、その弱い者を神は顧みてくださり、憐れみのもとに置いていてくださっているのです。神の憐れみと慈しみを豊かに味わいながら、感謝し喜んで生きる生活が、私たちにも与えられています。主イエスが12使徒を憶えて、夜を徹して執り成しの祈りをささげられ、使徒として立ててくださったように、私たち一人ひとりのことも、主イエスは憶えて祈っていてくださっています。その主の祈りに支えられ、主の御業に執り成されて、私たちもまた、神を賛美し、御業に仕える者として、ここから歩み出したいと願います。お祈りをささげましょう。
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