ただ今、ルカによる福音書6章17節から26節までを、ご一緒にお聞きしました。17節と18節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた」とあります。
12弟子たちが選ばれたという記事の後で、このルカによる福音書では、主イエスのなさった説教が6章の終わりまで続けて語られます。これはこの時、一気に主イエスがお語りになった説教ではなくて、おそらく折々に弟子たちや群衆を教えられた言葉を、福音書記者のルカが一つの話に編集したものであろうと言われています。6章の終わりまで主イエスがお語りなっておられる説教からは、主イエスがこの世界にもたらそうとしておられる「神の御国」がどのようなものなのかというあらましが語られてゆきます。
山から降りて来られた時、主イエスは一人きりではありませんでした。12弟子と多くの弟子たちが主イエスと共に山から降ってきたのですが、平らな場所にお立ちになったところでは、更に大勢の弟子たちと、おびただしい民衆もそこに現れたと述べられています。この大勢の弟子たちやおびただしい民衆が実際には何人ぐらいだったのかということはよく分かりませんが、しかしこのように書き著すことで、ルカは考えていたかも知れません。即ち、12弟子たちが選ばれる記事のもう一つ前の記事までは、主イエスに反対する律法学者たちやファリサイ派の人々の姿が描かれていて、主イエスに反対し、敵対する人たちが次第に数を増し、また敵意の度合いも高まっていたということが語られていたのですが、そのような主イエスに対して険しい思いを持つ人たちだけでなく、民衆の間には今日の記事に登場してくるように主イエスを慕う人たちも大勢いたのだという事実を、ルカはここで伝えようとしたものと思われます。
そしてまたもう一つ、ここから聞こえてくるのは、そのように主イエスを慕って集まる人々の中には、主イエスの教えを聞いて、神の御国の事柄を知りたいと願ってやって来る人たちもいれば、むしろそれ以上に多かったのは、自分自身かあるいは身近な人が病気を患っていて、その病が主によって癒されることを望み、期待して群がり集まっていたということです。17節18節からは、そんな消息が聞こえてきます。民衆は様々に行き悩み、生きる希望を持てなくなっていたところで主イエスに出会い、再びここから歩んでゆく力を与えられました。「地獄で仏」と言うと別の宗教の言葉になってしまいますが、まさに群衆は主イエスの許から吹いてくる爽やかな聖霊の息吹きに触れた思いにされました。そして、この方の中に、自分たちの多くの問題を解決してくれる助け手、特に病を癒してくれる救い主の姿を見るようになりました。大勢の弟子たちとおびただしい数の民衆は、そのようにして主イエスの許に群がるようにして集まっていたのです。
このことは更に19節で、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と語られています。人々の期待は空しくはなりませんでした。即ち、人々の体の病と心の病が主イエスによって癒されたことが述べられています。このことは、人々にとってとても大きなことだったでしょう。私たちもしばしば、このように自分の体と心が健やかであればそれで良いと思って満足してしまいがちで、今抱えている苦しみを取り除いてもらえればそれで十分で、それ以上のものを主イエスに求めません。
けれども主イエスは、そんな民衆の要求に御自身を任せたりはなさいません。主イエスはただ人々の願いを叶え、社会問題を解決するためにだけ来られたのではありません。それ以前に主イエスは、すべての人間の身代金を支払い、全人類の罪の負債を清算するために十字架にお掛かりになるために、この世界に来られました。そのようにして、御自身の御業によって、人間が一人残らず自分自身の内にはらんでいる罪の悪を清算され、清められ、新しい命を生きる清らかな者たちとなるために、主イエスはこの世界に来られました。十字架に掛かることこそが、主イエスが地上の生涯で果たそうとしておられた御業です。単に当面の間、人々の身心の健康が回復されたり、直面している悩ましい問題が良い方に向かうということではなくて、主によって癒され勇気を与えられた人々が、いかに神の前に清められた者となって罪から離れて平らに生きるようになるかということが、主イエスがもたらそうとしてくださる本当の救いです。そして、その救いを地上に実現するために、主イエス御自身は十字架に向かって進んでゆかれます。
ところがこの時、主イエスの周りに群がり、自分では主に対して好意を寄せているつもりでいる人々のうち、誰一人として、こういう主イエスの救い主としての御業のことを知りません。また、後に主イエスは御自身の十字架について隠し立てせずに弟子たちにお伝えになるのですが、その時にも、弟子たちでさえ理解せず、そのことを受け入れようとはしませんでした。ですから主イエスは、やがて御自身が十字架の上にあげられ、すべての人間の罪を御自身の側に引き受け、十字架の上でその罪をすべて処罰し滅ぼされる、罪との対決をなさる時、弟子たちがそのことを理解せずにうろたえたりしなくて良いように、ここで弟子たちを教えられるのです。主イエスの御業によって地上に打ち立てられてゆくことになる御国の大まかなあらましを、今日の箇所から語り始められます。
主イエスは、御国の民として生きる人間の生活について、多くのことを語る前にまず、いくつかの「幸いと不幸」を教えられます。この教えを通して、12弟子たち、また他の弟子たち、そして更に大勢主イエスに従って行こうとする者たちに向かって、この世の事柄について抱きがちな誤った欲求について警告を与え、また、あまりにも簡単に一息に救いに辿り着こうとする過ちを戒められます。
キリスト教の信仰では、目の前の一時の利益に釣られてしまい、それを手にしようとする人は失望します。なぜならば、この世界と人間の人生の実情はそんなに良いことずくめではないからです。私たちは、まるでバイキング料理の並ぶ食事会の会場の中をさまよい、あれこれの美味しい料理に手を伸ばしてはすぐに食べ飽きて次の料理に移ってゆくようなあり方、自分の思いが一つずつ実現すれば良いと考え、そんな生活が夢の生活であるかのように思い違えてしまうことがあるかもしれません。けれども現実の生活は、一生を楽しく遊び暮らすようにはゆきません。主イエスがもたらそうとしておられる救いは、そのような手近な満足の連続のようなものではなくて、人間一人ひとりに与えられている一生の歩みが、神の深い配慮に満ちた御手の導きによって支えられ、持ち運ばれるものであることを教えようとするものなのです。主イエスが与えてくださる救いに生きようとする人は、その生活の中で、主イエスの十字架の苦しみを憶える覚悟がなくてはなりません。
主イエスは御自身に従おうとする人々の心得として、4つの事柄を挙げておられます。その最初は「貧しさ」ということです。20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである』」とあります。主イエスに従って生きようとする人々がこの世で財産を築き上げることなどあるはずがない、むしろ貧しくて当たり前だとおっしゃいます。その貧しさは、キリスト者たちが怠けているからでも、無能だからでもありません。大いに働き、また大変有能です、しかしそれでも、この世にあってキリスト者が大金持ちになることはないのです。
しかし、それはどうしてでしょうか。その理由は、主に従う人たちは、この世の生活の中で既に主によってもたらされている永遠に触れて生きていくことになるからです。永遠の命を生きることの喜びと偉大さを知る人は、この地上の生活において、小さな自分の天国や自分の城を築くことに躍起になったりはしなくなります。けれども間違ってはならないのですが、このことは決して、貧しく惨めに生活することを奨励している訳ではありません。そもそも聖書の中では、貧しいということは異常なことなのです。貧しいということは、あってはならないことです。むしろ御国の民は、豊かであって富んでいるのが当たり前のことなのです。
ではどうして、その異常なこと、あってはならないことが、主イエスによって、あえて「幸いだ」と教えられるのでしょうか。それは、キリスト者たちが貧しい状態の中に置かれているように見えるところでも、本当に必要なものを満たしてくださる方がおられるということを、主は御存知だからです。神に信頼して生きる生活では、どんなことがあっても決して、欠乏し困り果てることはないことを知って、主イエスは十字架への道を辿って行かれました。ですから私たちは、諸々の物や事柄について欠けを憶え貧しさを感じる時に、主イエスがそれを御存知でいてくださると感じることがあるのではないでしょうか。それは決して気のせいではなく、主イエス・キリストが本当に豊かなお方として、十字架への道を進んでくださったからです。主イエスは、御自身が十字架を背負う方として私たちの苦境にいつも伴ってくださいます。そして私たちを支え、今日の生活を導き、歩ませてくださいます。私たちを主にある交わりの中に置いて保護し、私たちを将来へと確かに持ち運んでくださいます。私たちは時に、自分が願うものを基準にして考えて、あれこれの欠乏を覚えるかもしれません。けれども、そういう私たちを主イエスは御存知でいてくださり、「わたしはあなたと共にいる」と教えてくださるのです。そういう主イエスに伴われるからこそ、キリスト者は外からは貧しく、乏しい者たちのように見られることがあっても、決して貧しくはないのです。このことはやせ我慢やごまかしではありません。
聖書の中では主の民がぶどう園で働く労働者たちの姿にたとえられます。労働者たちは額に汗して働きますが、夕暮れには、その日の賃金が与えられます。それは決して乏しい額ではありません。一日1デナリオンという、生きる上に必要な額が確かに与えられるのです。そしてそのことを知ればこそ、キリスト者はたとえ周囲からはぎりぎりの生活をしているように見られることがあるとしても、主に伴われている限り、その生活と人生には必ず必要が備えられ、御国に生きる幸いな者とされていくのです。ですから、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と主イエスは教えてくださるのです。
そしてそうであればこそ、主に従って十字架を負うことを嫌がり、この世での豊かさを追い求めようとする人たちは、逆に不幸であると言われてしまうのです。24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。「慰めを受けている」と言われていますが、この言葉は、古い時代の商取引で使われていた用語が使われています。商品を売った人がその代金を手にして領収済みとなっていて、今からは追加で手にするものが何もないという意味の語が使われています。即ち、今まで手にしたもので、もうすべての慰めを受け切っている。今から期待できるものは何もない。だから不幸だと言われているのです。
神が顧みてくださる中で、どのような状況でも必要が与えられることに信頼して生きる生活と、今自分が手にしている物がすべてだと思って生きる生活と、どちらが幸いでしょうか。主イエスに従って御国を受け継ぐ者として生きることは、私たちの一生を考える上で、よくよく考えなくてはならない重大なことだと思います。私たちは御国を受け継ぐ者として、神のぶどう園で働こうとして生きるのでしょうか。それとも今に手にしている富をすべて自分のものだと主張して、それ以上何も期待せずに生きるのでしょうか。
2番目に主イエスが触れられるのは、「飢え」ということです。21節に「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」とあります。たった今、主イエスは、御自身に従ってくる人々が地上の生活の中で貧しさを知るようになることを教えられました。しかしそれは支えられるとも教えられました。それに加えて、キリスト者は飢えや渇きを憶える場合もあり得るとおっしゃいます。神が必要を与えてくださるなら、キリスト者は飢えや渇きを経験するはずはないと思うかもしれません。しかし実際に、私たちの世界には飢えや渇きがあります。周囲の人々が飢えたり渇いたりする時に、キリスト者たちは、自分たちは主に従っているという理由で特別扱いされるようになると期待してはなりません。周囲の人たちが苦しむ時には、キリスト者もその中にあって共に苦しむのです。
使徒パウロも、主イエスに従って生きる生活の中に飢えを憶える場合があり得ることを予想して、手紙の中で述べています。ローマの信徒への手紙8章35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」とあります。主イエスは、こうした苦しみや飢えの状態がキリスト者の人生にもあることを否定されません。けれども、約束してくださるのです。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」とおっしゃいます。この言い方に注意して聞きたいのです。最初の貧しさも一緒ですが、主イエスは貧しさや飢えがどこか遠いところで起こるとおっしゃったのではありません。「あなたがたは満たされる」、また「神の国はあなたがたのものである」とおっしゃって、「これらのことは、あなたがた自身のことだ」とおっしゃりながら教えておられます。ここに述べられているのは決して一般論のような遠い話ではなくて、他ならない私たち自身が人生の中で直面していく話です。今実際に飢えたり渇いたりしている私たちに、主イエスはおっしゃって、「あなたの飢え渇きはずっと続くのではない。それはきっと満たされる。わたしがあなたの苦境を知っている」とおっしゃるのです。なぜなら、主イエスは十字架に向かって歩んで行かれるからです。「あなたは決して飢え渇いたままで滅びるのではない。あなたはわたしと共に生きるのだ」とおっしゃいます。主イエスは弟子たちに、空の鳥を見るようにと教えられました。「神は、弱く小さな空の鳥たちのどの一羽も地に落ちることなく養ってくださる。あなたがたは空の鳥よりも優れた者ではないか。神はあなたがたのことを憶えていてくださっている」。
飢えや渇きは確かに嫌なことであり恐るべきことですが、しかし神は、その飢えや渇きにまさって力あるお方なのです。私たち一人ひとりを御覧になり、きっと飢えや渇きから救い出してくださいます。
飢えや渇きは嫌なものですが、その反対の事柄、そこに潜む危険に、私たちはなかなか気がつきません。全てが満たされる生活は、決して手放しで良いとは言えません。何故なら、あり余るほどの食事にたとえ恵まれたとしても、私たちはそれで救われているわけではありません。神の裁きは、まさにその飽食の生活の上に臨むからです。25節に「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」とあります。その通りだろうと思います。私たちは満腹すればするほど、もっと美味しいものを欲します。私たちは今あるものよりも豊かなものに恵まれると喜びますが、実際にはそれは飢えに繋がっていくのです。
3番目に主イエスが触れられるのは「涙」です。21節の後半に「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」とあります。「涙」は、地上の生活には、どうしてもついて廻るものだと言えましょう。何故なら、私たちの暮らすこの地上は、信仰を重んじ、神を第一に考える人たちばかりが暮らすエデンの園のような世界ではないからです。地上のキリスト者たちは、神を知らず従って神を畏れることも知らない人々、またキリストなど自分に無関係だと思って暮らしている人々に取り囲まれるようにして、生活を送ります。そのために、キリストに従って生きる御国の民としての生活をしばしば尊重してもらえず、困ったり、妥協せざるを得なかったりするのです。しかし、信仰者として生きることを尊重してもらえず、心の中で涙することがあるとしても、そんな人々はやがて笑うようになるのだと主イエスはおっしゃいます。神が、終わりの日には一切に決着をつけてくださるからです。私たちは今、この地上で苦しんだり悩んだり嘆いたりしながら生きていますが、しかしこれが永久に続く生活なのではありません。
ヨハネの黙示録には、そのような終わりの日に起こる出来事が語られています。ヨハネの黙示録21章3節4節に「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」とあります。涙をもって種を蒔く人は、喜びの歌を口ずさみながら刈り取る人となります。そうした喜びに与って生きる生活こそが幸いな生活なのです。
そして最後に触れられるのが「迫害」です。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」と教えられます。キリスト者たちは、その信仰のせいで迫害されるだろうと言われています。ここでは、ユダヤ教の会堂からの追放ということが考えられています。それは主イエスの弟子たちだけのことではありません。まずは主イエス御自身が迫害され、ついに十字架に掛けられて処刑されました。後の時代にはキリスト教会もまた、ユダヤ人の会堂から追い出されて苦労しました。信仰への迫害は聖書の時代に限ったことではなく、今日でも形を変えるながら絶えず続いています。キリスト者が、その信仰のゆえに世の中の人たちから誉められたり、重んじられたりすることは滅多に起こりません。むしろ世の中の他の人たちとは違ったところを持っていると思われて敬遠されたり、からかわれたり、軽んじられたりします。そのために、キリスト者であることに口をつぐんでしまうことも、社会生活の中ではあるかもしれません。
しかし迫害される場合には、キリスト者は喜ぶべきだと、主イエスは言われます。23節に「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」とあります。迫害されるということは、その人が神のものであり、自分たちとは違うということに周囲の人たちが気がつくからこそ起こることです。即ち迫害されることで、その人は周囲の人たちから神のものだと認められているということでもあるのです。だから喜ぶようにと教えられます。反対に八方美人のようになって、何の敵もないような人は、偽預言者の仲間に入れられてしまいます。26節に「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」とあります。
4つの幸いと不幸を教えることで、主イエスは弟子たちに、まことの自由への道を教えてくださいました。貧しさ、飢え、涙、迫害の脅しに出遭っても、超然として主の弟子であり続け、御国の民として生きることのできる自由を教えられました。ですから、ここに語られていることは、御国の民としての姿のあらましなのです。
しかしこうしたあり方は、教えられたからと言って、私たちが自分でできるようになるものではありません。ただ聖霊が私たちを主イエスに従うあり方に導き、主イエスに固く結んでくださる時に、その結果として、ここに述べられているようなあり方を私たちができるようにされます。
そしてそのような日にこそ、私たちは「苦しみに遭ったことは、このわたしにとって良いことだった。これによってわたしは主の掟を知り、従う者とされたのだ」という詩編の言葉を、自分自身の言葉として口にするように変えられるのです。
今日教えられていることは、私たちの努力によって達成されることではありません。神の霊が働くときに、私たちは神の御国の民とされる、地上のキリスト者はこのように生きるのだと教えられていることを覚えたいと思います。聖霊が私たちの上にも働いて、主イエスと共に生きていくようにしてくださることを、心から願い求めたいと思います。お祈りを捧げましょう。 |