聖書のみことば
2024年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月7日主日礼拝音声

 命の主
2024年5月第4主日礼拝 5月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第6章6〜11節

<6節>また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。<7節>律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。<8節>イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。<9節>そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」<10節>そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。<11節>ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

 ただ今、ルカによる福音書6章6節から11節までを、ご一緒にお聞きしました。
 6節7節に「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。この日、誰かが主イエスに、手の不自由な人を癒すように促した訳ではありません。また、どうしてこの日この人が礼拝に加わっていたのかという理由も定かではありません。もしかすると律法学者たちやファリサイ派の人々が、あえてこの人をこの場に連れて来ていたのかもしれません。仮にそうであったのなら、彼らはこの日の礼拝で何が起こるかを予感していたことになります。主イエスがきっと、この人の手が萎えていることに気づいて深く憐れみ、癒しをするに違いない、そう考えて様子を伺っていたことになります。恐らく彼らには、この日主イエスが語られた御言の説き明かしの言葉など、全く耳に入らなかったのではないでしょう。彼らの思いは、主イエスがこの安息日に、この場で右手の不自由な人を癒すか、癒さないかという、その一点に向けられています。主イエスがこの人の右手の萎えに気がついたら必ずや癒しをなさるだろう、それは一体いつかと、今か今かと思いながら様子を伺っていたに違いありません。

 確かにユダヤ人たちの間では、安息日には何も仕事をしてはならないという定めがありました。ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、その定めを真剣に堅く守ることで自分たちの神に対する真剣さの度合いを表すことができると考えて、安息日に何も行わないことを第一のことのように思っていました。
 しかし、ここで問題になっている安息日という日は、元々を辿るとどんな日だったのでしょうか。創世記第1章、2章に記されているのですが、第1章で神が1週間のうちの6日間で天地万物を全てお造りになり、「見よ、それは、それは極めて良かった」とおっしゃった後、2章2節3節には「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」とあります。ここに安息日の由来が語られています。それによると、安息日は、「神が一切のお造りになったものをその目的に適うものとして完成してくださり、造られたもの一つ一つを祝福し喜んでくださる」、そういう日だというのです。造られたものたちもすべてが、それぞれに神によって造られた喜びと感謝を新たにする日です。造り主である神が世界全体、天地のすべての様子を御覧になって喜ばれ、その喜びの中に造られたものたち一切も招き入れられ、神の喜びに包まれるようにして、その喜びを共にする日です。日頃は人間によって使役されている家畜たちまでもが、この日には神から命を与えられ生かされている喜びを、改めて深く味わうようにされるのです。
 ここには確かに、神が「第七の日に御自分の仕事を離れ、安息なさった」と言われています。しかしこれは、単に神が休息したということではありません。くたびれて休んだ訳でもありません。安息と休息とは似た言葉ではありますが、同じではありません。神は安息日にもなお、慈しみと憐れみの御業を止めることはありません。このことは詩編121編4節5節で「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」と歌われているとおりなのです。ですから、安息日は元々、神の喜びに包まれて、一人ひとりがその喜びを共にする日です。

 ところが、そういう喜びによって一切が完成されるはずの安息日に、律法学者たちやファリサイ派の人々は、「訴える口実を見つけようとして」様子を窺っていたのでした。彼らは、安息日には何もしてはいけないし、何もしないことで自分たちの神への忠誠心、敬虔さを表すことになると思っていたのですが、果たしてそれは、本来の安息日の由来に照らして考えて妥当なことのでしょうか。
 律法学者たちやファリサイ派の人々が安息日に何もしてはならないと堅く思い込んでいたのには、それなりの理由があります。それは旧約聖書の出エジプト記に、「安息日に仕事をする者は必ず死ぬことになる」という非常に厳格な掟が記されていたからです。出エジプト記31章15節から17節に「六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである」とあります。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、この聖書の文言に忠実であろうとしました。この文言が何にも優って重要だと考えるならば、仮に主イエスが安息日に癒しを行えば、それは労働であり死に価するような重大な律法破りをしたことになります。そしてそれは、すぐさまガリラヤの地方法院に訴え出なくてはならないことだと彼らは考えていたのでした。

 けれども、そのように考えていた人たちがすっかり忘れていることがありました。それは、彼らが依り頼んでいた出エジプト記の文言も含めて、旧約聖書の律法全体は、そもそも神御自身がこれをお造りになり、定められたということです。元々神が安息日を設けられたのは、人間の行動を厳しく縛ったり不自由さの中に留め置くという目的のためではありません。創造の1週間のうちの6日間で、確かにすべてのものは造られ存在するようになりましたが、それだけでは創造の業は完成しませんでした。神は7日目に創造の業を完成されたと創世記に記されています。造られたものがただそこにあればそれで良いということではなく、神は、それを御覧になって喜ぼうとして世界をお造りになりました。その神の喜びに包まれて、造られ生かされているすべてのものたちが、自分の命を共に喜び感謝する、そのためにこの世界は造られ、一人ひとりは生かされているのです。ですから、安息日のそもそもの目的は、人間を不自由にすることではなく、神の喜びにすべてのものが与ることです。
 ところが最初の人間であるアダムとエバが、神の御言に聴き従うことよりも自分たち自身の判断を先立たせて、食べてはならないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまうということが起こりました。そしてその結果、人間たちは神の喜びを共に喜び感謝することから離れてしまいました。神の喜びを共に喜び感謝することよりも、銘々がそれぞれに自分勝手な願いや望みを先立たせるようになってしまい、神の喜びを共に喜ぶことは二の次三の次になってしまいました。神の清い聖なる御旨が実現され、皆が喜ぶというあり方よりも、人間の願いや思いが実現される自己実現にばかり思いが向くようになり、その結果、元々喜びの日であった安息日が軽んじられたり、顧みられなくなってしまったのです。
 出エジプト記の戒めは、神の民であるイスラエルの人々が、そのように神とのつながりと結びつきを失ってしまうことがないように、安息日を大切に守ることのために後から加えられた掟です。ただ安息日を重んじなくてはならないとだけ戒めの言葉に記しても、現実のイスラエルの人々によって、平気でその戒めは破られ顧みられなくなることもあり得るでしょう。そういうことが起こる時には、言葉としては安息日を重んじなければならないと合言葉のように話していても、実際には神との交わりが後回しになります。するとそれは安息日を守るという問題に止まらず、人間が生きるすべての場面において、神との関わりが切れていってしまうのです。ですから安息日を守るということは、とても基本的な大事な戒めであるということになるのです。それで、安息日を大切に守るべきことが、大変強い言い方で戒められるようになっていたのでした。「だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」という出エジプト記の文言は、人間を殺すための言葉ではなくて、むしろ神から彷徨い出して滅んでしまうことがないために、一つの警告として教えられていた言葉だったのです。

 ところで律法学者たちやファリサイ派の人々は、その文言に忠実であろうとしましたが、しかし彼らのありようは、安息日本来の目的に照らしてふさわしいあり方と言えるのでしょうか。彼らは安息日に何もしないことによって、自分たちの敬虔さを周囲の人々に印象づけようとしました。そういうあり方は、上辺は何もしていないようでありながら、しかし実際には、熱心に自己実現を図っていたと言えるのではないでしょうか。どんなに自分が敬虔かということを、礼拝の場で、人々の前ではっきりさせる、そのために何もしてはいけないと思っています。しかしそのようなことを考えながら、そこで朗読され説き明かされる御言にはうわの空で、ここでもし癒しが行われたら、主イエスがそれを行ったら、その現場を抑えて訴えてやろうと思いながら様子を窺っているのです。こういうあり方は、果たして本当に安息日の過ごし方としてふさわしいものだと言えるのか、疑問です。実際には、少しも神の喜びに包まれていないし、礼拝に参加している姿ではありません。
 安息日の喜びと感謝に加わろうとしていないのは、いったい誰なのか。主イエスなのか、律法学者たちやファリサイ派の人々なのか。律法学者たちやファリサイ派の人々のあり方は、文言に忠実であろうと思うあまりに、言ってしまえば本末が転倒しています。本来は命の喜びを共にして感謝し、神のなさりようを讃えて賛美すべき時に、神の喜びに加わろうとするのではなくて、いわば覆面警察官か私服刑事のように礼拝の場に忍び込んで、油断なく辺りを観察しているようなことになっています。そういうあり方は決して、本来の安息日のあり方ではないのです。

 従ってこの日、彼らは、主イエスから問いかけられることになりました。安息日がどんな日で、そこで行われるべきことは何であるべきなのか。9節に「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか』」とあります。この主イエスの問いかけは、律法学者たち、ファリサイ派の人たちの急所を突く問いかけです。彼らの安息日の礼拝への姿勢が、神による命の喜びを共に喜び感謝して御業を讃えるという本来のあり方からいつの間にか変質してしまって、自分自身の神の事柄に対する真剣さ、敬虔さを見せびらかすというあり方に滑り落ちていることを、主イエスは見逃しません。主イエスは安息日の礼拝に、本来の喜びと感謝が失われていることを、深く憂いられます。
 安息日の礼拝では、陰謀や悪ではなくて、是否とも善が行われなくてはならないのです。安息日は単なる休息や何もしないだけの空虚な日であってはなりません。もっと積極的に神による命の御業が行われ、それによって集う一人ひとりが喜び、感謝し、力づけられ、なおここから生きていくという勇気を与えられなくてはなりません。主イエスはこの日、まさにそういう神の御業にお仕えになる方として、この礼拝の場で働かれました。主イエスは、神に忠実に仕える安息日の主として行動なさいます。そして、まさしく律法学者たちやファリサイ派の人々が予想した通りのことが、その場で行われていくことになるのです。善を行うことは、安息日の業として禁じられていないからです。

 主イエスは、右手の萎えている人をお呼びになり、その礼拝に出席していた誰の目にも見えるように、会堂の中央に導かれました。8節に「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った」とあります。主イエスはこの時、この人の信仰をお尋ねになりました。はっきりと言葉でそう尋ねた訳ではありませんが、この場で主イエスから立ち上がるように求められたこの人は、主イエスによって癒して頂きたいと願うかどうかを尋ねられたのです。主イエスの求めに応じて立ち上がるならば、それは主によって癒して頂きたいと望んでいるしるしとなります。もし身を起こさないなら、彼には何も起こりません。従って、結果として彼の手が癒されたのは、もちろん主イエスが癒してくださったのですが、同時に、この人が主を深く信頼申し上げたからなのです。
 安息日の喜びは、ただ嬉しいムードに浸るということではありません。そこに集められた一人ひとりが、神の命の御業がここで確かに行われている、私たちのこの世界が神の命の御業に包まれ、支えられ、皆で喜ぶことへと持ち運ばれているということを信じる、そしてその御業に仕えて歩むように思いを新たにされていく、そのようにして安息日には本当に安息が訪れるようになるのです。この手の不自由だった人のように、私たちも、一人ひとりが主から名前を呼ばれている者として、この場所に集められています。私たちは集められ御前に進み出、整列して、御言に耳を傾け、私たちの間にも御業が行われていることを知って喜び、感謝して命の源である神を讃えます。
 私たちも、今日この日、この場所で、神に呼ばれている者として、信仰をもって主イエスの招きに応え、喜び、感謝する者たちと変えられたいと願います。手の萎えた人が主イエスの呼びかけに応えて立ち上がり礼拝堂の中央に立ったように、私たちも一人ひとりが主イエスの呼びかけによって強められ、主に信頼し、期待を寄せて生きる者とされたいのです。

 主イエスは御前に立ち上がり進み出た人に、「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。すると萎えていて力の入らなかった手に力が入るようになり、この人に癒しが訪れたのでした。主イエスがこの人の萎えていた右手を癒やされたというのは、どういうことなのでしょうか。ここには確かに、「右手が癒された」と言われています。世の中には右利きの人も左利きの人もいますが、多いのは右利きです。従って、右手は多くの場合、人間の可能性やあり方を表すものとして示されます。右手が萎えていることは、多くの場合、左手が萎えているよりも深刻な場合が多いのです。右手が多くの人にとっての利き手であり、自分が何かの働きかけをしようとする場合、多くの人にとっては右手の自由こそが問題になるからです。
 従って、右手が萎えていたということは、この人にとって、自分が主体的に様々なことに関わろうとする際の障害になっていたのではないでしょうか。本当は、人生に起こる諸々の出来事について、その人自身が主体的に関わるべきだし、関わるのが当然なのです。ところが右手が萎えていると、自分が主体的に関わることに躊躇を覚え、ためらってしまいます。そしてそれは、日常の生活場面に止まりません。私たちが普段の生活の中で、手が不自由なために様々なことを躊躇い、尻込みしてしまうのと同じように、神に祈る時にも、手が萎えていることは大変重大な問題を呼び起こすのです。祈る時には、右手と左手を組み合わせます。ところがその時にも、ふと手の不自由さを思って手を引っこめてしまうのです。するともはや、祈るために手を組むことができません。結局は神に信頼して祈り願い、神の御言に聞いて生きていこうとする代わりに、自分自身の能力に頼ります。しかし能力には限界がありますから、自分の無力さを感じて、なお手を引っ込めることにもなってしまうのです。

 主イエスは、祈りを忘れ、自分の人生に対する主体的な関わりも失ってしまう、そういう人に向かって「わたしの前に立つように。そして手を伸ばしなさい。主を信頼して、あなたのその萎えている手を伸ばしなさい」とおっしゃいます。
 手が自由に動かせれば自由に祈れるのかと言えば、そうとは限りません。私たちの右手も、自分では動かせると思っていても、実は萎えていて、神に向かって祈ることすら忘れてしまうかもしれないのです。祈りは、人間の能力で出来ることではありません。神が聞いていてくださることを信じて、神に向かう以外、私たちは祈ることができません。何よりも、「手を伸ばしなさい。手を伸ばして、あなたの神を求めなさい。わたしはあなたの手を取ってあげよう」と言ってくださる神から呼びかけられて、私たちは祈り、与えられている日々の生活に前向きに、主体的に関わりを持って生きていくようになります。主イエスが「手を伸ばしなさい」とおっしゃったところには、主イエスが神との仲立ちになってくださろうという招きがあります。「手を伸ばしなさい。わたしがあなたの手を神の手と結んであげよう。だからあなたは信頼し、期待し、祈り、ここから歩んでよいのだ」と、主イエスはおっしゃるのです。

 主イエスは今日の箇所で、安息日の主、また命の主として私たちに御自身を示し、行動してくださいます。どんなに私たちの手の萎えが深刻であるとしても、神と私たちを隔てる垣根が高く厚くあっても、主イエスは御自身の十字架をもってその隔てを打ち砕き、神との間柄を結んでくださいます。
 主イエスが呼びかけてくださる「手を伸ばしなさい」という招きを聞き取って生きる者とされたいのです。この言葉を日毎に聞き、主に信頼し、癒され、 命を与えられた者として深く喜びながら、もう一度、ここから生きる者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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