聖書のみことば
2024年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月12日主日礼拝音声

 新しいぶどう酒
2024年5月第2主日礼拝 5月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第5章33〜39節

<33節>人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」<34節>そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。<35節>しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」<36節>そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。<37節>また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。<38節>新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。<39節>また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 ただ今、ルカによる福音書5章33節から39節までを、ご一緒にお聞きしました。
 33節に「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています』」とあります。ここで主イエスに議論を仕掛けている人々は、直前のところで主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に席について飲んだり食べたりしていると不満をもらしていた人たちと同じ人々です。原文を読むとここには「だが、彼らは言った」と書いてあります。ですから彼らは、直前の主イエスのお答えに満足していません。主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」とおっしゃって、正しい人ではなく、罪の中に生き、自分は罪の生活から抜け出せないと思っている人たちと交わり、悔い改めに導くために食事の交わりを共にするのだとお答えになりました。主イエスは、人が罪にまみれて生活することを病気に罹患している状態だとおっしゃいます。そこにきちんとした手当がなされ、支えられたなら、その人は神の民の一人として健康な生活を歩み始めることができるようになるとおっしゃるのです。そして、その癒しをもたらすために御自身が来たのだとおっしゃいます。主イエスは罪の赦しや癒しをもたらすために、私たちと親しい交わりを持ってくださるのです。

 ところが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、その主イエスの言葉を信用しません。彼らは、主イエスの弟子たちを指さしながら言うのです。「イエスよ、あなたの弟子たちは、なっていない。彼らはいつも食べたり飲んだりしている。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちを見なさい。彼らは週に2度以上も断食をして祈りに励んでいる。それに比べるとあなたの弟子たちは全くだらしない。あなたは罪人を招いて悔い改めに導くと言うけれど、あなたは今現在いる弟子たちですら導けていない。それなのにどうして徴税人や罪人を悔い改めさせることができるのか」と尋ねているのです。
 従って33節の問いかけは、単なる疑問や質問ではありません。主イエスに対する疑いと非難の思いが表わされています。自分の弟子たちですら、敬虔なありように導くことができずにいるのに、どうして徴税人や罪人たちの罪を癒して新しい生活へと導くことができるのか、という疑いの思いが、この問いの中に充満しています。主イエスの弟子たちも、徴税人たちや罪人たちも、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちと同じように行動すべきだと、彼らは考えます。神に対する真剣な思いや姿勢がもしあるのなら、そういう人は食事を抜くくらいにお祈りに集中するのが当然だと考え、主イエスの弟子たちのありようを問題にしています。主イエスの弟子たちには真剣さが足りないと感じているのです。

 こういう攻撃に対して、主イエスは別に反発したり怒ったりはなさいません。ただ、まことに冷静に、当時の社会の中で当たり前に通用していた一つの現実を例に引いて説明なさいます。当時、断食は、月曜や木曜によく行われていたと言われています。そういう曜日が来ても、更には安息日であっても、例外的に食事をして飲んだり食べたりすることが公に通用していた、そういう生活の場面がありました。それは婚礼の場面です。34節に「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか』」とあります。婚礼、つまり結婚式のことですが、当時の結婚式は一日では終わりませんでした。どこかで結婚のお祝いがあると、その宴は一週間以上続くことが普通でした。一週間以上も結婚を祝う宴が続きましたから、当然お祝いしている間に、一週間の全ての曜日が巡ってくることになります。その場合に、断食祈祷をする日だからとか安息日だからという理由で宴が中断されるようなことはありませんでした。婚礼の宴だけは、当時、例外的に認められていて、飲んだり食べたりしても咎められるようなことはなかったのです。
 主イエスは、御自身の弟子たちが飲んだり食べたりして愉快にすごしているのは、今、婚礼の席にいるようなもので、花婿がやって来て、この婚礼の席に常に一緒にいるのだから、食事を止めることは出来ないのだと教えられます。この花婿とは主イエス御自身のことです。そして事柄の事実を言いますと、これは結婚式ではなくて、救い主である主イエスが共に交わりの中に来ておられる喜びの場面なのですけれども、救い主を迎えての食事が今ここで行われているのだと説明しても、ファリサイ派や律法学者たちは、そもそも主イエスのことを救い主だと思っていませんから、その説明は分かってもらえないでしょう。それで主イエスは、御自身の弟子たちが飲んだり食べたりして断食しないのは、丁度今この時が婚礼の席にいるような時だからなのだと、分かりやすく説明したのでした。
 従って、弟子たちが断食しないで喜んで飲食していた理由は、花婿である主イエスが親しく共におられるからです。けれども、いつでもその主イエスの姿がはっきりしている訳ではありません。主の姿が見えず、主が共に居てくださることが分からなくなったり、あやふやになったりする時には、断食して祈らずにいられなくなるような場合もあり得ることを、主イエスはこの時、同時に、教えられました。この点については後程もう一度触れようと思っています。

 その前に、この時主イエスは、主が共にいてくださることで大いに喜んでいる弟子たちの姿を示しながら、2つのたとえ話をなさいました。「衣服のたとえ」と「ぶどう酒のたとえ」です。36節に「そして、イエスはたとえを話された。『だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう』」とあります。主イエスは2種類の衣服について話をなさいます。古い服と新しい服です。この点は是非とも注意して聞き取りたいのですが、主イエスはこの2着の服について、別に優劣をつけようとしておられるのではありません。即ち新しい服の方がステキな服で、古い服は野暮ったいというようなことをおっしゃるのではありません。この点は、もしかすると、しばしば私たちは主イエスがおっしゃってもいないことを聞いたように思っているかもしれません。主イエスはここで、新しい服を破ってみたところで、そこから古い服を修理する適当な当て布を得ることはできないことをおっしゃっているのです。
 もう一つのぶどう酒のたとえは、丁寧に言うと「ぶどう酒と皮袋のたとえ」ですが、これも、新しいぶどう酒の方が良いとか優れているというようなことをおっしゃっているのではありません。むしろ、人によっては古いぶどう酒の方が断然良いと考えて新しいぶどう酒には口をつけたがらない人さえいるということをおっしゃいます。37節から39節に「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」とあります。
 衣服のたとえとぶどう酒のたとえの両方に共通して述べられていることは、どういうことでしょうか。古いものと新しいものの優劣ではありません。そうではなくて、古いものと新しいものを無理やり一つに合わせようとしても上手く行かないということが、共通して語られています。

 では、この古いものと新しいものというのは、一体何のことを表しているのでしょうか。ここで主イエスは、それは、ファリサイ派の人たちが問題にしていた事柄、神に対する敬度さの表し方、つまり、神に対する敬う気持ちと感謝の表し方について古い形と新しい形のあることを教えておられるのです。古い服や古い革袋ということで表されているのは、主イエスに議論を吹っかけた人々が当然だと思っている古い時代の神への感謝の表し方、向き合い方です。彼らは一生懸命神に向き合おうとして熱心に断食し、祈ることを行っていました。主イエスはそれが古い服であり、古い皮袋であり、そこに入っている古いぶどう酒だとおっしゃいます。
 では、新しい服と新しいぶどう酒とは何か。それは今まさにこの場面で起こっていることです。即ち、救い主である主イエスがここに来てくださったために、断食をするのではなく、むしろ、主イエスを迎えて盛んに飲み食いし、大喜びしてこの日の交わりに感謝するあり方です。これもこれで、大変に真剣な、主イエスと神に対する感謝と敬虔の思いを表す行いなのです。

 ここで議論を仕掛けているファリサイ派や律法学者たちは、この先にもしばしば登場して来ます。そしてやがては、主イエスに激しく敵対するようになります。遂には主イエスを十字架に磔にする場面でも、大祭司やサドカイ派の人々と一緒になって主イエスを嘲り、殺そうとします。そういうこの先の出来事を知っているので、私たちはつい、今日の記事でもファリサイ派や律法学者たちのことを割り引いて考えてしまいがちになるのですが、主イエス御自身は、今日のところで、ファリサイ派や律法学者たちの神に対する真剣さとその敬虔な行いを、別に臭そうとしておられないことをきちんと聞き取りたいのです。そのことは、特に39節で、「古いぶどう酒に親しんでいる人ならば、新しいものをあえて欲しがらない。『古いものの方よい』と言うだろう」とおっしゃっていることからも明らかです。主イエスはここで、古くからの敬虔な行いとその真剣さを決して馬鹿にせず、認めておられるのです。ただし、そのような古いあり方とは決して一つにならない、新しい神に対する敬意、新しく真剣に神に感謝し喜んで生きるあり方が生まれていることを、衣服とぶどう酒のたとえを通して教えられるのです。

 この場合の新しい感謝、新しい敬度なあり方の中心にあるのは、「救い主イエス・キリストが共にいてくださる」という事実です。そして、この主が共にいてくださるので、大いに飲み、食べて喜び合うというあり方が、新しく生まれている敬虔さの表し方なのです。私たちの教会で言えば、これは聖餐式に当たります。聖餐式で覚えられることは、「復活の主が確かに私たちのもとにやって来てくださっている」ということです。聖餐を伴わない主の日の礼拝でも、復活の主が確かに私たちのもとにやって来てくださり、今、私たちを御心に留め、共に歩んでくださっていることが御言の説き明かしを通して伝えられ、私たちはそのことを大いに喜ぶのです。ですから主の日の礼拝にやって来て、そこで聖餐が祝われようとしている時に、自分は断食して神に向かうのだと言って口をつけなければ、それはおかしなことになってしまいます。せっかく主イエスによる招きがあり、主の救いによって生きるようにと勧められているのに、そのところで、あたかも救い主がまだどこにも来ていないかのような行動をしていることになってしまうからです。
 主がこの場に共におられると認めて、「わたしは主イエスによって救われています」と、信じて公に言い表すならば、そういう人は大いに食べ飲んで、感謝するのが相応しいことなのです。

 主イエスはそのように、新しい服、ぶどう酒をもたらす方としておいでになっておられるのですが、しかし、皆が皆、同じ行動をするように無理強いをなさる方ではありません。新しいものがやって来ていても、古の服や古いぶどう酒の方を好む人がいたら、そちらのあり方も尊重しようとなさるのです。
 この場合の古いあり方というのは、救い主と出会う前に、真剣に神に祈りをささげようとして断食していたようなあり方です。そういう古くからのあり方には、そこに救い主が居られないために、確かに弱いところやほころびも目立ちます。この福音書を読みますと、この先18章11節12節で、その古い敬虔なあり方の弱さが示される箇所が出てきます。そこではファリサイ派の人が敬虔に祈りをささげるのですが、その敬虔さが完全ではないために、その祈りによっては義とされなかったという大変厳しいことが述べられます。しかしそれでも、そういう敬虔さは無いよりはある方が遥かに良いのです。18章11節12節に「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」とあります。
 この祈りの中には、確かに欠点があります。この祈りの中には、自分は十分に悔い改めのできている人間だという傲慢さがあり、また、隣の罪人を簡単に裁く尊大さもあります。そして、自分の敬虔な行いによって自分の罪を埋め合わせできると思う、自分自身の罪に対する楽観的な姿勢や安直さも見られます。まさにそういう不完全ところがあるために、この人の祈りは神の前で義とはされなかったという、厳しいことが言われてしまうのです。
 そういう欠点やほころびが、ファリサイ派の人たちの古い敬虔さにはつきまとっていました。傲慢さや安直さのために、ファリサイ派的な熱心や敬虔は、そのままでは神の前には通用しない弱さがあったのです。
 しかし主イエスは、たとえそういう弱さを抱えた敬虔さであっても、これを馬鹿になさいません。そういうあり方は、まだ自分の罪の深さ、深刻さを十分には自覚できていない人のあり方ではあるけれど、しかしその人なりの真剣なありようであるとして認め、受け止めてくださいます。

 しかし、どうして主イエスはそのように鷹揚なのでしょうか。ファリサイ派的な祈りや敬虔の表し方は不完全で、それによっては神の前に通用することはできません。それなのに、不完全で不十分な古い敬虔なあり方を認めて受け止められるのは、どうしてでしょうか。それは、主イエスが人の罪を赦すお方として来ておられるからです。主イエスは、自分の罪を分かっている人だけではなく、まだ分からずにいる人たちのためにも十字架にお掛かりになり、その苦しみと死を通して、すべての人の罪を清算しようとしてくださるからです。
 先週お聞きしたところで主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃいました。主イエスは御自身に従う弟子たちだけでなく、まさに罪の中にある人、あるいは自分の罪を分からない人たちのためにも、目の前にいるファリサイ派の人たちや律法学者たちのためにも、その罪を御自身の側に引き受けて十字架にお掛かりになられるのです。そして、そういう方であればこそ、御自身が罪を完全に清算してくださる方として、主イエスは、すべての人に向き合ってくださるのです。

 ファリサイ派の人々との対話の中で、主イエスは弟子たちが今飲み食いして喜んでいるのは、救い主がそこにおられるからだと教えられました。しかし、この時同時に、まさにこの宴の中で花婿が奪い去られる時がやがて訪れることを予告しておられました。35節に「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」とあります。実はこれは、福音書全体の中で、主イエスが最初に御自身の受難を予告しておられる言葉です。花婿がやがて奪い去られるという言い方で、救い主である御自身が失われる日の来ることを語っておられるのです。
 今、弟子たちは、主イエスとの地上の親しい交わりの中に置かれて、大いに喜んでいます。婚礼の客となるように招かれ、花婿である主イエスとの交わりによって本当に満ち足りた喜びの中に置かれています。しかし、その主が奪い取られ、失われる時がきます。主との近しい交わりを見失った弟子たちは激しく動揺させられ、他の人がするように懸命に「主がここに共にいてくださるように」と祈らざるを得ない状況に置かれます。まさに断食して激しく主を祈り願う、そういう時が来るのです。

 ふり返ってみると、私たちの信仰生活の中に、そのように一時、主イエスから引き離され、主が共におられることが分からなくなる、そういう経験をすることがあるのではないでしょうか。主が共にいてくださることがはっきりしている時には喜んで過ごしていられたのに、どういうわけか主イエスを遠く感じ、神の救いがよそよそしく感じられて辛い経験をしたキリスト者も少なくないと思います。そのような時、動揺して祈った日があるのではないでしょうか。「どうか主よ。わたしから離れないでください。わたしは本当に乏しい者であり、惨めな罪人の一人でしかありません。どうか主が共にいてくださいますように」と祈った日を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。そして主イエスは、そういう貧しい者の祈りを決して軽んじられません。祈り求める人のもとを訪れてくださり、御自身との交わりの中に置いてくださるのです。

 ルカによる福音書の中だけですが、主イエスは、新しい服から破り取った布を古い服に継ぎ当てると言われます。他の福音書では、織りたての新しい布を継ぎ当てると言われます。ルカ福音書では、どういうわけか新しい服だと言われているのです。どうして布ではなく服なのでしょうか。服は、私たちが身に纏って生活するものです。主イエス・キリストが私たちのもとを訪れてくださって、私たちがキリストを着るようにして新しくされるようにと、導いているように思います。ですから、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れると言う時に、皮袋とは、主イエス・キリストが私たちをすっぽりと覆ってくださり、温め、支えてくださるということが覚えられているように思います。
 復活の主が、そのように共にいてくださるので、私たちの信仰生活がたとえ地上の困難や人生の嵐に見舞われるような日にも、主がぴったりと寄り添ってくださり、共にいてくださる平安の中に持ち運ばれることを憶えたいのです。
 共に歩んでくださる主に感謝して、ここからも主のもとで生活できますようにと祈りつつ歩みたいと願います。お祈りをお捧げしましょう。

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