聖書のみことば
2024年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

5月5日主日礼拝音声

 招きと悔い改め
2024年5月第1主日礼拝 5月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第5章27〜32節

<27節>その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。<28節>彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。<29節>そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。<30節>ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」<31節>イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。<32節>わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 ただ今、ルカによる福音書5章27節から32節までを、ご一緒にお聞きしました。
 27節から29節に「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」とあります。ここまでのところで、主イエスは悪霊につかれた人を清め、重い皮膚病の人を癒し、中風の人には罪の赦しを告げておられました。それえに加えて、今日のところでは一人の徴税人を弟子に招かれ迎えておられます。
 このことを知って、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスを今まで以上に警戒し、憎むようになります。すでに彼らは、主イエスについて「神を冒瀆する」者であるという疑いを心の中に抱いていました。今日の箇所では彼らの口からイエスについての非難めいた言葉が洩れ出します。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり食べたりするのか」、もはや、心の内だけにしまっておれなくなったのです。主イエスへの不満と非難が口を衝くようにして出てきます。しかしなぜ、主イエスの行動は彼ら刺激したのでしょうか。徴税人の一人を弟子に加え、またその家での宴会に参加することに、一体どれ程の悪があったというのでしょうか。このことを知るためには、当時のユダヤの人々の物事の考え方を知る必要があります。
 当時のユダヤ人たちは、人間を考えるのに、それを2つのグループに分けて理解していました。即ち、神を信じている正しい者たちとそうでない人々、信仰を持っている者と持っていない者という分け方です。その大元は旧約聖書レビ記10章10節に記されている言葉でした。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」とあります。従って、人間を2種類に区別して考えることは、神から命じられていることだとユダヤ人たちは考えていたのです。こういう区別を懸命に行っている様子は、詩編を読んでいても、ところどころに出てきます。聖い者とされている人々は、その聖さを保ち続けて区分が曖昧にならないようにするため、そうでない人たちと交際しないのが当時のユダヤ人の普通の考え方でした。
 旧約聖書において既にそうだったのですが、主イエスの生きられた時代になって、そういう区別に特別こだわるようになっていたのがファリサイ派の人たちでした。そもそもファリサイ派という呼び名自体が、取り分けることを表す「ファーラス」という言葉から生まれたと言われています。ファリサイ派とは「取り分けている者たち」であり、自分たちこそ神の前に清い者として取り分けられ者たちだという意識が、ファリサイ派の人たちには濃厚にありました。取り分けられた清い者なのだから、旧約聖書を一生懸命に研究して、律法に命じられている通りの清い生活をしなくてはならないと考えて、613もの戒律を持っていたことが知られています。
 他方、徴税人は、自分こそ生粋のユダヤ人であろうと努力するファリサイ派の人々とは逆の立場の人々でした。彼らは、当時のユダヤを占領し支配していたローマ帝国の手先となって人々を取り締まったり、ローマに収めるための税金を徴収することが仕事でした。ローマのために日常的に働かなくてはならない仕事の性質上、どうしても彼らの生活にはユダヤの律法を完全には守れないような局面も生まれてしまいます。たとえば安息日を固く守れと命じられ、自分としてはその通りに行動したいと思っていても、ローマ側の意向によって呼び出されたら出向かなくてはならず、安息日に許されている以上の距離を歩いて移動しなければならないような場合がありました。また出かけた先で、ローマ人やその他の異邦人たちと食事を摂らなくてはならないような場面もあったのでした。従って徴税人たちは、その家族も含めてユダヤ人社会から締め出され、ユダヤ人であるのに異邦人のような扱いを受けたのです。彼らは一般のユダヤ人たちからは仲間と認めてもらえず、実際上の働きにおいてもローマのために働きますから、祖国を敵に売る売国奴のように疑われても止むを得なかったのです。
 そんな彼らでしたが、ではローマ人たちは彼らをどう思っていたのでしょうか。ローマ人たちは徴税人たちを体良く利用しましたが、同時に彼らを軽蔑していました。お金のために敵に魂を売り渡すような人間と考えて、徴税人を利用しながらも信用せず、また同胞のユダヤ人たちから憎まれている様子を見て、蔑みました。そんな訳で徴税人という立場は、お金があり羨ましいような立場に見えましたが、実際には決して居心地の良い立場ではなかったのです。当時の徴税人の多くは、投げやりでいつも憂さ晴らしばかりしているような享楽的な様子で生活していたと言われています。今日の箇所で「徴税人や罪人」と一括りにされていますが、それは確かにそういう享楽的な生活が実際に目撃されることがあったためなのです。

 ところで今、そういう徴税人の中の一人が弟子として主イエスに招かれます。その名はレビであったと記されます。ところが主イエスの12弟子の中に、その名前は出てきません。多くの聖書学者たちは、レビは後に名前を変えたのだと推測します。マタイによる福音書9章9節から13節に、今日の記事とそっくりの記事が出てきますが、そこではマタイという名の徴税人が弟子に招かれているので、おそらくレビは後に名前をマタイに変えたのだろうと考えられています。まさしくそのとおりだったのかも知れませんが、そうだとすると、レビは名前を変えることで、いまわしい過去の自分と訣別したいと願ったと想像することができます。しかし、はっきりしたことは分かりません。

 それにしても、主イエスは何故、レビを弟子に招かれたのでしょうか。先に弟子に招いたシモンたち4人の漁師は文字を書けませんでしたので、その能力を持つレビを弟子に加えたかったのでしょうか。それとも、レビを弟子に加えることで、徴税人たちに対する世間の差別と偏見を改めさせたいと願われたのでしょうか。けれども今日の記事を読んでみると、主イエスが徴税人たちへの差別を問題として、それに対決しようとした形跡はほとんど見当りません。たとえば、主イエスの行動を非難して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と問うているのに対して、主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と答えておられます。もしも差別や偏見と戦うのであれば、こういう言い方はなさらなかったでしょう。主イエスのお答えになった「健康な人」というのは医者を必要とせず、自分で道を歩んでゆける正しい人たちのことを指していると思われます。一方、「病気の人」というのは医者の助けを必要とする人たちですから、罪人のことでしょう。もし差別や偏見が問題と考えておられ、そのことのためにレビの立場に立つというのなら、そもそも健康な人と病人というような区別はできない、皆人間であることに変わりはないというようなおっしゃり方をした筈です。けれども主イエスは、健康な人と病んでいる人、助けを必要としない人と救い手を必要とする失われている者たちがいることを、はっきりと認めておられます。主イエスは確かに差別することは避けられます。ですが区別までなくしてしまおうとなさるのではありません。
 主イエスは、すべての人間のために遣わされた方です。正しい者たちのためだけに来られたのではありません。むしろ人間の抱えている罪を御自身の御業によって清算し、病んでいる人たちに健康な生活をもたらすお方として、おいでになっておられます。徴税人や罪人と呼ばれる人たちを罪の中に固定して、その人たちを弾劾し責め続けるのではなくて、そのような人々を主の民の外に押し出してしまう差別を乗り越え、神の者となって生きる新しい生活の中へと彼らを招き入れようとなさいます。

 そんな主イエスのなさりようを表す事柄として、ここで主イエスが使っておられる言葉遣いに注目して、注意して聞き取りたいのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」とおっしゃいます。主イエスはレビを初めとした徴税人たちや罪人たちを病気の人にたとえ「病人」と呼んでおられます。そして救い主のことを医者にたとえておられます。
 こういう語り方は、主イエスが思いつきでおっしゃったのではなくて、旧約聖書以来の伝統です。たとえば詩編51編10節で、ダビデ王は、「喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように」と言って、自分自身の姿を「骨が砕かれ手当が必要である」と言い表しています。また、38編4節から6節には、「わたしの肉にはまともなところもありません あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません わたしが過ちを犯したからです。わたしの罪悪は頭を越えるほどになり 耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます わたしが愚かな行いをしたからです」とあり、肉が腐り骨がきしみ、傷口が膿んで悪臭を放つ詩人自身の姿を語っていますが、これらはいずれも、ダビデ王や詩人が自身の犯した罪のこと、また今も罪に捕らえられてしまってどうにもならない状態のことを言い表しているのです。そしてこれらの詩では、そういうがんじがらめの罪を処置してくださり、癒しを与えてくださる主への憧れが歌われます。救い主は、きちんとした処置、手当をした上で、罪人を癒し、健康を回復してくださる方として待ち望まれるのです。
 そういう旧約聖書以来の伝統を踏まえた上で、今日の箇所で主イエスは、まことの救い主が健康な人たちではなく病人たちの許を訪れ、そしてそこにきちんとした癒しをもたらし、健康を回復してくださるのだと語ります。それが「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」というたとえの意味です。そしてその上で、主イエスは御自身を、その癒しをもたらす救い主であると名乗って出られます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃるのです。
 主イエスは、病気の人々の間に、つまり、罪人と呼ばれ、自分自身でも罪を逃れられないと思って悲しんでいる人々の間にやって来られます。彼らの罪を清算して、もう一度神の民となって生きる健康な生活をもたらしてくださいます。そのために自分は来たのだとおっしゃいます。御自身が医者であり癒しを行い救いを与える救い主なのだと、名乗って出られるのです。

 しかしそれならば、徴税人たちや罪人たちに健康を与えるために、主イエスが彼らに持ち運んでくださったものとは、一体何だったのでしょう。主イエスはそれを「悔い改め」であるとおっしゃいます。「罪人を招いて悔い改めさせるために、わたしは来た」とおっしゃるのです。
 主イエスが何故、レビを弟子に招かれたか。その理由は、レビに他の弟子たちにはない特別な能力が備わっていたからではありません。そうではなくて、神の民であるイスラエルの人々全体の上に神の救いが及ぶことを表すはっきりしたしるしとして、徴税人や罪人たちの中からレビを選んで弟子の一人に加えられるのです。レビが弟子に招かれるということは、いわゆる正しい人たちが弟子にふさわしい者として招かれるのではなくて、主イエスによって罪を赦され、新しく健康を取り戻していただいた者たちが弟子とされることを表しています。このことを表すために、主イエスはレビの家で食卓に着かれました。主イエスがレビの家での大宴会に参加し食事の交わりをお持ちになったのは、ここでの主との親しい交わりを通して、罪という病が精算され癒やされ、悔い改めと新しい命がもたらされるための出来事だったのです。罪の赦しはただ口先だけのことではなく、実際の生活の中で経験し、赦された者として共に食卓に与りながら生きる、そこに生じることなのです。
 けれども、そういう主の御業が行われていると信じない疑ぐり深い人たちにとっては、主イエスのしていることは、まさに聖と俗、清いものと汚れたものの区別を曖昧にして、その境い目、境界線をあやふやにする行いのように思えたのでした。
 今日の箇所での主イエスの行動を理解するには、信仰がなくてはなりません。主イエスが律法を完全に満たす方、正しい方としてこの交わりに集っておられることを、もし信じないならば、そういう人にとっては主イエスのなさっていることは、区別を曖昧にし境界線をあやふやにしている恐るべき無法者の集いに参加しているだけになってしまいます。無頼の徒の勝手気ままな集いに加わって、ただ楽しんでいるだけだと受け取られてしまいます。実際、主イエスの行動の上辺だけを真似て、乱暴な行いや好き勝手な生活を送り、そうすることが主イエスの与えてくださった解放なのだと勘違いして受け取られることもあるのです。そういう人々は無頼の徒を気取ることで主イエスと同じだと錯覚します。
 けれども無軌道な生活を自由と呼び、好き勝手に生きるのが救いというのではなくて、そこに、十字架の死による罪の赦しと悔い改めを持ち運んでくださる主イエスが共に居てくださるところにこそ、本当の癒しがあり、もう一度、健康な者として生き始める新しい生活のスタートとなる糸口があるのです。仮に、宴席の場に共に着いておられる主イエスが、新しい生活をもたらしてくださる救い主でないとすれば、ファリサイ派や律法学者たちに限らず、ここでの主イエスの行動に愕然とさせられるのは当然なのです。

 ファリサイ派や律法学者たちは、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という問いかけを、主イエスの弟子たちにぶつけました。ところが、この問いにお答えになったのは、弟子たちではなく、主イエス御自身です。これは何を表しているでしょうか。弟子たちですら、この問いに正しく答えられなかったのでしょう。弟子たちでさえ、主イエスのなさることのあまりの大胆さに、呆気に取られるだけだったのです。主イエスがここで取っておられる行動が、キリスト者であれば誰にでも当てはまるように考えるのは正しいことではありません。
 確かに主イエスは、徴税人や罪人と呼ばれる人たち、無頼の輩たちと楽しく食卓を共になさいます。しかしそれは、主イエスが彼らのために、その罪の責任を引き受けて死んでくださる方だからです。彼らのために十字架を負い御自身の側に彼らの罪と過ちの結果をすべて引き受けられる方であればこそ、彼らと宴の席を共にし、心ゆくまでその交わりを楽しんでおられます。食卓に連なる一人ひとりが主イエスの十字架の御業によって清められ、新しく生きる悔い改めへと招かれているのです。そういう食卓を、主イエスは徴税人たちと囲んでおられるのです。

 従って、主イエスが招かれて席についておられる大宴会の食卓は、実はもう一つの食卓を指し示しています。それは聖餐式の食卓です。主イエスが御自身の死によって永遠の命を私たちに持ち運んでくださり、私たちは罪を赦され清められて、もう一度健康な歩みへと送り出される、それが聖餐式の食卓です。そこでは、主イエス・キリスト御自身がテーブルマスターの役目を果たしてくださいます。
 今日の箇所では、レビが迎える側で主イエスは客人として招かれておられますが、しかし主イエスがこの食卓にお着きになる時には、主イエスの側ではもう一つの食卓を頭に浮かべながら、そこに集う一人一人をすべて赦しのもとに、新しい生活を生きるようにとの招きを覚えておられるのです。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という質問に対して、主イエスは答えられます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」、主イエスのこの御言葉は、十字架の主を抜きにして、つまり医者を抜きにして自分たちだけで健康でいられると考える人たちへの、あるはっきりした意志を表しています。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、今のところ、徴税人たちよりもマシな、まともな生活を生きていることを、主イエスは別に否定なさいません。彼らが、自分こそ選ばれた者であり、神の民の一人として相応しく生きようと願い、そのために注意深く生活している営みを、否定したり、臭したりはなさいません。けれども、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、自分は決して惨めではなく医者も十字架も必要ない、今の自分の生活を続けていれば良いと自負しています。そして、その自負心があるために、目の前におられる救い主の傍らを通り過ぎてゆきます。
 一方、宴席に着いて主イエスとの交わりを楽しみ、喜ぶ人たちは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの知らない、ある一つのことを知っています。それは、自分たちが医者を必要する者たちだということです。今の自分はこのままでは惨めな者であり、救い主を必要とすることを知っています。徴税人や罪人たちは、この医者を抜きにしては、自分は決して健康を回復できないと分かっています。この方なくしては生きることも死ぬこともできないことを知っています。まさに、罪の中に生き、滅んでいく他ない自分を悔い改めに導くために世においでになった方が、今自分の前におられることを知って、交わりを感謝し生きていくことになるのです。
 罪人を悔い改めに導くために世においでになった方を抜きにして生き、また死ぬことは、果たして私たちにとって幸せなのでしょうか。私たちは、自分自身を顧みて、このわたしが確かに罪深く過ちの多い者であることを思い、しかしだからこそ、神がその罪を清算してくださるように救い主を送ってくださったことを信じ、この方との交わりに生き、信頼して生きる方が幸いではないでしょうか。

 主イエスが徴税人たちを招き、注いでおられるまなざしの先に、私たちもまた置かれています。私たちもまた、この祝いの席に着き、食卓の交わりを共にして喜ぶ者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ