2023年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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開かれた主の御墓 | 2023年7月第5主日礼拝 7月30日 |
宍戸 達教師(文責/聴者) |
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聖書/ヨハネによる福音書 第20章1〜10節 |
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<1節>週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。<2節>そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」<3節>そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。<4節>二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。<5節>身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。<6節>続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。<7節>イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。<8節>それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。<9節>イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。<10節>それから、この弟子たちは家に帰って行った。 |
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「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」。新しい週が始まる最初の日、マグダラの村出身のマリアが墓へと急ぎます。まだ夜は十分に明けきっておらず、辺りは暗闇に閉ざされています。墓も暗いままです。死の出来事に関わる場所がどうして明るいはずがありましょう。この度 失われたのは、マリアにとって、彼女の人生の一部と言えるほどのものです。その思い出を繋ぐ場所が、この墓です。従ってマリアは、新しい週が始まるのを待ちかねて、朝早く、それも暗いうちに墓へと急ぎます。自分の人生から失われたかけがえのないものを、マリアはそこに探し求めます。 墓の入り口が破られているのに気づいたマリアは、すぐその場から走り去りました。マリアが経験したショックをまともに受け止めてくれる人がいたことは、マリアにとってまことに幸いでした。主イエスによって最初に選ばれたある一組の兄弟のうち、その一人、シモン・ペトロの許へマリアは駆けつけます。そこにはもう一人、名前の挙げられていない弟子もいました。2節に「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません』」とあります。これまでのところ、「ナザレのイエス」という名は、まだ出ていません。その墓が主イエスの墓であるとも言われていません。亜麻布についても、主イエスをお包みした布であるとは言われていません。けれども、ここで初めて「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」という言い方で、主イエスの名が出てきます。ここでは、死んで亡くなった方としてではなく、愛してくださる方として、主イエスの名が出てきます。これは考えてみると意味深いことではないでしょうか。神の愛によって、このもう一人の弟子を愛してくださる方、そして生きておられる方、それが私たちの主であられます。ですから、その名が分かっていないこのもう一人の弟子は、確かに命を造り出す神の愛に包まれているのです。 今、ぺトロとそのもう一人の弟子が一緒になって駆け出します。3節から7節に「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」とあります。ここに見られるのは、物思いに沈んだしめやかな足取りの重いイースターの墓参りではありません。そうではなくて、競争です。2人の内、どちらが先に行き着くかの競争です。二人とも墓へと向かって走り出します。 この箇所の聖書の記事から、私たちはある大事なことを教えられるのではないでしょうか。思い返しますと、主イエスを信じる人々の群れ、すなわちキリスト教会は、この時以来いつもこんな風にして成り立ってきたのではないでしょうか。「見て、信じた」もう一人の弟子、すなわち異邦人キリスト者だけが、十字架に死なれた方を救い主と理解したのではありません。そうではなくて、それよりも先に墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見たのは、シモン・ペトロです。確かにシモン・ペトロ、すなわちユダヤ人キリスト者が最初に主イエスの出来事を証言したのです。ペトロが最初の人であることに変わりはありません。主イエスの出来事を否定するユダヤ教の側からの厳しい迫害を受ける中にあって、ペトロに代表されるユダヤ人キリスト者が率先してそれを証言し続け、その後のキリスト教会のために、まずその場所を取ってくれました。そしてその後を継いで、もう一人の弟子に代表される異邦人キリスト者が、十字架の死、復活、聖霊降臨などを通しての救い主イエス・キリストの信仰を丁寧に説き明かし、連綿と続くキリスト教会の歴史を形作りました。 ところで、今、空になった墓を前にして、ペトロともう一人の弟子とは、それが何を意味するのか、それが分かるまで墓のところに佇みます。でも墓のところにじっと佇むからといって、墓が彼方の世界への通路であるかのように、墓参りしているわけではありません。古代世界の権力者たちは、生前に使った色々な品々を墓の中へ持ち込み、死の国での生活のために準備しました。今日でも悲しみに閉ざされた方々は、墓に供え物を携えて行き、思い出の場所で亡くなった方と語り合う時を過ごされます。そのところで亡くなった方により近づけると思い、「一体どこへ行ってしまったのか」というやりきれない問いに、せめて短い時間でも答えを与えられたいと願うのです。 ここでヨハネによる福音書を記した福音書記者は、この話に注意書きを書き加えます。それによって理解する方法を指し示します。9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」とあります。けれども今二人の弟子たちは理解し始めます。最初に彼らは墓の中を覗き込みます。次に彼らは、空になった墓を見つめます。そして最後に、彼らは理解し、信じるに至ります。信じ、そして理解するに至ります。 このイースターの記事では、初め、弟子たちが競争して走って行ったことや、彼らが墓の中に入って呆然と途方に暮れたことだけが印象に残ります。しかしもう一人の弟子について、これにはペトロも含まれるのですが、「見て、信じた」と述べられます。弟子たちは「信じる者」となって家に帰ります。弟子たちは、神が主イエスになさったことを信じます。神が死と呼ばれる虚無から新しい命を造り出されたことを信じます。神がもはや、主イエスからお離れにならないのを信じます。 祈ります。 |
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