ただ今、マルコによる福音書16章9節から20節までを、ご一緒にお聞きしました。
この箇所を聞いて、少し訝しいとお感じになる方がいらっしゃるかもしれません。ここに述べられている事柄は、前回聞いた16章1節から8節までに語られていた事柄と必ずしもしっくりと調和しづらいように感じられるからです。
たとえば今日の箇所の最初のところに出てくるマグダラのマリアという女性は、前の箇所で主イエスの墓に出かけて行った3人の婦人の弟子たちの中の一人でした。マリアは主イエスを葬った墓に出かけて行きましたが、主イエスにお会いすることはできませんでした。墓の中には主イエスではなく、天使とおぼしき青年がいて、「主イエスは復活なさってこの墓にはもうおられない」ことを告げ、そして、そのことをペトロを初めとする弟子たちも伝えるようにと語りました。けれども、そう語りかけられても、マリアたちは恐ろしさのあまり肝を潰して誰にも何も言わなかったと言われていました。ところが今日の箇所では、一転してマリアは主イエスとお会いしています。そしてまた、主イエスとお会いしたことを他の弟子たちの許に行って伝えたとも語られています。
また前の箇所では、主イエスから弟子たちへの言付けとして、天使が、「ガリラヤに向かうように。ガリラヤに行ったら主イエスにお会いできるだろう」と伝えていました。ところが今日の箇所の14節では、弟子たちはガリラヤではなく、依然としてエルサレムにいるように思えますし、彼らが食事をしていると、突然そこに主イエスが現れたと述べられています。ですから、どうも前回の話と今日の話は、しっくりと調和しないように感じられるのです。一体どうしてでしょうか。
少し注意して読みますと、今日の箇所は全体が括弧つきになっています。16章9節の初めのところに括弧の始まりがあり、そして20節の最後が括弧の終わりです。この括弧は、この中に記されている言葉が元々はマルコによる福音書には記されておらず、後の時代に他の福音書の記事と見比べながら付け加えられたことを表しているのです。ですから、今日の箇所はマルコが書いた記事ではありません。そのために、本来のマルコによる福音書の記事と所々矛盾しているように感じられるのです。
しかし、この記事がマルコの筆によらないのだとすれば、どうしてこのような言葉が付け加えられたのでしょうか。それが問題です。そしてこの疑問を解く手掛かりは、他ならない今日の箇所の言葉の中にあるのです。
ここには、他の福音書の記事を参考にしながらその要約をするような仕方で短くした記事が幾つか、互いに綴り合わされるように出てきます。
たとえば9節から11節までは、ヨハネによる福音書の主イエスの復活の記事の中で、主イエスがマグダラのマリアに出会って下さったという出来事が大変短く記されています。元々のヨハネ福音書では、「墓に出向いたマリアが墓が空になっていることにショックを受けて顔を覆って泣いていると、そこに復活の主イエスがやってきて下さった。ところがマリアは最初、出会った相手が主イエスだとは分からず、墓地のある園の園丁だと思い違いしてしまった」というエピソードが記されています。しかしマルコ福音書では、そうした美しい出会いのエピソードは全て省略されて、「主イエスがマリアと出会って下さった」という事実と、「マリアがそのことを他の弟子たちに知らせたけれども彼らは信じなかった」という事実だけが大変簡単に報告されています。10節11節に「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」とあります。
このマリアの話に続いて12節13節に述べられているのは、これも大変簡略に要約してあるのですが、ルカによる福音書24章13節から35節に出てくる、「エマオに向かう弟子たちに主イエスが現れて下さった」という出来事であるようです。元々のルカの記事では、「クレオパという弟子ともう一人の弟子がエルサレムを離れ、エマオという村に向かってとぼとぼと歩いていると、いつしか彼らの歩みにもう一人見知らぬ旅人が加わった。クレオパともう一人の弟子は、主イエスが十字架につけられて亡くなってしまったことについて繰り言を語り合いながら歩んでいたけれど、途中で加わった同行者がそのことについて、『救い主は苦しみを受ける、その上で、栄光に入ることになっていたではないか』と旧約聖書全体から説き明かしてくれたので、二人の弟子たちは心がすっかり温かくなり、同行者にも願ってエマオで宿をとり、そして夕食を共にしてパンが裂かれた時、この見知らぬ同行者が主イエスであると気がつき、その途端に主イエスの姿が見えなくなった」と言われています。この記事についても、マルコ福音書では美しい状況描写は全てそぎ落とされて、「2人の弟子に主イエスが現れて下さり、2人は時を移さずエルサレムに戻って同僚の弟子たちに復活の主イエスとの出会いを伝えたけれども、弟子たちはそれを信じなかった」という事実だけが語られています。13節に「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」とあります。
マグダラのマリアの場合もエマオに向かって行った2人の弟子たちの場合も、共に、復活の主イエスが目の前に現れ、確かに御自身が生きておられることを示して下さいます。そしてマリアも二人の弟子も、悲しんでいる仲間の弟子たちの許に出かけて行って、自分たちが復活の主イエスにお会いしたことを伝えています。ところが、そのような話を聞いた弟子たちは聞かされたことを信じなかったと、そういう同じパターンで2つの話が要約されていることが分かります。これは、「主イエスの復活」は、ただその話を聞かせてもらったというだけでは容易に信じることができないことだということを表しているのだろうと思います。
では、主イエスの復活を信じるには一体何が必要なのでしょうか。
復活の主イエス御自身との出会いが必要なのです。14節に「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあります。「主イエスが復活されて生きておられる。そしてわたしと共に歩んでくださる」、このこと信じるためには、聖書という書物を書店で買ってきて自分一人で読み進めれば自ずと理解が深まり信仰に至るというのではないのです。「主イエスが復活し、わたしと共に生きてくださる」という信仰は、復活して生きておられる主イエスとの交わりによって与えられるのです。
しかしそれでは、復活して生きておられる主イエスには、一体どこに行けばお会いできるのでしょうか。それは、主イエスの復活を知らされ、その主が共に生きて歩んでくださることを信じて、神のなさりようを喜び、賛美する「教会の交わり」の中で、もっとはっきり言えば、「主を喜び、礼拝している交わり」の中でこそ、私たちは主イエスにお会いするのです。主イエスが復活して自分たちと共に歩んでいてくださると信じて主を賛美する礼拝の場に、主イエスも隠れた仕方で臨んでいて下さるのです。
しかしそう言われても、それは本当だろうかと思われるかもしれません。どうすれば、教会の礼拝の場で主イエスと出会えるのでしょうか。私たちは日曜日毎にここに集まって主イエスを賛美するのですが、この礼拝の一体どこに、主が共におられるのでしょうか。
確かに私たちの肉眼によっては、主イエスがここにおられると確認することはできません。どんなに目を凝らして見回しても、礼拝の場で私たちが目にできるものは、ここに集まっている兄弟姉妹たちの姿でしかありません。目に見えたり触れたりするところには、主はおられないようにも思えるのです。
しかしそれにもかかわらず、主イエスは確かに今日も私たちのただ中に、この礼拝のただ中にいらっしゃいます。一体どんな仕方でおられるのでしょうか。主イエスは、「『わたしは確かにあなたと共にいる』という御言葉を、私たち一人ひとりに語りかけてくださるお方」として、今、共におられるのです。
14節には、弟子たちが食事をしていた時、その11人の弟子たちのただ中においでになった主イエスが弟子たちをたしなめ、お咎めになったと言われています。弟子たちは一体、何を咎められ、何をたしなめられたのでしょうか。14節の最後に「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあり、聞いたことを信じなかったことを咎められています。主イエスが弟子たちを咎められたのは、復活の主イエスを肉眼で見ながらその存在を信じなかったからということではありません。そうではなくて、せっかく主イエスが復活しておられることを聞かされたのに、そして「主イエスはわたしと共に歩んでくださった。だからあなたと共にも歩んでくださる」と聞かされたのに、その聞かせてもらった言葉を信じなかった、だから咎められたのです。
このように、聞かされた言葉を信じないのだとすれば、私たちはどうやったとしても、「主イエスが共に歩んでくださる」という信仰には辿り着けないのです。
私たちは毎週の礼拝ごとに、「主イエスが確かに十字架の死から甦られたこと、復活して私たちと共に歩んでくださること」を語りかけられます。今日のこの礼拝においても、まさに、そのことが説き明かされています。もちろん、礼拝によっては主イエスの復活の場面とは違う記事が説き明かされる場合もありますが、そういう時にも「復活して共にいてくださる主イエス」のことが語られます。そして、主イエスを十字架につけ、私たちの罪を清算しようとしてくださる神がおられ、主イエスがその神の御心に従って行動しておられることを、私たちは聖書から聞かされるのです。
聖書全体が、今復活して生きておられる主イエスを指し示し、またその主イエスを与えてくださった神を指し示しているからこそ、私たちは礼拝の中で、神について、主イエスについて、「信仰告白」をします。毎週、使徒信条(信仰告白)が私たちの口を通して語られますが、ここで主イエスのことは何と言われるかというと、「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたけれど、3日目に復活され、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられる方である」と語っています。聖書が語っているだけではなく、信仰告白の言葉を通しても、私たちは毎週、礼拝の中で、主イエスが復活して生きておられるということを聞かされています。
そして、そのことを確かなこととして、「信じてよい」と、他ならない主イエスが礼拝のたびごとに語りかけてくださるのです。主イエスはそのようにして、今も生きておられる御自身と私たちを固く結びつけようとしておられるのです。
続く15節には、主イエスが弟子たちに向かって、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われたことが記されています。驚くようなことですが、確かに主イエスはここで、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とおっしゃっておられます。
「全世界に行け」と言われても、私たちは自分一人で世界に出て行ける訳ではありません。「全世界に行け」と言われる時、私たちにはそれぞれに与えられた生活の場がありますから、私たちはそこに赴けばよいのだと思います。主イエスの言葉を聞いて世界中の人々が従う時には、それこそ世界中に、その隅々にまで主から遣わされてゆく人々が与えられるでしょう。
しかし同時に、全世界に向かって私たちが送り出されているのだとすれば、今日私たちに与えられている生活の場に私たちが送り出されて行くのだとすれば、私たち自身はもしかすると、毎日過ごす生活の場で、今よりももっと自分を主イエスに開け渡して、それこそ自分の中の全体が主を喜び生きるようになる生活へと招かれていると言えるかも知れません。
私たちは一体、主イエスを自分の中にどのようにお迎えしているでしょうか。もしかすると私たちは、自分の中の大変見栄えの良い、掃除や手入れの行き届いた客間のような場所に主イエスをお迎えして、それで良しとしているようなところがあるかもしれません。自分の中の、他人にはあまり見せたくない場所、あるいはもしかすると、自分自身ですら認めたくないような開かずの間が私たちの中にあり、そこには到底、主イエスをお迎えできないと思っているようなところがあるかもしれません。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「神さまが喜んでお造りになったこの世界の隅々に、外から隔絶されてひっそりと自分だけでいるような場所はどこにもない。たとえあなたが『こんなわたしのもとに、主は訪れてくださらない』と思っているとしても、神は、その場所にも慈しみを注いで命を持ち運ぼうとして下さる。だからあなたは、自分自身も含め、すべての神によって造られたものに福音を宣べ伝えなさい。わたしがいつもあなたと共にいて、あなたを支え慈しんで、生きることができるようにしていることを信じて、それを語りつつ生活してよいのだ」とおっしゃるのです。
そして、そういう主イエスの言葉を信じて生きようとする人には、様々なしるしが伴うと言われます。17節18節に「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」とあります。主イエスはここで5つのことを言っておられます。
「御復活の主が、今日わたしと共に歩んでくださる」と信じ、その福音を精一杯にもたらそうとする人は、神に支えられ、確かに力を頂けるのです。悪霊に捕らえられ自分のことを悪いようにしか思えなくなっている状態から、神がきっと救って下さるという希望が与えられ、今を生きる者へと変えられます。また、「新しい言葉」が与えられるとも言われます。クレオパたちがそうだったように、私たちの中には際限のない後悔や、諦め、憤りなど、出口のない繰り言がたくさんあり、私たちの中からはそのような繰り言ばかりが生まれそうになるときにも、御復活の主イエスが共にいて下さるところでは、「新しい言葉」が与えられ、そしてそれを語る者へと変えられてゆきます。私たちの中には様々な苦しみがありますけれども、そういう私たちが、「私たちよりも深い苦しみを受けられた主イエス・キリストがどんな時にも伴ってくださる。どんな時にも主イエスは離れることなく、私たちを神の憐れみと慈しみのもとに持ち運んでくださる」という「新しい言葉」を聞かされ、それを与えられて生きることができるのです。
3つ目の「手で蛇をつかむ」というのは比喩ですが、蛇は人間を誘惑して神から離させた、そういう生き物で、私たちは、人間を神から離れさせ罪の中に沈めようと策略をめぐらせるそういう勢力に対して、愚かにも捕らえられることがあるかもしれません。けれども、「それでも主イエスは、こんな愚かなわたしのためにも十字架にかかって下さり、罪を清算してくださった」ということを確かに憶える時には、私たちは誘惑に対して抵抗できるようにされるのです。自分の力で抵抗するのではなく、自分は無力に過ぎないけれど、御復活の主イエスがわたしを御心にかけ共に歩んでくださると思う時には、誘惑に抵抗して、もう一度、自分なりにあるべき生き方を生きようとする新しい思いが与えられるようになります。
そしてまた、様々に私たちを疲れさせ萎えさせようとする言葉の毒に対しても、どこまでも平らになって生きて下さったお方が共にいて下さることで、毒されて罪の中に落ちるのではなく、平らに、主イエスに伴われて生きる生活へと導かれるようになります。
キリスト者がそのように、主イエスにすっかり身を委ね信頼して生きるところでは、どんな病も、どんなに病んでいる私たちの姿も、そのまま神の下に置かれ、弱さを抱えながらも支えられて生きることができるように変えられていくのです。
主イエスによって、このようなしるしが、今、私たちにも与えられていることを、今日の箇所は伝えています。
ところでもう一度最初に戻りますが、何故この箇所がマルコによる福音書の終わりに書き加えられたのでしょうか。
前回も申し上げたことですが、この福言書は最初に旗幟を鮮明にして、「神の子、主イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しで始まります。この福音書は最初から、「主イエス・キリストは神の子であり救い主である」ということをはっきりと宣言しています。そしてこの福音書は、「私たちは神の子であるキリストに伴われている」と語りかけながら主イエスの歩みを語るのですが、そうでありながらこの福音書には、「この方こそ神の子、救い主である」と証言するような人はなかなか現れないのです。弟子たちですらそう言いません。それくらい、主イエスを「神の子、救い主」と言い表すのは難しいということを伝えています。
しかしもう一つのメッセージとしてマルコは、「この方こそ神の子、救い主であると言えば、救われる」という思いをもって、この福音書を著しました。どうすればそう言えるのでしょうか。それは、十字架の下にいたローマの百人隊長がそうだったように、「主イエスは、わたしのために十字架にかかってくださった」ということを受け入れるときに、「この方は、神さまの憐れみと慈しみをもたらしてくださるお方、まさしく神の子、救い主である」と言えるようになるのです。そしてそれが、マルコによる福音書の元々のメッセージです。
しかしどうして、そういう言い方でマルコが福音を伝えたかというと、マルコの時代には、世の中がもう間もなく終わり、新しい世界へと移っていくという希望が時代の空気として色濃くあったためでした。ローマ帝国の支配から脱して神の民として生きるようになる、そういう終わりの時が間もなく来るという思いの中で、「もはや地上を生きるのではない。私たちは神の民としての新しい生活に入る。その時に私たちは、神の独り子である主イエスを『神の子です』と言えるだろうか」という問題がありました。
ところが実際には、マルコが思いもしなかったような課題が、この福音書が記された後に生じてきました。私たちは今、マルコが思っていた終わりの時から2000年近くもの長い間、主イエスを信じ続ける世界を生きています。マルコが思いもしなかったような課題、それは、「長い時間を、主イエスを信じて生きていかなければならない」ということです。一時だけ「主イエスは神の子である」と言えばよいのではなく、その信仰をずっと持ち続けて生きるためには、一体どうしたらよいのかという課題でした。
そしてその問いに、今日の箇所の16章9節から20節は答えています。主イエスは肉眼では見えませんが、確かに復活し、私たちの間に生きておられます。そして私たちは、その主イエスが「わたしはあなたと共に生きる」と呼びかけてくださる招きを繰り返し繰り返し聞かされています。その言葉を真実に受け止め、「私たち自身がその福音に慰めと勇気を与えられながら生きる」、そして「その福音を持ち運んでいく人になる」ことを、今日の箇所は語っているのです。
今日も御復活の主イエスが、御言葉を通して私たちと共に歩んでくださいます。御復活の主イエスが私たちに力を与え、勇気と希望をもたらしてくださっていることを憶えて、ここからの歩みに送り出されたいのです。お祈りを捧げましょう。 |