聖書のみことば
2023年7月
  7月2日 7月9日 7月16日 7月23日 7月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月9日主日礼拝音声

 唯一の神、主
2023年7月第2主日礼拝 7月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章1〜3節

<1節>神はこれらすべての言葉を告げられた。<2節>「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。<3節>あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 ただ今、出エジプト記第20章1節から3節までを、ご一緒にお聞きしました。
 「モーセの十戒」の始まりの言葉です。この十戒だけに限ったことではないようですが、旧約聖書の申命記31章10節11節に、「モーセは彼らに命じて言った。『七年目の終わり、つまり負債免除の年の定めの時、仮庵祭に、主の選ばれる場所にあなたの神、主の御顔を拝するために全イスラエルが集まるとき、あなたはこの律法を全イスラエルの前で読み聞かせねばならない』」と記されています。古い時代のイスラエルでは、7年毎に、民全体が集まる仮庵の祭りの時に十戒をはじめとする律法が朗読されていたことが、ここから聞こえてきます。律法が朗読されることを通してイスラエルの民は、自分たちが神の恵みの下に生きてきたし、また今生きていることを憶えるようにされたのでした。
 仮庵の祭りには二つの性格があります。まず仮庵とはテントのことですが、より古い仮庵祭の内容としては、エジプトから脱出したイスラエルの民がテント暮らしをしながら荒れ野を彷徨った40年間を神が守り導かれたことを憶えるという内容です。もう一つは、荒れ野の40年の後、神が民を約束の地に入れてくださってテント暮らしの必要はなくなり、定住の地で、農作業が一段落して収穫が豊かに得られたことを感謝する、秋に行われる祭りという内容です。
 初夏の今、秋にはまだ早いのですが、私たちは丁度まる2年程を費やしてマルコによる福音書全体を聞き終わり、神が一つの区切りを与えてくださったことを感謝しながら、このタイミングで旧約聖書の「モーセの十戒」の言葉に耳を傾けてみたいと思いました。しばらく十戒を続けて聞いて行きます。秋の収穫の頃までかかるでしょうか。この戒めの言葉を聞きながら、私たちが神の恵みの下を確かに持ち運ばれ、神のものとして生きるように招かれていることを思い返したいと思います。

 出エジプト記第20章に戻りますが、3節に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。非常にはっきりとした警告の言葉です。こういう強い言葉を聞かされると、思わず反発したくなるかもしれません。こういう断言するような物の言い方に、私たちはなじめません。もし自分一人だけが専門家で、「世の中の人々は、まるでなっていない」というようなことを語る人に出会ったら、私たちは決して良い気持ちはしないだろうと思います。そういうことを言う人に対しては警戒し、つい評価が厳しくなって、どこかに落ち度を見つけられないだろうかとアラ探しをしてみたい気持ちになるでしょう。
 しかし、神がここでおっしゃっていることは、そういうこととあまり違わないように思えます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。この世の中にどれほど神々があろうと、他の人たちが何を言ったり考えたりしているかは関係なく、あなたには、神はただ一人だけである。世の中にたくさんの神々があって、その頂点にわたしがいるということではない。あるいは、多くの神々の中からあなたがわたしを選び取るのでもない。あなたにとって神はただ一人、即ちわたしだけだ。他の選択肢はないのだ」と神はおっしゃるのです。

 どうして神はこのように強い言葉をおっしゃるのでしょうか。神は御自身の面子のためにおっしゃっているのではありません。創世記に語られているように、神はこの世界をお造りになった造り主です。造り主として、むしろ御自身がお造りになった世界とそこに生きる私たち人間一人ひとりのことを思い、この世界をお造りになった父なる方として、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とおっしゃるのです。「わたしをおいてほかに神があってはならない」ということは、これを逆側から考えてみますと、実際には造り主でも真の神でもないのに、私たちに対して、いかにもこれこそ神だと思わせるような勢力があるということではないでしょうか。そのように考えてみますと、確かにいくつか思い当たるものがなくもないのです。
 今の時代ですと、大変思いがけないことが次々と起こり変化を予測できないように感じさせついて来させる、この世自体が、あたかも神であるかのように感じる場合があるかもしれません。数年前には思いもよらなかった感染症が世界中で流行し、そのために私たちの暮らし方は以前とは変わってしまいました。人間の結びつき方がすっかり変わってしまったように感じている人がいます。今後も人と人との付き合い方、距離には気を配りながら暮らさなくてはならないと考える人もいます。そういう人は、従来のような交わりの形ではなく、互いに直接触れ合うことの少ない新しい交わり方をすることが大切だと考えたりします。他方、そのように人々を恐怖の底に突き落としてきた感染症が、今ようやく終息に向かい始めているのではないかと考える人たちもいます。そのような人たちは、今こそ他の人たちに先んじてごく近しい交わりを提供しなければならないと考えます。人々が親密な交わりに飢えているこの時こそがチャンスであると言ったりします。
 しかし考えてみますと、このように一見互いに違うことを言い合っているようでありながら、いずれも、「時代に合わせて生きていかなければならない」と、自分自身が考えている今の時代、今の世界に相応しくなければならないと思っているのです。 ですから、距離を取ろうと思う人も、近しくしようとする人も、それは決して客観的な意味でこの世を語っているのではありません。多分にその人の主観が入った、その人の目から見たこの世です。そう考えますと、今日多くの人たちがそれぞれに従うべきだと思っているこの世とは、実は銘々が考えているこの世であって、そしてそれは自分の思いどおりになるこの世だというふうにも言えるでしょう。自分自身の考え方、思いこそが、真の神にとって代わって神の玉座に着きたがる第一の者だと言えるかも知れません。

 けれども聖書は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という神の戒めを伝えています。神がそうおっしゃるのであれば、真の神にとって代わろうとする者がどういう性質の者であるのかということについても、ここには告げられているのではないでしょうか。そういう思いでもう一度、聖書に目を向けますと、2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と述べられていることに気づかされます。神は御自身を、「エジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と自己紹介しておられます。この言葉に照らして考えますと、真の父なる神の許に生活することから私たちを逸らして神にとって代わろうと誘惑する、いわゆる神々というものは、まさしくここに言われている「エジプトの国」であり、同時に「奴隷の家」と言われるような状態をもたらすものではないかと思うのです。真の神ではない、いわゆる神々なるものに影響され引き摺られてしまいますと、私たちは本当の自由を失って奴隷にされてしまうことになるのではないでしょうか。いわゆる神々は、初めのうちは、いかにも私たちに自由を与え自由を実現させてくれる豊かさを備えているかのように思えるのです。ところが、自分は自由だと思い込まされ好きなように振る舞ってゆくうちに、次第に、自分の思いや願いやそれまで生きてしまった人生の事柄にがんじがらめにされてしまっている、自分は騙されていたということに気づくようになるのです。
 ある人はその事情を、「何でも自分の自由にできると思ってきた飼い犬に、ある日、思いがけず手を噛まれるようなことだ」と喩えました。自分の思いのままになると思っていた飼い犬に噛まれると、その傷口から細菌が入り込んで私たちの全身を蝕んでゆくのです。面白い言い方です。しかし確かに、私たちが真の神から引き離されるということには、そんなところがあるように思います。「聖書の神など、どこかに置いておけばよい。聖書の神というのは言葉をもって迫り、『わたしの前を生きるように』と語りかける。そのように面倒な神に従うよりも、御しやすく思い通りになり、力を与えてくれる都合のよいものがたくさんあるのだから、それらに従って生きてゆけばよい」と思わせるのです。最初のうちは、ただ「あなたに力を与えましょう」と背中を押してくれるだけのもののように近づいて来ます。そして私たちは、そういうものが好きなのです。私たちは、自分にとって都合よく働いてくれ、自分がなりたいものになれるよう背中を押してくれるものを歓迎して、そしてそれがまるで自分の人生のお守り、支えであるかのように思い込んでしまうのです。古代エジプトの国が大変栄えていたように私たちをも栄えさせ、大きな力を与えてくれると、一見思えるのです。
 しかし、そのように私たちを巧妙に捕らえていくものは、やがては私たちを底なしの欲求や欲望の中に引き摺り込んで、がんじがらめにしてしまいます。何故かというと、私たちの欲求や欲望には際限がないからです。私たちは様々なものを自分にとって都合のよい神々やお守りのように用い、自分の生きたいように生きてしまうと、ある日急に、自分が自分の欲求の牢獄に捕らえられていて全く自由でないことに気がつくようになります。自分の実現したいことや自分のなりたいものにばかり心を奪われてしまい、本当の自分、現実の自分と和らぐことを知らずに生きてしまうためです。神は、私たちがそのような惨めな者とならないように、御自身が造り主である真の神なのだと伝えようとして、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と語ってくださいます。
 3節の言葉をこのように考えてみますと、この言葉は、神が真の自由を私たちに与えようとして語っておられる「自由の憲章」とでも言うべき言葉であるように思えます。神は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とおっしゃりながら、実は私たちに、「何にも捕らわれることのない自由な人間となって生きていくように」と呼びかけて下さっているのです。

 そうであるならば、私たちは喜んでこの呼びかけに聞き従い、歩んでゆくことが願わしいことだろうと思うのです。ところが実際の私たちは、なかなかそのように素直には応答しようとしません。本当に残念なことですが、実際にそうなのです。
 私たちはもちろん、造り主である唯一の神にのみ従い、ただ主にのみ信頼を寄せるべきだということを頭では分かるつもりでいるのです。ところがそうでありながら、神の恵みから出ているその命令に、なかなか従うことができません。旧約のイスラエルの民の歴史を見てもそうですが、エジプトの奴隷暮らしから助け出されたかつてのイスラエルの民は、荒れ野の生活において日々を神に支えられていることを喜ぶよりも、エジプトの肉鍋を恋しがりました。いわゆる神々の支配というものにふと心を惹かれてしまい、「エジプトではたくさんの肉を食べることができたのに、今はとても貧しい」と言ってしまうのです。 私たちは、真の神に従おうと心では決めても、肉体では従えないようなところがあって、それほどに、私たちは弱く無力なのです。

 しかし、私たちがそのように神に従えないならば、神はわたしたちを見限ってしまわれるのでしょうか。せっかく御自身が真の神であると名乗って出て下さったのに、それに一向に聞こうとしない私たちを見捨てておしまいになるのでしょうか。
 そうではありません。神は2節で「わたしは主、あなたの神である」と言われます。この言葉を聞きますと、多くの方は、「私たちは神さまに、主である方として従わなくてはならない」、そういう招きの言葉であると思って聞くだろうと思います。しかしそうではないだろうと思います。十戒を頂いたイスラエルの民が、いつも神に信頼を寄せ神の民として相応しく生きていたかと言えば、全然そんなことはありませんでした。イスラエルの歴史は、むしろ、神に対する不信仰と不従順、神から離れていく背きの連続であったと言ってもよいような歩みでした。けれども、そういう人々に向かって神は、「わたしは主、あなたの神である」とおっしゃってくださるのです。
 これは、「わたしはあなたの神なのだから、あなたはわたしに従って来なければならない」という命令なのではなく、神の方から「わたしはいつも、あなたと共にいる」と約束して下さる言葉です。「わたしがあなたの神であり、あなたといつも共にいる。だから思い煩わなくてよい」と、神が御言葉をかけてくださっているのです。

 「神がいつも共にいて下さる」ことを、神は十戒をお与えになる直前の箇所、19章3節から8節で語っておられます。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」とあります。神とイスラエルの間にこういう対話があって、その上で十戒が与えられました。
 注意して聞きたいのは、この対話の中で、神がイスラエルの人々に向かって、「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」と教えておられることです。鷲のヒナは、自分で十分に空を飛べると思って羽ばたき、天翔けようとします。しかし実際にはまだ力が弱く無力なため、安全な巣から落ちて翼と足を痛めてしまいます。鷲の親鳥は、そういうヒナを捜し出して上から舞い降り口にくわえて、再び元の巣へと連れ戻します。そのようなことを繰り返しながら、ヒナは少しずつ強められて、自分で空を飛べるようになるのです。神がイスラエルの民を鷲の翼に乗せてここまで持ち運んできたとおっしゃるのは、イスラエルの民が砂漠で見てきたこのような風景から示されることです。
 私たちはまさに、神という親鳥に繰り返し引き上げられ守られて来たからこそ、今日ここまで持ち運ばれ、この礼拝に集う神の民の一員とされて歩んでいるのでないでしょうか。私たちは実にしばしば、真の自由を得させて下さるただお一人の神に従うというあり方から外れて転落し、そのために傷を負ってしまいます。神の言葉には耳を傾けず、自分で生きていけると思って生き、そしてさまざまな傷を負うのです。
 けれども神は、そんな私たちを繰り返し御前に呼び返して下さり、もう一度ここから自由な者として生きてゆけるようにして下さいます。どんなに私たちが手ひどく失敗し、深く傷ついても、なお神は私たちを見捨てないことをお示しになるために、遂には独り子である主イエスに人の姿をまとわせ、この世界に送ってくださり、私たち人間への熱情を示されました。私たちがどのように失敗するとしても、神がきっと私たちを捕らえ、繰り返し「あなたは生きてよいのだ」と呼びかけ、生きる者として下さいます。

 私たちは、自分の過ちや失敗、弱さや惨めさにも拘らず、このような主の戒めが語られていることを感謝しながら、聞き従って生きる者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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