聖書のみことば
2023年7月
  7月2日 7月9日 7月16日 7月23日 7月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月16日主日礼拝音声

 偶像
2023年7月第3主日礼拝 7月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章4〜6節

<4節>あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。<5節>あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、<6節>わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 ただ今、出エジプト記20章4節から6節までを、ご一緒にお聞きしました。4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」とあります。「十戒」の2番目の言葉です。
 「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言われます。この言葉を聞くと思い出すことがあります。以前お仕えしていた教会で、ある方から尋ねられたことがありました。その方は人形作家だったのですが、ご自身の仕事が聖書のこの戒めに反するのではないかということを心配しておられ、「わたしは人形を作っているけれど、それは神さまに反することをしているのだろうか」というお尋ねでした。その時には、「この2番目の戒めは、いわゆる人形を作ることを禁止する戒めではありません」と返事をしたのですが、そう答えながら、ふと、「『あなたはいかなる像も造ってはならない』ということを、この方は、人形という物質的な形を持つ品物だと思われたけれど、神がここで語っておられる『像』とは、実際には何のことを言っているのだろうか」と思いました。

 この2番目の戒めについては、しばしば「偶像礼拝を禁止する教え」と言われます。確かにその通りなのですが、では私たちにとっての偶像とは、実際のところは何なのでしょうか。必ずしも形を持つ品物­-たとえば、木に彫りつけたり、金や銀で鋳て造る神々の像だけではないかもしれません。品物としての形を持っていないとしても、私たちにとって偶像となり得るものがあるのではないでしょうか。
 先週の礼拝では、十戒の最初の言葉から神の御心について聞きました。「わたしは主、あなたの神、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と神は言われました。その真の神、「わたしが主」であり「あなたの神である」と自ら名乗って下さっていた方-別の言い方をすれば、天地万物を御言によってお造りになり私たちそれぞれに対しても造り主として出会って下さるただお一人の方-この方だけが真の主であり神であって、その神でもないのに、私たちにとっていかにも力があるように思わせ私たちを従わせ縛りつけようとする色々な物、そういうすべてが「偶像」となると言えるのではないでしょうか。そう考えますと、昔から偶像というと木や石で作られた動かない物と言われますが、今日の偶像というのはそれだけとは限らない、品物としての形を持っていなくても、それでいて私たちの心をしっかり掴んでがんじがらめにしていくものということかもしれません。

 また、この2番目の戒めの言葉から思わされることがあります。それは、偶像が真の神でもないのに私たち人間を誘惑し、まるで自分が神だと思わせるような働きをするものであるのならば、「あなたは偶像を造ったり、それにひれ伏したり、仕えたりしてはならない」というこの2番目の言葉は、先週聞いた「ただわたしだけがあなたの神である」と宣言しておられた最初の言葉の丁度裏返しのことが教えられているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、どうして神は「十戒」の中で同じ事柄を二度おっしゃるのでしょうか。「あなたの真の主である神は、わたし一人だけである。だからあなたは、わたし以外に神の像を造ったり、拝んだり、仕えたりしてはならないのだ」と神がおっしゃっておられるのであれば、先週聞いた戒めだけで十分ではないかと思います。どうしてそれに加えて、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」とわざわざ言われるのでしょうか。まるでたたみ掛けるように2つ目の言葉を語っておられるのには、何か深い訳でもあるのでしょうか。神の側ではどうしても、この2つ目のことも伝えておかなくてはならないとお考えになる理由があるのでしょうか。まさにその通りなのです。

 神が2番目の戒めの言葉を敢えておっしゃるのには、ある具体的な事情がありました。まさに神の民とされている人々が、真の神をさしおいて、真の神をないがしろにして、自分たちのために神の像を造るという愚かな振る舞いをしてしまったのでした。この2番目の戒めの言葉は、神の民イスラエルが実際に犯した過ちに神が目を留めながら語っておられる言葉です。
 一体いつイスラエルの民は、真の神をさしおいて神の像を造ったりしたのでしょうか。それは、神がシナイ山の上でモーセに出会って下さり、十戒の2枚の石の板をお与え下さっていた、まさにその時でした。神が御自身の民のために十戒を与えて下さった、まさにそれと同じ時、山の麓では、神に覚えられ守られ持ち運ばれて来たイスラエルの民が、そうであるにも拘らず、神に背いて自分たちの造った金の像を拝むということをしていました。自分たちをこれまで確かに導いて下さった見えざる神に従う代わりに、自分たちにとって好ましく貴重に思える金を用いて造った子牛の像を有り難がり、そしてそれが神に代わるものであるかのように歩み始めていたのです。神は山の上でモーセに十戒を与えて下さりながら、同時に山の麓で偶像を造ってそれに仕える人々の姿を御覧になって、そのために、この2番目の戒めの言葉をお語りになっているのです。
 ですから、私たちがこの2つ目の戒めの言葉を深く受け止めるために、どうして神に導かれていたはずのイスラエルの民の間に金の子牛が生まれるようなことになったのかを、聖書からもう一度聞き取ってみたいのです。

 発端は、この時イスラエルの人々がいた場所が「荒れ野だった」というところにあります。出エジプト記19章1節に、「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」とあります。旅が始まってから「三月目」ですから、3か月におよぶ旅というのは、すでにかなりの長旅です。しかしイスラエルの人々がこの先経験する旅の長さから考えると3ヶ月というのは、まだ、ほんの入り口にすぎません。このような旅がこの先何年何十年続くのか、イスラエルの人々には想像もできませんでした。ただ、今いる場所が荒涼とした荒れ野で、そういう状況に導かれていることでイスラエルの人々に不安が兆します。こういう時には、一体何が最も大事になるでしょうか。荒れ野であっても自分たちのことを頼もしくも導いてくれるリーダーでしょう。確かな導き手が共にいてくれれば、荒れ野にあっても心強いのです。目下の荒れ野の生活の中で自分たちを導いてくれる導き手は誰なのかということが、この時のイスラエルの人々にとって切実な問題でした。そしてその問いに対して、神は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」とお答えになりました。「わたしだけがあなたの主であり、あなたを導く導き手である」と言われました。
 ここで不思議に思われるかもしれません。これまで3か月の間イスラエルの民を導いて来られたのは、他ならない神御自身でした。昼は雲の柱、夜は火の柱の中に御自身の姿を隠しながら、しかし間違いなく神はイスラエルの民を導いて来られたはずです。それなのにどうして、イスラエルの人々の間にこの時、自分たちを正しく導くのは誰なのかという問いが生まれたのでしょうか。

 こういうイスラエルの姿を聖書から聞かされながら、つくづく知らされます。私たちは神が導いてくださり、全て用意して下さって従うように招かれる時、そういう神の至れり尽くせりのなさりよう、御業の前にあっても、そのことをただ感謝して平らに受け取るということが本当に苦手なのです。エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイ山の麓まで辿り着くことができたのは、神の昼夜を問わないお導きがあったればこそです。神が行く道を示して下さればこそ、イスラエルの民はここまでやって来ることができました。ですから、彼らにとっては荒れ野ですが、しかし彼らが今ここにいるということ自体が、神が確かに民の一人ひとりを導いてくださったことの証拠のようなものです。
 ところがそうであるのに、イスラエルの人々は、そのことを平らには考えられないのです。ここまで来ることができたのは、その時その時、自分たちが正しい道を見出し、神に従ったからだと思ってしまっています。この旅を導いたのは神だというのではなく、自分たちが正しい道を歩んだのだと自分中心に考えるのです。そうなると、これから先も自分が中心に歩んでいかなければならないと考えます。そこで、「一体私たちは誰に従っていくのがよいのか。正しい導き手は誰か」という問いが生まれてきます。
 信仰が自分の心の内の事柄であり、自分の内面の決断によることだと考えてしまうと、神の前に平らに感謝することを忘れ、そしてそういう時には、自分の心の内に兆す不安に対処できなくなります。なぜならば、私たち自身は決して神ではなく、従って将来のことがすべて分かる訳ではないからです。自分の決断で、これまでも、またこれからも歩むのだとすれば、不安になるのは当たり前のことです。
 イスラエルの民も、一応は、神が自分たちをここまで導いて下さったことを分かっています。けれども「神に従う」こと自体が自分の決断や判断の結果だと思っている、自分の心の持ちようが信仰であると思っていれば、どうしても不安が兆します。そして、その不安は次第に恐れに変わっていくのです。不安を突き詰めれば、自分が何も知らないことが分かるからです。そして不安が恐れに変わる時に、本当の導き手は神しかいないことを分かっていながらも、つい目に見えない神の導きの代わりに、肉眼で見える、あるいは心の中に思い描けるものに寄り頼みたい気持ちに駆られます。そしてそこに偶像が生まれてくる隙があるのです。
 この時イスラエルの民が置かれていた状況を考えますと、モーセは十戒を頂くためシナイ山に上り、40日40夜戻ってきません。指導者がいない不安が、山の麓の民の心を捕らえます。もしかするとモーセに何かの事故があり、もう自分たちの許に戻らないのではないかという不安がよぎるのです。そしてこの不安は、「これからどうなるのか」という恐れに変わります。神の民とすれば、これは普通の精神状態ではありません。神が共にいてくださるなら、普通であれば安心していられるはずですが、信頼を見失うと異常な状態に陥るのです。
 イスラエルの民はすっかり恐れに捕らわれ、「目に見えない神を頼り、信仰に歩む」という冒険ができなくなるのです。信仰によって歩むということは、ある意味、気力が必要です。しかし気力が失われると、いかにも自分を確かに導いてくれそうなものに寄り頼もうとし始めます。それがイスラエルの民の場合には、金の子牛という形をもって現れました。
 ですから、形の上では金の子牛が偶像ですが、その偶像が生まれる原因は、「イスラエルの民の不安」にありました。

 このように偶像が生まれてしまったことを聖書から聞きますと、思えば私たちもまた、イスラエルの人たちとよく似た状況になってしまうことがあり得るのではないでしょうか。もちろん私たちは、金の子牛を作ったりはしないでしょう。しかしそれでも、自分の心にイメージできる何かに寄り頼んで生きようとしてしまう時があるかもしれません。肉眼では見えない神の導きが「いつもある」という信頼から、ふと逸らされてしまうことがあるのではないでしょうか。自分の頭の中で全てのことを考え、自分が確かそうに思えるものに寄り頼み、自分なりの人生の計画を立てて、それに寄りかかろうとすることがあるかもしれません。神がわたしを顧み、憐れみと慈しみをもって持ち運び導いて下さる、神の保護の内を生きるという信仰を手放して、自分の立てた計画と人生プランを先立たせて生きようとする、その際によくあることは、自分の思い描く計画には何の保証もないにも拘らず、きっとその通りになると無理やり自分に思い込ませながら力づくで生きてゆこうとするのです。そしてそのようなあり方では、不安に捕われざるを得なくなるのです。
 果たして私たちの人生の中に、全ての信頼を寄せそれに寄りかかって歩めると言えるほど確かなものがあるのでしょうか。私たちの目で見たり感じたりできるものの中には、そのようなものはないのではないでしょうか。目で見ることのできない神に信頼して寄り頼んで生きることはできます。しかし目に見えるもの、生活の中で直に触れたり感じたりできるものの中には、私たちを確かに成り立たせてくれる拠り所となるものは無いと言わざるを得ません。いくつか例を出して考えてみたいのです。

 たとえば、人生を確かなものとしてくれると考えるものに、「お金」があります。「金銭さえあれば何とかなる」と考える人は多いでしょう。日本政府も、晩年に2500万円程の蓄えを持っていれば取り敢えず安泰だという目安を示して人心を不安にさせたことがありましたが、本当にお金があれば安泰なのでしょうか。かつてわたしは莫大な財産を持つ方の最晩年に遭遇したことがあります。その方は莫大な財産を持つがゆえに、いつも自分の持つ財産が誰かに狙われているのではないかという心配を抱えておられました。それは本当にそういうことがあったのかもしれませんし、妄想だったのかもしれません。しかし、裕福であることが人間を支配することがあると知り、驚きました。お金があるから安泰なのではありません。財産を守らなければならないという思いに取り憑かれて、実際にこの方は、誰も寄せつけず孤独に暮らしておられました。
 あるいは、お金が無くても愛する者たちがいれば安心だという考え方があるかもしれません。確かにごく親しい人間関係は、私たちを支えてくれます。家族や近しい人間の交わりに支えられている人生は幸いだと言えるでしょう。けれども人間は、その心も体も移ろい易いところがあります。昨日まで盤石であり支えてもらえると思ってきた間柄が、相手の都合や状況によってすっかり変わってしまうということもあるのです。人間関係は、それが支えとなっている時には頼もしいものですが、しかしそこに永久な確かさがあるかと言えば、それは無いのです。ですから近しい人間関係も、決して私たち自身の確かさを保証してくれるものにはなり得ません。

 そうであるとすると、私たちにとって自分を成り立たせてくれる本当に確かなものは何も見当たらないということになるのでしょうか。まさしくその通りだと思います。
 古のイスラエルの人々にとって、最も確かに思えたことは、自分たちがシナイの荒れ野の中に置かれているという現実でした。自分が荒れ野にいるという根本的な事実を思って不安になったのでした。けれども私たちも、自分が今それぞれに置かれ生かされている人生の風景を思うならば、それは荒れ野に近いと言えるのではないでしょうか。どんなにお金を持っていても、近しい人間関係に恵まれていても、社会的な立場や身分があるように見えていても、私たちは一人で、裸で生きる他ない、そういうところがあると思います。私たちは誰であっても、この世を生きる上では、荒れ野を彷徨う放浪者のようなところがあるのです。

 しかし、改めて言ってしまえばそうであるのに、私たちはこれまで自分が生きてきた中で、不安で不安でたまらないという気持ちを、あまり持たずに生きて来たのではないかと思います。それはどうしてでしょうか。しばしば私たちの人生は見通しが利かず、これからどうなるか分からないという経験が多くあります。しかしそれでも不安がらずに生きて来ることができたのは、私たちが、「いつも支えが与えられている」とどこかで思っていたからではないでしょうか。私たちの人生にはいつも、ある方の声が響いていたのではないでしょうか。即ち、「わたしは主、あなたの神である」、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、「わたしは道であり、真理であり、命である」、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、これ以外にも、時に応じてたくさんの御言葉を聞かせて下さる方が私たちの旅路に同伴してくださり、いつも御言葉をもって導いて下さったので、私たちはあまり不安がらず、恐れに捕らわれることなく歩んで来れたのではないでしょうか。

 そうであれば私たちは、たとえ荒れ野の中を辿っているように感じる時でも、この方の御声に耳を傾け、目に見えない神の導きに信頼して生活するのが良いのではないでしょうか。ですからこの方は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」とおっしゃいます。これは、「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。そうではなくて、ただわたし言葉を聞いて、わたしの言葉によって、あなたの前に拓かれる道を歩んで行きなさい」という神の勧めです。
 そうだとすると、この2番目の神の言葉は、偶像礼拝の禁止と言われる以上に、神に対してどのような信頼の仕方をするべきかを教える言葉にもなるでしょう。即ち、目に見えることイメージできることに寄り頼んだり一喜一憂したりするのではなくて、神の御言葉に耳を傾け、御声を掛けて下さる方にこそ信頼して、その神を礼拝して生きることが最善であることを知らせてくれているのす。

 偶像と真の神を区別する大きなことは、物質の有る無しではなく、御声を聞かせてくださるかどうかだろうと思います。いわゆる偶像は、いかにも良さそうではあっても何も語らないのです。けれども聖書の真の神は、私たちに繰り返し繰り返し御言葉を語りかけ、「わたしが主である。あなたを導く者だ」と言ってくださるのです。
 真の神は、今日も私たちに語りかけ、私たち一人一人を「わたしの民の一人だ」と言って、持ち運んでくださろうとします。「あなたはいかなる像も造ってはならない」とおっしゃる神が、今日も御言葉をかけて下さり、私たちを慰め、勇気を与えて、生きる者として下さることを感謝したいと思います。
 そしてここからまた、主への感謝を表す生活へと送り出されてゆきたいのです。お祈りを捧げましょう。

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